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おやすみなさい/【吉澤嘉代子 エッセー連載】ルシファーの手紙#16

  • 2026.4.10

ああ疲れた。ほんとうに疲れた。とことん疲れた。このうえなく疲れた……。大人の宿題は終わらないね。気づいたらいつも瀬戸際にいるのはなぜ。締切、返信、約束、伝えそびれた言葉。今日も完了できなかったTO DOリストが増えていく。自分よりも働いている人がいるとわかりながら、己の体力の無さに、要領の悪さに落ちこむ。

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腹が減った。頭が動かない。HPを使い果たしたこの身体に一体何を入れてやろうか。ええい、今夜は何を食べてもよしとしよう。こんな日はラーメンだ。

食券を買い、列に並ぶ。少しくらいなら待てる。毎度一番スタンダードな品を頼んでしまう。冒険とは元気な人間がすることなのだ。少し前に流行した曲が流れる店内では、全員がラーメンと対話するように真剣に麺を啜っている。しばらくすると、店員の「お待たせしました」とともに、湯気が立ち昇るどんぶりがやってきた。

熱いスープには背脂がきらきらと照っている。葱、海苔、メンマ、チャーシュー、トッピングした煮卵、愛してる。まずはれんげでスープをひとくち、五臓六腑に沁み渡るという表現は、ラーメンのためにあると思う。次に麺を啜る、つるつるとした食感に、すでにあった食欲の上から猛烈な食欲がレイヤードされていく。卓の上に置かれた胡椒や酢を追加しながら、私は夢中で幸福を頬張った。

引用----

世界じゅうのラーメンスープを泳ぎきりすりきれた龍おやすみなさい

『たんぽるぽる』(雪舟えま/短歌研究社)

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読むたびに優しく撫ぜられるような心地になる歌だ。みんなの心を満たすためにすりきれた龍が静かに息をしている。

貪る箸を止めた。どんぶりの底に、わずかに残ったスープが揺れている。胃のあたたかさが身体の輪郭をゆるめて、瞼が少しずつ重くなる。

今日も何かに追われ、何かに応え、何かに怯え、何かを貫いた。私のなかの龍は、きっともう鱗がすりきれて羽ばたけない。今はただ食後の余韻のなかで目を閉じている。

店を出ると、夜風が頬に触れた。さっきまで身体の内側にあった熱が、ゆっくりと外気に溶けていく。街はまだ動いている。信号は律儀に色を変え、自転車が通り過ぎる。

今日はもう昇らなくていい。どんぶりの底で少しだけ眠ろう。誰かが「おやすみ」と言ってくれなくても、今夜は自分で言う。すりきれた私、おやすみなさい。

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