1. トップ
  2. 恋愛
  3. 「帰るから夕飯用意しておきなさい!」着信拒否して旅行に行った義母。私「いま葬儀中なので」真実を知った義母が青ざめたワケ

「帰るから夕飯用意しておきなさい!」着信拒否して旅行に行った義母。私「いま葬儀中なので」真実を知った義母が青ざめたワケ

  • 2026.3.24

義母と同居を始めて3年。最初のうちは良くしてくれた義母ですが、それは長くは続きませんでした。私はいつの間にか、この家の「家政婦」になっていたのです。

朝起きると、義母のメモが食卓に置いてあります。今日やるべき家事の一覧です。庭の草むしり、床のワックスがけ、靴磨き、物置の整理。最後には必ず「完了したら報告すること」と書き添えられていました。


「主婦としての自覚が足りない」「手際が悪い」「結果が出なければ意味がない」


言葉は毎回違いましたが、根底に流れるメッセージはいつも同じでした。

『あなたをここに置いてあげているんだから、黙って働きなさい』


義母に言いつけられた仕事が多すぎて、昼食を取れない日が何日も続くこともありました。昼食が取れたとしても、台所に立ったまま、冷めたおにぎりをかじって作業に戻る。それが普通になっていったのです。

最初は悔しくて夜に泣いていましたが、やがてそれすら面倒になっていきました。感情を表に出すエネルギーすら、もう残っていなかったのです。


夫は多忙で出張が多く、いつも疲れた表情をしていました。これ以上夫につらい顔をさせたくない……そう思った私は、嫁姑問題について夫に話すのを諦めました。家にいない夫に言っても何も変わらない、もしかしたら夫が間に入ることでますます悪化するかもしれないとも思いましたが、現状を変えるのを、もはや諦めていたのです。

壊された母の形見

そんな生活が続いていたある日、義母が突然「1カ月、温泉に行ってくるから」と言い出しました。温泉で体の不調や病気の回復をはかるのが目的だといいます。

しばらく義母から解放される……。そう思っていたら、義母は出発直前にとんでもないことを告げたのです。

「そうそう、あなたのエメラルドのネックレス、あのままだと少し古いでしょう? 今度、温泉旅館の食事会で借りようと思っていたんだけど、あのデザインじゃ私が着けるには野暮ったくてね。石はいいものなんだから、知り合いの店に頼んで今風に直してもらったの。感謝してほしいくらいよ」

怒りでも悲しみでもなく、吐き気が込み上げてきて、私は思わず手で口を押さえました。

そのネックレスは、亡くなった私の母の形見だったのです。

母が若いころから大切にしていて、私が嫁ぐ前に「お守り代わりに持って行きなさい」と手渡してくれたもの。普段使いするには惜しくて、でも手放すなんて考えられなくて、ケースに入れて大事に大事にしまっておいた――それを、義母は勝手に「古臭い」と決めつけ、もう、私の知っているあのネックレスではなくしてしまったのです。

「……どこのお店に、出したんですか」と震える声で聞くと、義母は「もう頼んであるんだから、今さら聞いてどうするの」と一言。控えも捨てたと言いました。

私が母の形見であることを告げても、義母は「リメイクしてあげたのよ? 感謝こそされても、責められる筋合いはないわ。あなたのお母さんもあの世で喜んでるはずよ」と言うだけでした。罪悪感のかけらも感じられませんでした。

「あ、旅行中は連絡してこないでね? 今回はちょっと事情があるの。せっかくの温泉で、あれこれ邪魔されたくないのよ。必要なら私から連絡するし……そうだ、あなたの番号、着信拒否にしちゃお。これで身も心も休めるわぁ」

そして、義母は本当に私の番号を着信拒否にして、出て行きました。大掃除と不用品の処分を私に「宿題」として言いつけて。

私は自室に戻り、エメラルドのネックレスが入っていたケースを開きました。当然、そこには何もありません。それでも、なぜか私はスマホをそこに向け、写真を撮っていました。購入時の保証書だけが残っており、そこに母の形見がたしかにあったことを示していました。

義母不在の葬儀

1カ月後――。

義母が温泉地から帰宅する日の、午前のことです。義母からメッセージが届いていました。

「今から帰るから、夕飯を用意しておくこと」

数時間後、再びメッセージが立て続けに鳴りました。

「なんなのこれ!」

「家事が全然終わってないじゃない!」

「ごはんはまだなの!?」

「洗濯もやりっぱなしじゃない!」

私は一度だけ、返信しました。

「すみません、お義母さん。いまは葬儀中なので、帰ったらやります」

すぐに既読がつき、返信が来ました。

「葬儀?」

「誰が亡くなったの?」

「あなたの親戚?」

「いいえ、夫の祖父……お義母さんの義理のお父さまですよ」

すぐには返信が来ませんでした。

画面の向こうで、義母が言葉を失っているのがわかるようでした。

やがて、短いメッセージが届きました。

「……冗談でしょ?」

「冗談ではありません」

それきり、返信は途絶えました。

実は、義母が温泉から帰宅する数日前、夫の祖父が急逝していました。持病があることは知っていましたが、それでも突然のことです。

私はすぐに義母へ知らせようとしました。しかし着信拒否されていて、行き先の温泉宿も「知り合いに教えてもらった」としか聞いていないため、連絡ができません。その後も何度も連絡を試みましたが、やはり一切つながりませんでした。親族にも確認しましたが、誰も具体的な場所を知りませんでした。


海外出張中の夫からも連絡してもらいましたが、義母はそもそもスマホの電源を切っているようで、やはり連絡ができませんでした。それ以上の手立てはありませんでした。

後になって義母本人の口から聞かされたのですが、義母は本当は療養のために出かけたわけではありませんでした。義父の死後に親しくなった男性と温泉地で会っていたのです。だから行き先を曖昧にし、私だけでなく親族からの連絡も避けるようにしていたのでした。


私には私のやるべきことがあります。葬儀の準備を手伝い、本家に足を運び、義祖母の傍で過ごしました。

義母の不在について親族から問われたとき、私は困った末に事実だけを伝えました。着信拒否にされていること、行き先を誰にも知らせずに出ていったこと、そして母の形見のネックレスを、私に無断でリメイクに出されたこと――。


親族の反応はそれぞれ違いました。何も言わずに眉をひそめる人、「それは非常識にもほどがある」と言い切る人。でも義母に向けられる視線が、だんだんと冷たいものになっていくのはわかりました。

取り返しのつかないもの

あわてて本家に駆けつけた義母ですが、義祖母から玄関先で追い返されました。「義理の父の葬儀をサボって旅行するなんて、この恩知らずが」という言葉とともに。


私は義母を庇いませんでした。


「夫が来ていないのは海外出張中だからで、それは仕方ないと義祖母さまもわかってくださっています。でもお義母さんは遊びに行っていただけなので、庇いきれないですね」

私が冷たく言い放っても、義母は「じゃあ息子に頼んで! お義母さんをなだめさせてよ」と言ってきます。

「嫌です」

自分の口から出た言葉は、思ったより静かでした。しかし、しっかりと響きました。


「私はただ、事実をお話ししただけです。お義母さんの行動の結果ですよ」


義母は私を指さして、「あんたが告げ口したんじゃない! 私のこと、嫌いなんでしょ!」と叫びました。私は否定せず、静かにうなずきました。私の肯定を見て、義母の顔は初めて見る表情に変わりました。取り繕ったような笑顔でも、般若のような怒りの表情でもなく、ただただ途方に暮れた顔でした。

それからしばらくして――。

義祖母の判断で、義実家の使用が打ち切られることになりました。私は知らなかったのですが、義実家はもともと義祖母名義の家。それを義父が亡くなったあとも、義祖母の好意で無償で使わせてもらっていたのです。

義祖母から「出て行きなさい」と告げられた義母は、私に「物件を探してきなさい! あんたのせいなんだから! 3人で住める広さの家を」と言いました。

私は穏やかに聞き返しました。

「3人とは、どなたとどなたとどなたですか?」

義母は言葉に詰まり、何も答えられませんでした。

葬儀のあと、夫は親族から義母の不在理由だけでなく、私がどんな生活をしていたのかも聞かされたようでした。

私と義母のあいだで何が起きていたのかを初めて知った夫は、泣きながら私に謝りました。そして、「もう同居はやめよう」と言ってくれたのです。そんなとき、夫にシンガポール駐在の話が持ち上がりました。「環境を変えるのにちょうどいい」と笑い合って快諾し、私たちは来月、出国することになったのです。

それを聞いた義母は、魂が抜けたような顔をしていました。結局、義母は1人で住むところを探さなければならなくなったのです。

思えば、私は我慢することを美徳だと信じていました。波風を立てることを恐れて、「私が我慢すればいい」という思考パターンになっていたのだと思います。義母の心ない言葉をやり過ごすために、私はどんどん自分の存在を薄くしていたのです。感情を出すことをやめ、反論することをやめ、泣くことすらやめて。

しかし、母の形見を勝手に変えられたあの日、私のなかで何かが明らかに変わりました。変わるきっかけをくれたのは、まぎれもなく母です。

結局、あの形見のネックレスは、元の姿には戻りませんでした。リメイクされて戻ってきたそれは、母が大切にしていた重みのあるデザインではなく、細いチェーンに小さな石を通しただけの、どこにでもあるようなネックレスになっていました。もう私が知っているあのネックレスではありませんでした。夫も夫の親族も一緒に憤ってくれましたが、元の姿も、そこに込められていた母の時間も、もう戻りませんでした。そのことだけはずっと悔しいし、これからも悔しいままだと思います。ただ、その感情に飲み込まれなくなったことは、私の成長です。

今、私は夫とともにシンガポールで暮らしています。まだ傷が消えたわけではありません。それでも、毎朝カヤジャムとバターを塗った甘いトーストを温泉卵の黄身につけ、甘いコーヒーを飲みながら、少しずつ前を向けるようになってきました。義母から受けた傷を癒すには時間がかかりそうですが、日本とはまったく異なる環境の中で、自分の暮らしを取り戻していけたらと思っています。

【取材時期:2026年1月】

※本記事は、ベビーカレンダーに寄せられた体験談をもとに作成しています。取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。


著者:ライター ベビーカレンダー編集部/ママトピ取材班

ベビーカレンダー編集部

元記事で読む
の記事をもっとみる