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「サトシも、タローも、中学受験やめるってよ」—それでも、ちゃんと春は来る。

  • 2026.3.20

その一言、軽いけど重い

「サトシも、タローも、中学受験やめるってよ」と長男がさらっと言ったその瞬間、私は味噌汁をよそう手を止め、「え、今のって聞き間違いじゃないよね?」と心の中で二度見どころか三度見をしてしまいました。本人はポテチの袋を開けるくらいのテンションで言っているのに、こちらとしてはニュース速報レベルの衝撃で、母という生き物はこういう時だけ無駄に演技力が上がるため、「へぇ〜そうなんだ」と平静を装うのに全神経を使います。ただ、内心は「え、あの二人が?なんで?どういうこと?」と疑問符が大渋滞していて、脳内会議は即時開催、しかも全員発言したがるタイプのメンバーばかりで収拾がつきません。子どもって、どうしてこんな大事な話を夕飯前とか、お風呂前とか、一番処理能力が落ちている時間帯に投下してくるのでしょうか。いやほんと、せめて心の準備させてほしい。

『あの子たち』がやめるという現実

サトシもタローも仮名ですが、我が家にとっては完全に実在感100%の存在で、低学年から塾に通い、着実に中学受験の道を歩んでいた、いわば“受験必須ポジション”の子たちでした。小5から塾に通い始めた長男は、少なからず彼らの影響を受けたと思います。サトシに関しては、ご両親がそろっていわゆる日本最高峰の大学出身という、もはや「遺伝子レベルで勉強できそう」という勝手なイメージを抱いてしまうご家庭で、教育への本気度は誰の目にも明らかでした。一方タローは、成績もさることながら人格が素晴らしく、塾帰りに同じ塾に通う女の子たちを見送ってから自分が帰るというエピソードを聞いたときには、「え、それ小学生のやること?」と夫婦で軽くざわついたほどです。我が家の夫に至っては、タローに会うたびに「タローはええやつや…」と、もはや親戚のおじさんのような目線で褒め続けており、息子もまた「サトシは頭がいい、タローは人としてすごい」と自分のことのように誇らしげでした。そんな二人が、受験をやめるという選択をした、その事実の重さを、私はじわじわと飲み込んでいきました。

親だけが勝手に見ていた未来

親というものは勝手なもので、子ども同士が同じ塾に通い、同じように勉強している姿を見ると、「きっとこのまま同じような道を進むんだろうな」と、何の根拠もない未来予想図を描いてしまいます。学校見学で顔を合わせれば、「また会ったね」と笑い合いながら、心のどこかで「もしかしたら同じ学校に通うことになるかもね」と淡い期待を抱いていた自分がいました。もちろんそんなこと、相手の親御さんに言えるはずもなく、「ご縁があればいいですね〜」というふんわりした言葉にすべてを詰め込む日本人的コミュニケーションを発動するしかないのですが、それでも内心はけっこう本気でした。子どもたちが切磋琢磨して、同じ目標に向かって頑張る姿を、勝手にドラマ化していたのかもしれません。だからこそ、その“前提”が崩れたとき、少しだけ寂しさを感じたのも事実でした。

『やめる』ではなく、『選び直す』という強さ

新小6を前にして、二人は「高校受験に切り替える」という決断をしたそうで、その裏にはきっと、本人たちなりの葛藤や家庭での話し合いがあったのだと思います。中学受験を続けることだけが正解ではないと分かっていても、実際に進路を変えるというのは大人でも勇気がいることで、それを小学生が自分の意思で選ぶというのは、なかなかできることではありません。「公立中学でしっかり内申を取って、そこから勝負する」と宣言したと聞いたとき、私は思わず「それ、めちゃくちゃかっこいいやん」と心の中で拍手を送りました。前を向いて別の道を選んだ、その姿勢はむしろ強さそのものです。人の数だけ、正解があるんだなと、改めて思わされました。

我が家はそのまま走り切ったけれど

一方で我が家は、そのまま中学受験を続け、なんとか第一志望に滑り込むことができましたが、ここまでの道のりは決して「順風満帆でした」とは言えないものでした。特に国語は最後まで苦戦し続け、どれだけ勉強しても、どれだけ基礎を固めても、志望校の問題との相性が微妙にかみ合わず、「なんでやねん」と何度心の中でツッコミを入れたか分かりません。関西の中学は国語の比重が高く、2教科入試では国語がそのまま合否を左右することも多いため、算数ができているだけでは安心できないという、なかなかのプレッシャーがありました。親子喧嘩もそれなりにありましたし、本人が泣きながら机に向かう日もあり、「もう高校受験でええんちゃう?」と心が揺れた瞬間も正直ありました。それでも最後まで走り切った、その事実だけは、ちゃんと胸を張っていいのかなと思っています。

それぞれのスタートラインに立つ春

受験が終わり、制服や通学カバンが届き、ICカードを手にした長男は、まるで新しいゲームを始める前のようなワクワクした顔をしています。一方で、大好きだった小学校との別れも確実に近づいていて、クラスの半分以上が別々の進路に進むこの環境では、「またね」がそのまま「なかなか会えないね」になることも珍しくありません。しかも今年は、同じ中学に進学する子が長男一人だけという、なかなかのソロスタートで、親としては「大丈夫かいな」と心配がよぎります。でも本人は意外とあっけらかんとしていて、「なんとかなるやろ」と言いながらゲームの話をしているあたり、子どもの適応力というのは本当にすごいなと感心させられます。親の心配なんて、だいたい取り越し苦労で終わるんですよね。

「待ってろよ」に詰まっていたもの

一方で、なくなった文化もあります。それが、卒園児の親が主催する先生との親睦会。長男や次男のときはコロナで中止になり、その後なぜか復活せず、そのまま消滅してしまいました。どうやら水面下で、「親睦会リーダーの保護者と先生がちょっと揉めた」という噂も聞いたのですが、真相は分かりません。先日、何気なく目にした卒業の寄せ書きに、「待ってろ、追いつくから、ぜってぃ、同じ高校行くから!」という言葉が書かれていて、その瞬間、胸の奥がぎゅっとなりました。進む道は違っても、お互いを意識し続けるその関係性がまぶしくて、「ああ、これが青春か」と、ちょっと羨ましくすら感じてしまいました。「待ってろよ」と言い合える関係があること自体が、何よりの財産なのかもしれません。目頭が熱くなりながら、「いい友達持ったな」と、母はひっそり泣きました。さぁ、春がきます。それぞれの場所で、それぞれの物語が、また動き出します。

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