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「結局、妻の言うとおりにすると物事はうまくいく。そこが、ちょっと悔しい(笑)」【笠井信輔さんのターニングポイント#2】

  • 2026.3.18

「結局、妻の言うとおりにすると物事はうまくいく。そこが、ちょっと悔しい(笑)」【笠井信輔さんのターニングポイント#2】

アナウンサーとして第一線を走り続けてきた笠井信輔さん。テレビ人生の中には、仕事や家族、そして病気との向き合い方など、いくつもの転機があります。何を感じて、どう行動してきたのか。人生を前に進めるヒントを伺いました。第2回は、笠井さんが考える最大のターニングポイント!

サラリーマンとしての挫折はいろいろと味わっています

——1987年にアナウンサーとしてフジテレビに入社。2年目には午後の情報ワイド番組『TIME3』のアシスタント司会者に大抜擢されるなど、早くから活躍の場を広げていきますね。

いや、サラリーマンとしての挫折はいろいろと味わっていますよ。

たとえば20代後半、毎週土曜日に情報番組のキャスターを務めていたんです。もともとワイドショー志望でしたし、リポーターからキャスターに登用、という形でありがたかったんですが、視聴率が伸び悩んでいるから笠井を下ろせという話になった。

理由が視聴率なら首斬りも仕方ない、と思っていたら、プロデューサーから告げられたのは「リポーターに戻れ」という指示。しかも、一期下の後輩がキャスターになる、という。

でも、この人事を断れば、“日勤”といって、担当番組がなくなることを意味するんです。アナウンス部長からも「折り合いをつけろ」と説得されました。

ところが、当時、結婚したばかりの妻(茅原ますみさん/元テレビ東京社員)の考えは違ったんです。「やりたくない仕事が来たんなら蹴っちゃいなさいよ。一生懸命仕事に向き合っていれば、次の仕事はあるわよ」でした。

——同業者でもある奥さまのアドバイス、とても潔いですね。

結果、この辞令を拒否したので担当していたワイドショーは、全部降板になりました。情報番組には出られない、ということです。

ところが、露木茂さんがキャスターを務めていた『FNNスーパータイム』という報道番組から、「リポーターをやらないか」と声がかかったんです。部屋でくすぶっているくらいなら、現場に出ろ、と。

そのころは、報道の現場にアナウンサーがリポーターとして立つ、マイクを持って中継するというのが珍しい時代。1996年12月に「在ペルー日本大使公邸占拠事件」が起きたときは、防弾チョッキを着ながら銃撃戦のレポートをしていました。

ナンシー関さんが彫った僕の顔の版画が……!

——しかもその3カ月後には、夕方の新ニュース番組『ザ・ヒューマン』のメインキャスターに就任します。露木さんの後継、という立場でしたね。

当時はまだ31歳。あまりに一足飛びだったので、自信がない、と断ろうかと思ったのですが、ありがたく引き受けました。でも、そんなに世の中、甘くはない。視聴率が全く上がらないんです。

そんなとき、消しゴム版画で一世を風靡していたナンシー関さんが、僕の顔に「僕がキャスター」と一言添えた版画が雑誌に載ったんです。メインキャスターとしての僕のレベルは、大学生の放送委員会並みに低い、と書き添えてありました。さすがに落ち込みました。

ところが、妻の受け止めは違ったんです。「ナンシーさんに注目されるっていうことは大変なことなのよ。普通はどんな局アナだって、スルーされちゃうんだから」ですからね。おかげで、なんだかナンシーさんに感謝したい気持ちになっちゃいました。

——1年で番組終了と同時に、『ナイスデイ』の総合司会としてワイドショーに復帰しますが、こちらも1年で番組が終了しましたね。

僕が担当するとすぐ番組が終わる、ということで、「笠井は幕引きアナ」と言われていました(笑)。

——それでも、翌1999年には『情報プレゼンター とくダネ!』のサブ司会者に就任。メイン司会者の小倉智昭さんとは約20年という長い年月をともに過ごされました。

メインからサブになる、ということで小倉さんは「笠井くん、僕の下でほんとうにいいのか?」と意思確認をしてくださったんです。

しかも、「30分のニュースコーナーをニュースデスクとして担当してほしい。朝の『ニュースステーション』を作りたいんだ」と。政治、経済などのネタ集めから演出まで僕が最終的に責任を持つ、と聞いて、これはおもしろいと引き受けました。

ワイドショーアナウンサーというのは、全国ニュースのリポーター。鉄砲玉みたいに現場に飛んでいく、というのが僕のスタイルなので、日本全国47都道府県すべてに取材に行っています。

特に、東日本大震災(2011年)のリポーター経験を積んだことはとてつもなく大きな糧になって、いまの自分を作っているのは間違いないですね。

——震災報道の経験を『僕はしゃべるためにここへ来た』(産経新聞出版/2011年)という本にもまとめられていますね。

小倉さんのおかげでニュースデスク兼出演者、という新しいステップが開けた。本も出せた。しかも、会社に首を斬られることによって自分の向かいたい方向にステップアップしていく、というちょっと変わったサラリーマン人生なんです。

でも、こうして振り返ってみると、僕の最大のターニング・ポイントは妻と結婚したことだと思います。

「よく休んだ」というお褒めの電話が続々と!

——結婚されたのは1990年6月ですから、35年以上になりますね。

大学3年生のとき、アナウンススクールで同じクラスになったのがきっかけです。当時の妻はアナウンサーになる、という野心みたいなものがあまり感じられない、おとなしくてかわいらしい子という印象でした。

結局、彼女はテレビ東京に入社したんですが、アナウンサー職としての採用がなかったので、最初の配属は社長秘書だったんです。

ところが、僕は彼女の外面しか見ていなかったんですね。社長に直訴して、なんと報道記者になったんです。

すると、第1子は立ち会い出産にしたいから僕に番組を休んでほしい、と言い出した。

——笠井さんにとってはある意味、職場放棄の提案ですね?

妻の主張は「人間、死んだときはみんな集まるのに、生まれるときは母親一人なのはおかしい」と。1994年当時、民放、NHK通じて、ワイドショーの男性アナウンサーが立ち会い出産で番組を休むなんて誰もやったことがありませんでした。

ところが、プロデューサーは「それなら産院から電話中継して、自分の言葉で番組を休んだ理由を説明しろ」と言う。視聴者からどれほどのお叱りをいただくのか、それは怖かったです。

でも、放送直後から続々届いたのは、「よく休んだ」というお褒めの電話やファックス。“イクメン”なんて言葉はまだありませんでしたが、「夫が妻に寄り添うことが素敵」と思うような時代の流れが芽生え始めたことに気づかせてくれたのは、妻でした。

それからは、アナウンサーの人気ランキングには入らないのに、育児雑誌の理想のパパランキングには入ったり、男女共同参画事業の講演会に呼ばれたりしました。

——茅原さんは出産後にアナウンス室に異動して、ママアナ第1号になりましたね。

妊娠するとアナウンス室から異動させられる、という時代に、逆コースを歩んだ人。自分で進撃して報道記者になり、アナウンサーになり、昼のニュースキャスターになった。しかも、3人の子どもを育てながら、ですからね。妻の人生もなかなかにアグレッシブです。

結局、僕にとって妻は羅針盤のような人なんです。人生の荒波を航海するうえでの一つの頼り。ときには羅針盤が右へ行けと言っても、船長の僕が左に舵を切るときはあるんです。

でも、結局は妻の言ったとおりにしたほうがうまくいくことが多いのが僕の人生であって、そこはちょっと悔しいけれど、仕方がないですね(笑)。

笠井信輔さん Profile

かさいしんすけ●フリーアナウンサー
1963年、東京都生まれ。早稲田大学を卒業後、アナウンサーとしてフジテレビに入社。「とくダネ!」など、おもに情報番組で活躍。2019年10月、フリーアナウンサーに転身。直後、ステージ4の悪性リンパ腫に罹患していることが発覚。12月より入院。ブログで闘病の様子を綴った。2020年6月に完全寛解し、その後仕事に復帰。著書に『僕はしゃべるためにここ(被災地)へ来た』(産経新聞出版)(新潮文庫)、『生きる力~引き算の縁と足し算の縁~』(KADOKAWA)など。

笠井信輔さんのターニングポイント②
僕の最大のターニング・ポイントは妻と結婚したことだと思います。僕にとって妻は羅針盤のような人。結局は妻の言ったとおりにしたほうがうまくいくことが多い。そこはちょっと悔しいけれど、仕方がない(笑)

撮影/橋本哲

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