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「うちの子かわいいでしょ」を地でいったハーン…セツとの間に生まれた長男を溺愛するあまり妻を驚かせた行動

  • 2026.3.12

朝ドラ「ばけばけ」(NHK)では小泉セツをモデルとするトキ(髙石あかり)とラフカディオ・ハーンをモデルにしたヘブン(トミー・バストウ)の間に長男が誕生。歴史家の長谷川洋二さんによると、実際にハーンも初めての子どもに夢中になったという――。

※本稿は、長谷川洋二『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)の一部を再編集したものです。

鼻の形がそっくりな長男が誕生

明治26年(1893)11月17日、朝の一時に、栗色の髪と青い目を持ち、鼻の形がハーンそっくりの一雄が生まれた。ハーンは一晩中床につかなかったのだが、早朝万右衛門(セツの養祖父)が書斎に駆けつけて来て、「フェロン公、天晴あっぱれだ。生まれますたで、生まれますたで、これが、これが……」と、腕をまくり拳こぶしを振って、男の子の誕生の喜びを伝えたという。

小泉セツの養祖父・稲垣万右衛門
小泉セツの養祖父・稲垣万右衛門

ハーンは子の誕生に過激に反応し、一雄を熱烈に愛した。そして、時に外部が見えないほどであった。セツはその夢中の様子を、「ヘルンは、この子を大層誇りに致しまして、学生さんであれ、同僚の教授の方であれ、たまたま宅にお見えのどなたにでも、腕に抱いて出まして、客の言葉を待たずに、すぐさま子供を賞めるのでございました」と語っている(野口米次郎『日本におけるラフカディオ・ハーン Lafcadio Hearn in Japan』拙訳)。

熊本から香川へ、赤子を連れて

初子誕生の5カ月後の4月3日から6日にかけて、ハーンとセツは小さな一雄を連れトミ(セツの養母)を伴って、金毘羅こんぴらに詣もうでた。

多度津たどつへと瀬戸内海を渡って、澄み切った青空の彼方に讃岐富士を望み、渺茫びょうぼうと広がる満開の桜に恍惚として、参道を歩く。785段という石段を上る時にセツと交した会話を、ハーンはチェンバレン(編集部註:イギリス人の日本研究家、東京帝国大学文学部名誉教師)に報告している。

一雄の祖母は、その坂の下で草履ぞうりを脱ぎ、子供を負おぶいながら事もなげに上り始めた。私が裸足はだしを止めようとすると、セツは「いいえ、あれは母の習慣です。神聖な所へ履物で近づくのは悪いと思っているのです」と言いました……。

熊本に移った翌年の4月には、2人だけで博多への一泊の旅行を、その年の夏休みには、京都・奈良から隠岐にかけての2カ月の旅をしていた。今度は家族連れであり、たまたま絶好の天気に恵まれた。生後5カ月の一雄は、2人の巫子みこの舞に目を見張って、そのうちの1人を微笑ませ、生涯で見た最もきれいな少女たちと思っていた父親を、喜ばせたのである。

熊本では順調に貯金が増えた

ハーンの日本での第1作で出世作となるのは、『知られぬ日本の面影』である。彼は既に、その最終校正を発送していた。ところが、契約条件への怒りに駆られ、出版契約書を突き返すようなことをした。それとても、ハーンの表情から状況を察したセツが、ポストではなしに抽出ひきだしに投函していて、トラブルを免れていたのである。

熊本来住の1年後に転居した家には、書斎に当てた八畳の離れに、薪まきストーブと硝子ガラス障子を入れて、ハーンは二冬とも快適に過ごしている。また、150坪もある庭では、金十郎(セツの養父)から弓の指南を受け、その独眼での首尾に気を良くしていた。さらには、貯金も順調に増えて、セツは、経済的な安心を覚えるようにもなっていたのである。

彼女は確かに家計に気を配った。東京時代のものだが、ハーンの草稿の裏を使った家計簿が現在に伝わっている。そこには、日々の支出及び月々の支出の合計から1年の総計までが、事細かに記入されていて、彼女の金銭管理の様子が窺われる。ハーンは寄附などに無雑作であり、たとえば前年(1893)の10月に起きた松江の洪水に際しては、50円の義援金を送っていた。

小泉八雲と妻セツ、長男・一雄(神戸時代)
小泉八雲と妻セツ、長男・一雄(神戸時代)
貧困を経験したセツの金銭感覚

ただし、セツは、貧の窮地に追い遣られた体験を厭いやというほどに積んでいる。ハーンも、横浜での金銭的窮迫を含めて、生涯に何度も命を危くする金銭的危機に身を晒さらしていたのであり、その話を聞かされていただろう。熊本での生活の終わりに、ハーンが老友のワトキン宛の手紙(1894・9・14)に記した貯金の額は、「四千ドル(4000円相当、現在の価値で1億6000万円ほど)近く」で、その額は熊本時代3年間の月給の半分余りに当たるが、西田千太郎(ハーンの友人で松江の英語教師)の給与の7年分に近く、折戸徳三郎おりどとくさぶろう(松江中学書記)のそれの28年近くに達していたのであった。

ハーン来日の1890年に、1円が0.95ドルだったものが、95年までに0.5ドルに落ち、以後、2年後の金本位制実施を挟んで、ハーンの他界まで同じ水準が続く。ただし、手紙では来日時の交換率が使われたと見るべきであろう。

熊本の小泉八雲旧居
熊本の小泉八雲旧居
友人宛ての手紙に「熊本は大嫌い」

夫婦関係や家庭生活の成熟をよそに、近代化が進み、昔ながらの世界が失われつつあった熊本は、ハーンを苛立たせていた。金毘羅参りを報告した西田宛の手紙は、「熊本が日本であるとは全然思われない。熊本は大嫌いだ」で結ばれている。

長谷川洋二『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)
長谷川洋二『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)

ハーンの熊本への嫌悪はすぐにも、学校の同僚たちとの感情的な軋轢あつれきに発展する。東京・横浜での夏休みを挟んで、それは、感じやすく激しやすいハーンの側で、極限に達した。10月上旬、熊本での生活は破綻を来たし、一家を引き連れ、逃げるようにして神戸に移る。しばらくは、熊本で受けた心の打撃が日本人全般の不信にまで広がり、西田への手紙にさえ、「日本人を理解できると信ずる外国人は、何と愚かであろう!」と書くほどであった。万右衛門が松江に帰り、神戸到着から、養父母と2人の女中との暮らしが、2度の転居を入れて2年近く続くことになる。

『神戸クロニクル』という英字新聞の論説記者の仕事は、目の酷使による眼病から3週間の臥辱がじょくを強いられてやめ、翌年の1月からは早くも、著述に専念する生活に入った。そして、この文学活動の面では、彼の人生を画する局面に入っていたのである。

神戸到着の11日前に出版された『知られぬ日本の面影』は大成功で、年末までのわずか3カ月で3刷を重ね、ハーンは世界的名声を得るに至った。年が明けての3月には『東の国から』が、さらに翌年(1896)の3月には、日本での第3作で、広く名作としての評価が高い『心』が出版される。

熊本市にある小泉八雲の碑
熊本市にある小泉八雲の碑

長谷川 洋二(はせがわ・ようじ)
歴史家
1940年新潟市生まれ。新潟大学人文学部で史学を専攻、コロンビア大学のM.A.学位(修士号1974)、M.Ed.学位(1978)を取得。一時期会社員、前後して高等学校教諭(世界史担当)。著書に『小泉八雲の妻』(松江今井書店、1988年)、その改定版となる『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)、『A Walk in Kumamoto:The Life & Times of Setsu Koizumi, Lafcadio Hearn’s Japanese Wife』(Global Books, 1997)、『わが東方見聞録―イスタンブールから西安までの177日』(朝日新聞社)がある

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