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初開催「アート・バーゼル・カタール」──シェイカ・アル・マヤッサ王女が描くアートの新時代とは【後編】

  • 2026.2.26

 

中東のアート界の女王”と称される、シェイカ・アル・マヤッサ・ビン・ハマド・ビン・ハリーファ・アール=サーニー。 Photo: Brigitte Lacombe

アート・バーゼル・カタールの会期中、約1万7000人が来場した。参加したアートコレクターやパトロンの約半数はMENASA(中東・北アフリカ・南アジア)地域からであり、新しい層の存在感が際立っていた。地政学的緊張が報じられる時期であり、初日に爆発的なセールスが記録されたわけでもない。それでも、会場に漂っていたのは確かな手ごたえだった。

このフェアを規模や数字で測るのは、本質を外す。焦点は、国家規模で設計された文化戦略と国際アートフェアがどのように接続したか、というところにあった。

カタールの現首長の妹であり、国家の文化政策を率いるシェイカ・アル・マヤッサ。2025年の『ArtReview』誌による「Power 100」ランキングの2位に選ばれるなど、現代アート界でもっとも影響力のある人物のひとりである。彼女が繰り返し語ったのは、世代を超えて持続する文化基盤の構築だ。その戦略は大きく3つに整理できる。

第1は、文化的なアイデンティティの確立である。1990年代から本格化した美術コレクションの形成、2008年のイスラム美術館(MIA)開館、2010年のマトハフ:アラブ近代美術館(Mathaf)、2019年のカタール国立博物館(NMoQ)。さらに2022年の3-2-1 カタール・オリンピック&スポーツ博物館。これらを通じ、自国の歴史・アートと世界史・美術史とを自らの語り口で接続してきた。国家が自らの物語を提示する基盤は、20年以上をかけて整えられてきた。

カタール国立博物館の外観。設計は建築家ジャン・ヌーヴェル。 Photo: Iwan Baan

第2は、クリエイティブ産業の育成と教育。2015年に始動した「Fire Station」のアーティスト・イン・レジデンスは、その象徴だ。元消防署を改修したこの拠点では、選抜されたアーティストが約9カ月間スタジオ・制作費を与えられ、専門家のメンタリングを受けながら作品を深化させる。制作過程そのものに投資する仕組みがここにある。ドーハ中心部ムシェイレブ地区に位置するクリエイティブハブM7やドーハ映画協会とともに、クリエイティブ産業を支える基盤が、都市計画に組み込まれてきている。

Fire Station」のスタジオで制作を行う、多様なバックグラウンドを持つアーティストたち。 Photos: Yuki Kos

第3は、国際的エコシステムとの接続だ。シェイカ・アル・マヤッサは、二つの重要な発表を行った。ひとつは、昨年10月に公表された4年周期で開催される国際美術祭(クアドリエンナーレ)。もうひとつが、アート・バーゼル・カタール会期中に明らかにされたクリエイティブ・ビザの新設である。前者は、都市全体を舞台に時間をかけた委嘱制作やリサーチを軸とする長期的な枠組みとして位置づけられる。ビザは、国外のアーティストやキュレーターに中長期的な滞在の道をひらく。資金援助だけでなく、舞台・制度を通じ、国外を巻き込んだ創造活動のカタールへの定着を図る。

こうした戦略に基づき、アート・バーゼル・カタールは開催された。フェア会期中にドーハ各地で展開された様々なプロジェクトも、その方向性を示していた。

ジェニー・ホルツァー《SONG》のインスタレーション風景。イスラム美術館にて。 Photo: Yuki Kos

フェア開幕にあわせて公開されたのが、アメリカのコンセプチュアル・アーティスト、ジェニー・ホルツァーによる新作《SONG》である。1970年代から言葉を主な素材に制作を続けてきたホルツァーは、LEDサインや建築への投影を通じて、政治や記憶、権力といったテーマを扱ってきた。本作では、パレスチナの詩人マフムード・ダルウィーシュとUAEの詩人・映像作家ヌジューム・アルガネムの言葉を、アラビア語と英語で都市空間に解き放った。美術館の壁面への投影と700機を超えるドローンによる振付的な演出とがシンクロし、夜景そのものを舞台へと変貌させた。

《In the Assembly of Lovers》の前に立つ、建築家スマイヤ・ヴァリー。 Photo: Yuki Kos

アート・バーゼル・カタールのメイン会場であるM7前に設置されたのは、南アフリカ出身の建築家スマイヤ・ヴァリーによるパブリック・インスタレーション《In the Assembly of Lovers》。着想源となったのは、マジュリスと呼ばれる中東の集いの空間だ。人々が床に近い位置で向き合い、語り合うその構造を、褐色の可動式のブロック状のモジュールと床面に刻まれた図像によって再構成。会期中に自由に組み替えられ、トークや朗読、対話の場へと変容した。

会期中のトークシリーズ「Art Basel Conversations × Qatar Creates Talks」に登壇したシェイカ・アル・マヤッサ(中央)、サーペンタインギャラリーのハンス・ウルリッヒ・オブリスト(左)、フランスのアートセンター、リュマ・アルル(Luma Arles)を創設した国際的なパトロン、マヤ・ホフマン(右)。 Photo: Yuki Kos

アートエコシステムの構築こそが、このフェアを通じて実現しようとしている核心だ。

カタールの国家収入の中心は、液化天然ガスである。シェイカ・アル・マヤッサは資源依存から「知識基盤社会」への移行について繰り返し語った。文化は装飾ではなく、経済構造の重心を移すために必要不可欠な装置とされる。美術館の整備などを通じた文化アイデンティティの確立、クリエイティブ産業の育成、国際的フェア・海外人材の誘致。それぞれは点ではなく、持続的な知的資本の形成へと向かう設計の一部である。

世界のアートマーケットは、これまで一部の富裕層の巨額の資金に支えられてきた。しかし欧米を中心とする従来の市場では、公的文化予算の縮小やコレクターの世代交代が進み、新しい支柱が模索されている。その変化の中で存在感を強めるのが湾岸地域の動きだ。富の誇示ではなく、国際社会における立ち位置の再定義をも念頭に置く。

アートのエコシステムは短期間で完成するものではないが、カタールではその骨格がすでに可視化されている。資源で得た経済的資産を、教育、リサーチ、クリエイティブ産業へ再投資し、無形の資産として固定化する。「知識基盤社会」への移行は理念にとどまらず、政策や都市計画として着実に実行されている。

彼女は語る。未来を豊かにするのは、人間の知性と創造力であると。取引の数字を追うよりも、関わること。完成された理念を掲げるよりも、対話を重ねること。そして揺るぎない確信より、内側から湧き上がる好奇心を手放さないこと。

アート・バーゼル・カタールは、その現在を世界に提示した。文化を通じ、国家をどう変革するのか。フェアの手ごたえを受け、王女の視線はさらに先の未来を見据えている。

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