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3歳で両手足を失うも、力強く生き抜き72年の生涯を全う。希望を与え続ける「中村久子」さん

  • 2026.2.16

中村久子さん(1968年死去)をご存じでしょうか。3歳で病気のために両手足を失うも、すさまじい努力と強い精神で、家事も仕事も切り開いて生き抜いた人です。見世物小屋で「だるま娘」として舞台に立ち自立を目指した姿、久子さんの生涯を紹介します。

「これが本当の親なのか」と冷たいまでに厳しい母

1年ほどたち、幸いにも光を取り戻した久子さんに、母は厳しいしつけを始めます。まず言いつけたのは、仕立て替えするきものをほどくこと。「できません」と音を上げる娘に、母は容赦なく言い放ちました。

「できないからといってやめてしまったら、人間は何もできません。やらねばならんという一心になったら、やれるものです。できないのは横着だからです」

冷たいまでに厳しい母を「これが本当の親なのか」と恨みながら、 久子さんは何日もかけてとうとう口でハサミを使うことを覚えました。「これは大きな歓喜であり、発見でした」と、久子さんは晩年に回想しています。

「刺繍も編み物も、お部屋の掃除も囲炉に火を焚くことも、洗濯も包丁を使うことも、みんな母から厳しゅう言われ、覚えたものばかりでございます」

きれいに整頓された編み物の道具。「編み物は手芸の中でも特に好きでした。歯が丈夫で熱心に編んだときは、一ポンドの並太毛糸は二日間で難なく編みました」と自ら記しています

口で縫って仕上げたきものは「汚いもの」

久子さんが古いきものをパッチワークした、こたつの敷布団。破れた部分には丁寧につぎを当ててあります

もちろん一朝一夕にできることではなく、一つ一つ覚えるのに血のにじむような努力がありました。あるとき、久子さんが口で縫った人形のきものを、近所の友達にあげると、その子の母は「こんな汚い物!」と川に捨ててしまいました。

口で縫い、口で糸をしごいて仕上げたきものは、つばだらけになっていたのです。久子さんは「つばだらけにしてはいけない、ぬらさぬように、というのは悲壮なまでの念願でした。ぬれない裁縫ができるまでには、13年間の長い年月がかかりました」と記しています。

左:久子さんが編んだ小さな巾着に入っていた、たくさんのあまり糸。「とにかくものを大切にする人で、はぎれやボタン類もすべて大切にとってありました」と鎌宮さん/右:レース糸で編んだ敷き物とテーブルクロス。デザインにもこだわりがありました

見世物小屋デビュー、芸名は「だるま娘」

20歳を前に、久子さんは見世物小屋に入ることを決めました。「手足が無くても生きている以上は自分で働いて生き抜こう」と覚悟したのです。

大正5年、「だるま娘」として初舞台を踏んだ久子さんの芸は、口と短い腕で裁縫や編み物をし、書をしたためること。地味ながら見事な芸は評判を呼び、以降26年間、日本はもちろん、朝鮮や台湾まで巡業することになりました。

興行の世界で出会った男性と、結婚。小さな幸せをつかみ始めた矢先、久子さんに次々に不運が襲います。次回は、度重なる苦難に心折れそうになったときに救いとなった出会い、久子さんの心に芽生えた変化を見つめます

参考文献:中村久子著『こころの手足』(春秋社刊)
取材・文=五十嵐香奈(ハルメク編集部) 撮影=安部まゆみ 写真提供=鎌宮百余
※この記事は雑誌「ハルメク」2019年4月号に掲載された内容を再編集しています。

シリーズ「手足なくとも光あり・中村久子」(全5回)

【第1回】手足を失い、結婚、離婚、出産…中村久子72年の生涯
【第2回】3歳で手足切断。9歳で失明。それでも自立を求めた母
【第3回】20歳、自ら見世物小屋へ。一人で働き、生きる覚悟を
【第4回】結婚、出産、そして娘の死…心を救った同士との出会い
【第5回】4番目の夫と穏やかな晩年、手足なくても「ある」幸せ

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