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浅野家は寧々と秀吉の結婚で成り上がったのに…関ヶ原で豊臣を裏切った甥の幸長が家康からもらった「褒美」

  • 2026.1.18

大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)には秀吉の妻となる寧々(浜辺美波)の養父・浅野長勝(宮川一朗太)が登場する。系図研究者の菊地浩之さんは「寧々は身分の低い家に生まれたが、秀吉と結婚する前に武家・浅野家の養女となった」という――。

※本稿は、菊地浩之『増補新版 豊臣家臣団の系図』(角川新書)の一部を再編集したものです。

大河ドラマ「豊臣兄弟!」で秀吉の妻となる寧々を演じている浜辺美波。第36回東京国際映画祭参加時、2023年11月1日
大河ドラマ「豊臣兄弟!」で秀吉の妻となる寧々を演じている浜辺美波。第36回東京国際映画祭参加時、2023年11月1日
秀吉の正妻の実家、浅野家とは?

浅野家は秀吉の正室・北政所(於寧おね、寧、寧々ねね)の養家である。寧は杉原助左衛門(入道道松。定利。?〜1593)の娘として生まれたが、母方の伯父で織田家臣の弓衆・浅野又右衛門長勝(?〜1575)の養女となったのだ。

服部英雄氏は『河原ノ者・非人・秀吉』の中で「『祖父物語』『清須翁物語』に、ね(寧)の出た家(杉原)は連雀商人(編集部註:行商人)であったとある」と記している。

決して高い家柄ではなく、むしろ下層身分である。しかし、「秀吉と寧の結婚に際しては、寧の母親の賛同が得られなかった。

『秀吉公の卑賤を嫌ひたまひて、御婚姻をゆるし給はさりしに』(中略)

寧は、いったん織田家の弓大将であった浅野又右衛門と妻である実母妹(七曲)夫婦の養女になった。寧は養子縁組みで身分が上昇した。その女婿と釣り合いも取れぬ。秀吉の身分は周囲からかなり低くみられていた」という。

豊臣秀吉の正室・寧(高台院)の肖像画、17世紀(高台寺所蔵)
豊臣秀吉の正室・寧(高台院)の肖像画、17世紀(高台寺所蔵)(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

寧の実家・木下(杉原)家にしても養家の浅野家にしても、閨閥けいばつといえるような有力者は存在しない。秀吉が出世したから、その親族として大名に取り立てられた者ばかりである。

「一代でのし上がった秀吉には譜代といえる家臣は皆無だった。こうした場合、一族を頼るのが常套手段だが、秀吉の一族にはめぼしい人材がいなかった」(『織田信長の家臣団』)という、和田裕弘氏の手厳しい指摘は的を射ている。

秀吉の義兄となった浅野長政

浅野弾正少弼だんじょうしょうひつ長政(1547〜1611)は、通称を弥兵衛といい、天正16年に従五位下弾正少弼に叙任された。

諱いみなははじめ長吉。文禄元(1592)年頃に長政と改名したという(以下、長政に表記を統一する)。

素直に考えるなら、秀吉の義兄として信長から偏諱へんきをもらい、秀吉から一字もらって「長吉」と名乗ったのだろう(そう考えると、長政の養父の諱にたまたま「長」の字が付いているのは不自然で、長勝という名前も後世に創作したものと考えた方が良さそうだ)。

長政は尾張国丹羽郡宮後村(愛知県一宮市今伊勢町宮後)の安井弥兵衛重継の子に生まれ、織田家の足軽弓頭・浅野又右衛門長勝の婿養子となった。母は長勝の姉妹だったらしい。

浅野家の家系図の疑問点

浅野家は土岐氏の流れで、土岐美濃守光衡みつひらの子・次郎光時が尾張国丹羽郡浅野村(愛知県一宮市浅野)に住んで浅野を名乗ったという。たしかに土岐氏の一族に浅野家は存在するが、長政の家系がその末裔であるとは限らない。浅野家の家紋が、土岐一族が家紋とする桔梗ではなく、違い鷹の羽であるのも奇妙である。

浅野家の家紋「丸に違い鷹の羽」
浅野家の家紋「丸に違い鷹の羽」(写真=アレックス・トラ作/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)

土岐光衡から長政の養父・浅野長勝まで繫げた系図のみならず、長政の実父・安井重継までご丁寧にも繫げている系図があるので、全く信用してはいないが掲載してみた。

【図表】浅野家の家系図
出典=『豊臣家臣団の系図』

長政は養父と同じく織田家の弓衆だったが、信長の命により秀吉の与力となった。天正元(1573)年に近江で120石を与えられ、天正10(1582)年には京都奉行に着任。天正11(1583)年の賤ヶ岳の合戦後に近江甲賀郡、栗太郡で2万300石を賜り、坂本城主となった。

翌天正12年の小牧・長久手の合戦で、長政は「軍中の諸事をつかさど」ったという。兵站などに従事していたのであろう。また、秀吉と家康の講和後、秀吉の異父妹・あさひ姫が家康に再縁した際には、使者として浜松城との間を奔走したという。なお、天正15年9月に若狭一国を与えられ、小浜城主となっている。

ねねの甥・浅野幸長は武闘派

長政は部将というより実務官僚のようであるが、天正18年の小田原征伐では5月中旬から前田利家、上杉景勝らとともに鉢形城攻めに参陣。次いで本多忠勝、平岩親吉、鳥居元忠ら徳川家家臣とともに岩槻城を攻め、さらに石田三成らと忍城攻めに加わった。

岩槻城攻めでは嫡男・浅野紀伊守幸長(1576〜1613)の奮戦著しく、秀吉から脇差しを与えられるほどの賞賛を浴びた。幸長は父と違って武功派だったのだ。

文禄2(1593)年に甲斐府中城主・加藤光泰が死去すると、その後任として浅野長政・幸長父子に甲斐21万5000石が与えられた。内訳は長政が5万5000石、幸長が16万石である。このことが示すように、浅野家ではすでに世代交代が進みつつあった。

朝鮮出兵では幸長が渡海し、文禄4(1595)年に一時帰国するも、慶長2(1597)年6月に再び渡海。加藤清正が守る蔚山城の普請工事に従事した。

寧の甥である浅野幸長の肖像、江戸時代(東京大学史料編纂所所蔵)
寧の甥である浅野幸長の肖像、江戸時代(東京大学史料編纂所所蔵)(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
幸長は石田三成と敵対、徳川側に

秀吉の死後、朝鮮から帰還した加藤清正・蜂須賀家政・福島正則・藤堂高虎・黒田長政・細川忠興、および浅野幸長の七将は、三成に遺恨を抱き、慶長4(1599)年閏3月に前田利家が死去すると、三成襲撃へと動いた。

一方、父・長政は「五奉行」の筆頭として、同僚の三成と嫡男・幸長の板挟みとなる。

しかし、同慶長4年9月に前田利家の親戚筋による家康暗殺計画が発覚。長政も謀議に加担したと疑われ、奉行職を解任。国元での蟄居ちっきょを余儀なくされた(幸長が前田利家の五女と婚約していたからだという。ただし、五女は結婚前に早世している)。

翌慶長5年9月、幸長は関ヶ原の合戦で家康方につき、合戦後は紀伊和歌山37万6560石に大幅加増された。

慶長8(1603)年に家康の孫・千姫が豊臣秀頼に嫁ぐ際に、幸長は大坂城に赴き、輿の受け入れを担当した。また、慶長16(1611)年3月に二条城で秀頼と家康が会見した際、幸長は加藤清正、池田輝政、藤堂高虎とともに会見に立ち会い、「秀頼の臣下としての立場を鮮明にしつつ秀頼護衛に心血を注いだ」(『関ヶ原合戦と大坂の陣』)。

しかし、幸長と清正は微妙な立ち位置にあった。実は家康は会見にあたって秀頼と同年代の息子、九男・徳川義直、十男・徳川頼宣をともなっており、幸長の次女が義直、清正の次女が頼宣と婚約していたのだ(ともに慶長14年に婚約)。

秀頼にとって浅野父子の死は…

家康と秀頼の間に政治的な緊張感が高まる中、長政・幸長父子が相次いで死去する。慶長16年4月に長政は死去。享年65。2年後の慶長18(1613)年8月に幸長が死去。享年38だった。秀頼にとって父子の死去は痛手だったという。

翌慶長19年、大坂冬の陣が起こる。幸長に男子がなかったため、次弟・浅野但馬守長晟(1586〜1632)が家督を継ぎ、徳川方として参陣。翌元和元(1615)年5月の大坂夏の陣でも奮闘した。同元和元年11月、家康は三女・振姫(1580〜1617)と長晟を婚約させ、翌元和2年1月に婚礼が行われた。

浅野幸長の子で広島城主となった浅野長晟の肖像、17世紀頃(広島市中央立図書館所蔵)
浅野幸長の弟で広島城主となった浅野長晟の肖像、17世紀頃(広島市中央立図書館所蔵)(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
長政の子どもたちはどうなったか

長政には少なくとも3男3女および2人の養女がいた(★は嫡出)。


長男★ 浅野紀伊守幸長(1576~1613) 妻は池田恒興の四女
次男★ 浅野但馬守長晟(1586~1632) 妻は徳川家康の三女・振姫
三男★ 浅野采女正長重(1588~1632) 妻は竹谷松平家清の四女(家康の義姪)
長女★ 杉原伯耆守長房(北政所・寧の従兄弟)の妻
次女★ 堀美作守親良(堀秀政の子)の妻
三女★ 久松松平越中守定綱(徳川家康の甥)の妻
養女 多羅尾久八郎光雅の妻(浅野藤七郎長継の娘、長政の従姉妹)
養女 船越伊予守永景の妻(杉原伯耆守長房の娘、長政の外孫)

長政の子女が展開する閨閥は、はじめは秀吉の意図、中途から家康の意図が滲み出るものになっている。

長男・幸長は池田恒興の娘を娶っている。秀吉は天正9年頃から恒興の歓心を買うため、様々な努力を重ねている。恒興の三男・長吉を養子にもらったり、甥の三好信吉(のちの豊臣秀次)の正室に恒興の次女をもらい受けたり。義理の甥にあたる幸長と恒興の末娘の縁談をまとめたのも、秀吉に違いない。

北政所・寧の従兄弟にあたる杉原伯耆守長房は、なぜか幼少の頃から両親と離別し、長政の下で育てられ、その女婿になったのだという。

戦後に再建された広島城(広島市)
江戸時代に浅野長晟が初代藩主となった広島藩、戦後に再建された広島城(広島市)
家康は浅野家に三女を差し出した
菊地浩之『増補新版 豊臣家臣団の系図』(角川新書)
菊地浩之『増補新版 豊臣家臣団の系図』(角川新書)

ところが、次男(長晟)、および三女以降になると、急に家康の近親との縁談が色濃くなってくる。長晟が家康の三女・振姫と婚儀に及んだことは先述した。

振姫は文禄4(1595)年に秀吉の命で蒲生飛騨守秀行(氏郷の子。1583〜1612)と婚約し、慶長3(1598)年に結婚。2男1女をもうけるが、14年後の慶長17(1612)年に夫・秀行が急死。家康は浅野家との関係強化のため、長晟に振姫を再縁させたのだ。

振姫は一子(浅野安芸守光晟、1617〜93)をもうけて、まもなく死去した。

また、兄・幸長の2人の娘も、長女が松平伊予守忠昌(徳川家康の孫、結城秀康の次男)、次女が徳川大納言義直(家康の九男)に嫁いでいる。

菊地 浩之(きくち・ひろゆき)
経営史学者・系図研究者
1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005~06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『三菱グループの研究』(洋泉社歴史新書)など多数。

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