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信長が桶狭間で勝ったのは「奇襲」ではない…今川義元の「完璧すぎる絶滅作戦」を打破できた物理的要因

  • 2026.1.18

NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、桶狭間合戦が描かれる。歴史評論家の香原斗志さんは「最新研究では、今川義元の尾張侵攻は天下号令のための上洛ではなく、尾張の攻略自体を目的にしていたとされている。ゆえに、義元の布陣は完璧と言えるものだった」という――。

太平記英勇伝三:今川治部大輔義元
太平記英勇伝三:今川治部大輔義元(写真=歌川芳幾/東京都立図書館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
信長領に侵攻してきた今川義元と徳川家康

NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の第3回(1月18日放送)のサブタイトルは「決戦前夜」。もちろん「決戦」とは、永禄3年(1560)5月19日の桶狭間合戦を指す。

第2回「願いの鐘」(1月11日放送)で、小一郎(仲野太賀、のちの羽柴秀長)は、尾張国(愛知県西部)中村に母親や姉妹を残し、兄の藤吉郎(池松壮亮、のちの羽柴秀吉)とともに、織田信長(小栗旬)の本拠地である清洲へと向かった。家族と暮らす村が野盗や野武士集団に蹂躙されるのを目の当たりにし、侍になるしかないと決意したのである。

だが、ちょうどそのころ、信長は駿河(静岡県東部)を本拠とする今川義元(大鶴義丹)と対立を深めており、義元はついに大軍を率いて駿府(静岡市葵区)を出発し、尾張をめざしている、という知らせが入る。さらには、義元配下の武将である松平元康(松下洸平、のちの徳川家康)が、義元の命を受け、義元の管轄下にある大高城(名古屋市緑区)に兵糧を入れ、織田方の丸根砦と鷲津砦(ともに名古屋市緑区)を攻めている、という情報がもたらされた。

それを受け、信長は出陣を決意するのだが、そもそも今川義元は、どうして信長の勢力圏に侵攻してきたのだろうか。そのために信長は、どれくらい追い詰められたのだろうか。また、どうして信長は勝てたのだろうか。

義元の尾張進攻は上洛目的ではなかった

かつては義元の尾張侵攻は、「天下に号令をかけるための上洛が目的で、その途上で尾張を通り、信長に討たれた」と説明されてきた。しかし、この考え方はいまではすっかり否定され、義元は尾張の攻略自体を目的にしていた、と考えられている。では、義元はなぜ尾張を攻めようとしたのか。それを理解するには、今川家と織田家の関係を知る必要がある。

ポイントになるのは、鳴海城(名古屋市緑区)周辺の鳴海領である。その際、「境目」という言葉を覚えておいてほしい。

戦国時代における「境目」とは、複数の大名勢力に挟まれながら帰属があいまいで、常に争いの対象になった地域のことを指す。つまり、政治的および軍事的境界で、戦国大名にとっては「境目」を制覇することが、自分の領国を安定させるための最重要事項だった。鳴海領は織田家にとっても今川家にとっても、重要な「境目」だったのである。

鳴海領をめぐっては、信長が織田弾正忠家(織田家の主家筋は織田大和守家で、弾正忠家は庶家のひとつだった)を継ぐ前から、今川家との争いが絶えなかった。

今川氏との「境目」の領土の奪い合い

たとえは天文19年(1550)8月、義元は尾張国知多郡(鳴海領を含む愛知県南部)に侵攻し、織田方は辛うじて撤兵させた。その際、鳴海領に勢力をもつ国衆(有力な在地領主)の山口氏を仲裁者として和睦交渉が進められ、翌年の早い時期に和睦が成立したと見られている。「境目」の国衆の山口氏としては、2つの勢力が自領で争う状況は、たまらなかったのだろう。

だが、天文21年(1552)3月に信長の父の信秀が死去し、信長が家督を継承すると、信長と弟の信行の対立も露わになるなど、織田弾正忠家の内部は不安定な様相を呈した。すると山口氏は今川方に付き、織田方の大高城(名古屋市緑区)を攻めるにいたった。

こうして鳴海領を今川方に押さえられたことで、信長は窮地に陥る。折しも、主家の織田大和守家が信長に敵対したので、これを討ったが、今度は弟の信行と組んだ織田伊勢守家と敵対。舅で信長を支援していた斎藤道三も嫡男の義龍に敗死するなど、信長は八方ふさがりになっていった。

鳴海領を押さえているかどうか。そのことが、いかに大事だったかがわかるだろう。

現在は公園になっている鳴海城跡
現在は公園になっている鳴海城跡(写真=Tomio344456/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)
長年の争いに決着をつけるために

その後、弘治3年(1557)4月に、信長と今川氏はいったん和睦するが、そこでまた今川氏との対立の要因が生まれる。すなわち、信長はこの和睦で勢いを得て、織田伊勢守家を追い落とし、弟の信行を殺害し、上洛して将軍足利義輝にも謁見した。

こうして、尾張をほぼ治めた信長にとって、「境目」の鳴海領におよんでいる今川方の力は目の上のたんこぶだったので、その奪還を考えはじめた。こうして、永禄2年(1559)に今川氏との和睦は破棄された。

鳴海領が大事なのは今川方も同じで、ここを拠点に尾張へと勢力を広げ、東海地方全体を制覇しようと考えた。だから、かつて織田方との和睦を仲裁した鳴海の国衆の山口氏を謀殺し、鳴海領を事実上の管轄下に置いた。そして、鳴海領の中核の鳴海城は重臣の岡部元信に、近くの大高城は同じく朝比奈輝勝に守らせ、さらに守備を強化した。

一方の織田方にとっては、現状は強大な今川勢力を自領に置いているようなもので、危険きわまりない。こうして鳴海領の帰属をめぐる緊張が極限まで高まったところで、永禄3年(1560)5月、今川義元はみずから大軍を率いて、鳴海領の完全な平定に乗り出したのである。

要するに、鳴海領をめぐる長年の織田方との争いに決着をつけるためには、義元自身が出陣する必要があったということだ。

周到に考え抜かれていた義元の作戦

この義元、大軍を率いながら織田信長に敗れたことで、公家趣味にかぶれた軟弱な武将というイメージが付着しているが、それもいまは否定されている。桶狭間合戦にいたるまでの義元の戦略は、周到に考え抜かれて隙がない。

「尾州桶狭間合戦」
「尾州桶狭間合戦」(写真=歌川豊宣/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

「豊臣兄弟!」の第3回では、信長のもとに前述のとおり、「松平元康が、義元の管轄下にある大高城に兵糧を入れ、織田方の丸根砦と鷲津砦を攻めている」という情報がもたらされる。この表記は史実のとおりと思われるが、肝心なのは、それがなにを意味し、どのように行われたか、である。

織田方は、鳴海城と大高城の周りに付城(敵の城を攻めるための臨時の前線基地)を築いていた。丸根砦と鷲津砦はともに、織田方が大高城を包囲するために、その東側に築いた付城だった。だが、この当時の大高城は、西側が海に突き出していたので、海路を使えば兵糧を運び込むのは難しくなかった。そのうえで、5月19日の未明までに、松平元康が丸根城を、今川義元配下のほかの軍が鷲津城を攻め落とした。

鳴海城の後援はこれからだったが、大高城を確保できていれば、海と川を経由しても、陸路経由でも、信長の居城がある清洲に攻め入るのは難しくない。義元はそうした読みのもと、主力群を大高城方面に配置し、大高城周囲の街道を押さえていた織田方の2つの付城を攻略させたのである。義元の本体は、あとは鳴海方面の付城を攻略しながら進み、大高城に入るだけでよかった。

ここまでの作戦は完璧で、油断もまったく感じられず、義元が負けるとは到底考えられないものだった。また、義元のねらいは、かつて考えられていたような上洛ではなく、織田方との長年の抗争に決着をつけることだったわけだから、信長にとっては、上洛途上の義元に蹴散らされるだけならまだしも、すっかり滅ぼされかねない状況だったといえる。

天候に助けられなければ信長の軍勢は

ただ、おそらくは義元の周囲には、いわれるほどの軍勢はいなかった。合戦場となった桶狭間山の周囲には深田があったので、攻められにくいと考えたのだろう。2万5000(『信長公記』では4万5000)といわれる義元の軍勢は、大高城方面など各地に散っていて、桶狭間への救援に駆けつけられる位置にはいなかったと思われる。

絶体絶命の信長は、まず鳴海城の東側に設置されていた付城である善照寺砦に入った。その後の行動は史料にはないので、想像するしかないが、おそらくは善照城から義元の軍勢の動きを見ながら進んだのだろう。

その後、信長が義元軍を奇襲したのか、正面から攻撃したのか、史料からはわからないが、近年は正面攻撃説をとる研究者が多い。『信長公記』によれば、そのとき雹ひょうが混じった雨が降り、しかも信長軍には追い風で背中から雨を受け、一方、義元軍には向かい風だったという。だとすれば、義元軍にとっては、視界が悪く、しかも大雨が降っているなか、追い風に乗って進んでくる信長の軍勢に対処する術がなかった、ということではないだろうか。

いずれにせよ、本来は義元の軍勢に抜かりはなく、事態が順当に進めば、歴史は大きく塗り替わっていた可能性が高いだろう。

香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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