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豊臣秀長の「父の謎」。史料から探る、秀吉と秀長の父は誰だったのか?【ミスター武士道の大河読み】

  • 2026.1.19

2026年大河ドラマ『豊臣兄弟!』で注目される豊臣秀長。「彼がいなければ秀吉は天下を取れなかった」とまで言われる、日本史上最高のナンバー2とはどんな人物だったのか?戦国時代を知り尽くした歴史系YouTuber・ミスター武士道の独自視点で、大河ドラマでは語られない豊臣秀長のリアルを紐解きます!

秀吉と秀長。二人の父親は?

父親についてはわからないことだらけ

秀吉と秀長、この二人の兄弟が貧しい身分から身を立て、戦国の世に名を知らしめていったことは、みなさんご存じのことかと思いますが、その父親については実はわからないことだらけです。

秀吉と秀長は父親が違う、すなわち母(のちの大政所、通称・なか)の最初の夫との子供が秀吉で、再婚相手の子が秀長という説が昔からありますが、これに関しても確かな史料がないため、本当かどうかわかりません。

とはいえ、わからないばかりでは面白くないと思うので、わかる範囲でこの兄弟の出自を考察していきましょうか。

「秀吉と秀長が異父兄弟」は本当か

秀吉や秀長が生きていた時代に書かれた記録(一次史料と言ったりします)に、二人の父親に関するものはないのですが、江戸時代の寛永二年(1625)に書かれた『太閤記』(著・小瀬甫庵)に言及があります。

この『太閤記』によると、秀吉の父の名前は「筑阿弥(または竹阿弥)」で、清須の織田大和守家(信長の織田家とは別)に仕えていたそうです。

しかし、おなじく江戸時代前期に書かれたであろう『太閤素生記』(著・土屋知貞)では、父親の名前は「木下弥右衛門」で、織田信秀(信長の父親)に仕えていた鉄砲足軽だったとされています。

そしてこの弥右衛門が秀吉8歳の時に亡くなったため、母親が筑阿弥と再婚し、秀長が生まれたとなっています。

これが秀吉と秀長が異父兄弟であるという説の根拠になってるわけですね。

「異父兄弟」説の根拠は土屋知貞の養母の昔話。ちょっとあやしい

ただし、これが本当だとすると矛盾が生じます。秀長は秀吉の3歳年下の弟。つまり、秀吉8歳の時には秀長はすでに生まれていて5歳なので、父親は同じ木下弥右衛門になるはずなんですよ。

なかなかややこしくなってきました。

そもそも、この『太閤素生記』を書いた土屋知貞という人がなぜ秀吉の素生を知っているのかというと、知貞の養母が信長の弓を預かっていた稲熊助右衛門という人物の娘だったので、この養母が秀吉のことを知っていて、知貞はその話をよく聞いていたからということです。

つまり、知貞が直接見聞きしたわけではなく、養母の昔話が情報源ということになります。

『太閤記』を書いた小瀬甫庵先生も、ちょっとあやしい

一方で、『太閤記』を書いた小瀬甫庵は、池田恒興(信長の直臣)や羽柴秀次(ともの長男・のちの関白)に仕えていた人物で、ほかに織田信長について記した『信長記』などの著者でもあります。

秀吉の甥である秀次に仕えていた人物ですから、知貞に比べてかなり秀吉に近いところにいた人物と言えます。

であれば、『太閤記』のほうが信用できるんじゃないか、と思う方も多いかもしれませんが、この小瀬甫庵先生は歴史界隈では非常に評判の悪い人物でして、というのも、結構嘘を書く人なんですよね。

歴史研究者というよりも、歴史小説家に近いタイプです。

秀吉・秀長ともに父親は「筑阿弥」と考えてよさそう

ということで、甫庵先生も基本的には信用ならないのですが、秀吉の父を「筑阿弥」とする史料はもう一つあります。

『祖父物語』という史料で、尾張国の柿屋喜左衛門という人が文字通り祖父から聞いた話をまとめたものです。

ここでは秀吉の父を「竹アミ」、生まれを清須としています。『太閤記』にかなり近い内容です。これはもしかすると『太閤記』の記述のほうが信頼できるような気がしてきました。

ほかに『太閤素生記』には気になる点があって、木下弥右衛門が鉄砲足軽だったという記述ですね。

鉄砲が日本へ伝来したのが、天文十二年(1543)、木下弥右衛門が死去したとされる年も天文十二年です。弥右衛門が鉄砲足軽だったというのは無理があるでしょう。

というわけで、『太閤素生記』の内容はあまり信憑性が高くないので、秀吉・秀長ともに父親は「筑阿弥」と考えてよさそうです。

木下弥右衛門は何者なのか

そうなると、木下弥右衛門が何者なのかは不明ですが、「弥右衛門」は「筑阿弥」の出家する前の名前、すなわち二人は同一人物なのではないか、というふうにも考えられています。

少なくとも、秀吉の父親の代から木下名字を名乗っていることは考えづらいので、知貞の養母の記憶違いか情報の混濁があったのでしょう。

いずれにせよ、二人の父親は清須の織田大和守家に武家奉公していた、名字を名乗ることが許されていないほどに没落した人物でした。

妻のなかが、名字を名乗れるほどの有力百姓の生まれだったのであれば、筑阿弥ももとは名字を名乗るほどの有力百姓だったのかもしれません。

しかし、なんらかの理由で没落して出家し、「筑阿弥」となったのであればいろいろと説明がつきます。

のちに秀吉自身は、天皇の落胤(歴史上では身分の高い男性が妻以外の女性に密かに産ませた子のこと)であると自称しましたが、そのような噓も貧しい出自であることを必死に隠そうとしたからこそ出るものだと思います。

解説/ミスター武士道●独学で歴史解説や情報発信をする歴史系YouTuber。歴史解説チャンネル『戦国BANASHI』は登録者数20万人超え。歴史解説のほか、城跡や世界遺産を巡るロケ、専門家との対談などにも力を入れている。

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