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「べらぼう」の替え玉説は荒唐無稽…史実では「従一位」まで上り詰めたラスボス一橋治済が残した幕府崩壊のタネ

  • 2025.12.7

第11代将軍徳川家斉の実父で、幕府政治に関与した一橋治済とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「NHK大河ドラマで描かれた展開とは異なり、史実では力を持ち続けた。彼による幕府乗っ取り計画は順調に進んだが、思わぬところに綻びが生じた」という――。

皇居の桜田門
※写真はイメージです
「水戸黄門」みたいになってきたNHK大河「べらぼう」

NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」も終盤にいたって、なにやら途轍もない展開になってきた。老中から失脚した松平定信(井上祐貴)を中心に、元大奥総取締の高岳(冨永愛)、田沼意次の側近だった三浦庄司(原田泰造)、火付盗賊改方の長谷川平蔵(中村隼人)らが集まり、一人の敵に立ち向かうことになった。

4人はそれぞれ、かつて平賀源内(安田顕)が戯作に書き、命をねらわれるきっかけになった「傀儡くぐつ好きの大名」を敵にしていたことに気づき、蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)も仲間に誘い込んだ。第44回「空飛ぶ源内」(11月16日放送)と第45回「その名は写楽」(11月23日放送)。

たしかに、これまで「べらぼう」では、10代将軍家治の後継に決まっていた家基(奥智哉)や、老中首座の松平武元(石坂浩二)が急死するときなどに、一橋治済(生田斗真)が傀儡を操る映像が重ねられ、背後で治済が暗躍していたことが示されてきた。

つまり、定信らは協力し合って、悪事の黒幕たる治済を亡き者にしようというのだ。東洲斎写楽の役者絵も、その文脈のなかで製作された。つまり、寛政の改革で活気を失っていた芝居町で曽我祭が開かれ、役者たちが通りで踊るので、それに合わせて人気の役者を絵にして、平賀源内が書いた噂を立て、治済をおびき寄せる――。

あまりに壮大なたくらみで、「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」のような仕掛けだと感じられてしまうが、話はその程度では終わらない。

さすがに荒唐無稽

第46回「曽我祭の変」(11月30日放送)では、いよいよ治済をおびき出すことに成功したかと思われたが、そうではなかった。治済は彼らの計略に気づき、先手を打って、毒饅頭で逆襲した。「傀儡好きの大名」への反撃もこれまでか、と思われたが、第47回「饅頭こわい」(12月7日放送)では、蔦重のアイデアで驚くべき策が講じられる。

そして、治済は定信や平蔵らに捕らえられ、遠くの孤島に送られ、彼らの復讐は成功するというのである。

「べらぼう」では、治済は替え玉に置き換えられるのだろうか。その後の治済がじつは替え玉だったかどうか、証明する手立てはないものの、さすがに荒唐無稽にすぎるのではないだろうか。実際には、その後も治済は隠然たる力を維持し、出世を重ねていく。

寛政11年(1799)1月には、従二位権大納言に叙任される。その年に家督を六男の斉敦に譲って隠居するが、文政3年(1820)4月には従一位、同8年(1825)3月には准大臣にまで上り詰めている。ただし、「べらぼう」で治済が排除された寛政6年(1794)から同7年(1795)ごろから、それ以前にくらべると、影響力が多少は薄らいできたという指摘はできる。

徳川治済の肖像
徳川治済の肖像(写真=『改訂版 一橋徳川家名品図録』茨城県立歴史館、2011/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
なぜ治済はラスボスとなったのか

徳川家斉は将軍になった天明7年(1787)の時点では、まだ15歳(満13歳)だった。しかし、大人になるにつれ、みずから御庭番(8代将軍吉宗がもうけた将軍直属の秘密情報組織)を駆使するなどして、独自に情報を集め、老中まかせにせずに幕政に関わるようになっていった。

それは父治済の意に反することだったようだが、治済は別の方面で、自身の野望を貫徹するために、着々とことを進めていた。

一橋家とは、将軍吉宗が将軍家の血筋を絶やさないためにもうけた御三卿のひとつである。では、御三卿は御三家とどう違ったのか。

尾張、紀州、水戸の御三家は、それぞれが独立して広大な両地をもつ大名で、独自の家臣をかかえていた。一方、御三卿は領地をもたなかった。すなわち大名ではなく、幕府の直臣として江戸城内に住み、将軍の直轄領から扶持を受けとる身分だった。このため、歴史や家格、領地や権限に関して、御三家にはかなわなかった。

そこで一橋治済は、太平の世にふさわしい武力以外の方法で、一橋家の力を拡大しようと試み、成功を収めるのである。

全国を一橋で埋め尽くす

治済の嫡男の豊千代(のちの家斉)が、10代将軍家治の養子になったとき、最初に治済が求めたのは、男児をもうけて将軍家の血筋を絶やさないことで、実際、家斉は将軍職を継いだ際、一橋家から「子女を多くもうけるように」という訓戒を受けている。

家斉はそれに忠実に従ったわけだが、生涯にわたって53人もの子女をもうけるに当たっては、体力も必要になる。鈴木壮一氏はこう書く。「家斉は『白牛酪』という今のチーズのような高タンパク乳製品を好み、生姜も大好物で一年中毎日欠かさず食べた。さらに精力増強のためオットセイからつくった粉末の漢方薬(海狗腎という)を飲んでいたので、『オットセイ将軍』とも呼ばれた」(『遊王将軍・徳川家斉の功罪』花伝社)。

治済の最大の野望は、こうしてできた息子の子女を、各地の大名のもとに送り込んで、将軍家を筆頭に全国の大名家を一橋の血で埋め尽くすことで、それはおおむね達成された。

家斉を将軍にして将軍家を「乗っ取った」治済は、まず自身の五男の斉匡を、松平定信が白河藩の松平家に養子に出て以来、継ぐ者がなかった田安家に送り込み、一橋家は前述のように、治済の六男の斉敦に継がせた。また、清水家には家斉の五男の敦之助を送って、御三卿をすべて一橋で埋めた。

御三家の水戸には孫娘を送り込んだ

続いて、家斉の七女の峰姫を水戸徳川家の斉修に嫁がせた。

木造復元された水戸城大手門。茨城県水戸市三の丸
木造復元された水戸城大手門。茨城県水戸市三の丸(写真=Miyuki Meinaka/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

さらに、治済の次男である治国の子の斉朝を尾張徳川家の宗睦の後継に据え、斉朝に男子ができないと、家斉の十九男の斉温を送り込んだ。しかし、斉温が早世するので、続いて家斉の十二男の斉荘が尾張に入った。だが、こうして一橋の人間を押しつけられるだけでは、尾張徳川家も納得しない。そこで、10万石の価値があるといわれた近江八幡の統治権をあたえている。

紀州徳川家には、七男の斉順を治宝の養嗣子として送り、同家を継がせた。これで将軍家および、それを継ぐ可能性がある御三卿と御三家のすべてを、一橋の血で染めたことになった。

ほかにも親藩をはじめ有力大名に、家斉の子を次々と送り込んだ。その際、とくに親藩に対しては「エサ」をあたえて納得させた。福井藩松平家に二十二男の斉善を入れた際には2万石、津山藩松平家に十五男の斉民を入れた際には5万石、明石藩松平家に二十六男の斉宣を送った際にも2万石を加増するなど、好条件で釣っている。外様でも佐賀藩鍋島家に十八女の盛姫を送り込んだ際には、年額3000両の持参金をもたせている。

そして幕府の転覆に

むろん、これらの縁組は、文政10年(1827)2月に治済が死去して後のものも含むが、基本的に治済が敷いた路線にもとづいて行われたといえる。こうして領土も直臣ももたない一橋家が、血縁関係による全国制覇を成し遂げたのである。

ただ、そこには一点だけ「落ち度」が生じていた。水戸徳川家に嫁いだ峰姫に子が産まれなかったため、水戸だけは一橋の血に染まらなかった。それについて後藤一朗氏は「水戸だけが、一橋の血の外になったことは、以後の治済の思惑にただ一つの禍の種を残す結果となった」と書き、こう続けている。

「治済・家斉の死後のことになるが、維新の前、徳川の藩屏である御三家水戸が、尊王攘夷の急先鋒となり、幕府にたてつき、安政の大獄、井伊大老襲撃、筑波山挙兵など、多くの大事件の中心となって人々を驚かせた。これは、烈公水戸斉昭が一橋の血の外であり、“一橋一家”ともいうべき当時の徳川幕府に対して好感が持てず、幕府もまた彼一人に冷たかったからである(『田沼意次 その虚実』清水書院)。

ひとつの血で染めすぎた結果、事態が変化したとき、幕府そのものが転覆しやすくなったという指摘はできる。また、このような親戚ネットワークによってある種の安定を得たために、時代に合わせた改革を行うという視点が失われ、幕府の崩壊が早まったともいえるだろう。

それは一橋治済が、「べらぼう」で描かれた「政変」後も、隠然たる力を行使したからである。

香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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