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【追悼】アントワープ・シックスのひとり、マリナ・イーの静かなる軌跡

  • 2025.11.14
2003年、アトリエにて。
BELGIUM-FASHION-MARINA YEE2003年、アトリエにて。

アントワープ・シックスのひとりであるマリナ・イーが11月1日(現地時間)、諸聖人の日にこの世を去った。がんだった。諸聖人の日は、すべての聖人だけでなく、「信仰を持って静かに生きて亡くなった一般の信徒」を祝う日でもある。これはまさに、自らのファッション信条に従い、創作に没頭したイーの生き方を表現するにふさわしい。

表舞台に立つことを避け、どこか隠遁者のようだったイーは、『StyleZeitgeist』誌の創刊者でありファッションライターのユージーン・ラブキンに自らを「一匹狼」と語っていた。個人主義者である彼女は自らの自由を頑なに守ったが、これは決してプライドによるものではない。子どもの頃に何度も引っ越しを繰り返したというイーの過去のインタビューを読むと、彼女のもろく繊細な一面が垣間見えるだろう。さまざまな葛藤を抱えていた彼女は、なかでもアートやファッションに対する自分の立ち位置を疑問視していたようで、『1 Granary』誌には「何年もの間、私は足の生えた“クエスチョンマーク”になった気分で過ごしてきました。自分がどのようなアーティストなのかというジレンマに悩まされ、そのジレンマが私を用心深くさせたのです」と語っている。

イーは自身のデザイナーとしての在り方を自問自答していたが、そのビジョンは揺るぎないものだった。アントワープのモード博物館(MoMu)のディレクターであるカート・デボは、イーについて「繊細な心の持ち主で、自分が何を求めているのかよくわかっていた」と話す。彼女が求めていたものとは、静かでゆっくりとした、パーソナルなファッションへのアプローチであり、魂とストーリーを宿した服だった。

マリナ・イーがデザインしたM.Y. 2024-25年秋冬コレクションより。
マリナ・イーがデザインしたM.Y. 2024-25年秋冬コレクションより。

自身を「新しいタイプの昔気質」と考えていたイーは、主にヴィンテージの服をアップサイクルすることで知られる。特にコートや実用的なアイテムに惹かれていた彼女は、衣服に「耳を傾け」、本能的に制作していった。クラシックなシルエットに手を加えることはほとんどなかったものの、そうするときの彼女は常に注意深く、そのディテールは意図的だった。例えば、彼女がデザインした「Jean Genie」ボマーは、ジャケットの片側にハンドカットしたヴィンテージデニムのパネルがあしらわれていたり、「Eliah Jack」のようにキュビズムの作品に見えるようなものもあった。また、イーがデザインする服にはすべて、黒のコットン生地で作られた取り外し可能な「オスカー・ワイルド」のリボンがついている。

ファッションブログ『Duchump』を運営するライターのクリス・マラディアガとのインタビューで、イーは「片方の角を取る」というフランドル地方の表現を使って自身の制作プロセスを説明しているが、それは「完璧なものを作ったら、それを乱すために何かを直感で壊すこと」を意味するという。

長年にわたりさまざまなプロジェクトを手がける傍ら、大学で教えるなど、黙々と働いてきたがイーだが、2018年に東京のコンセプトショップLAILA TOKIOとのコラボレーションをきっかけにファッションに復帰することを決意。2021年には、自身のレーベル「M.Y.」を正式に立ち上げた。「マリナは自由と個性をいちばんに大切にしていました」とデボ。「彼女は型にはまらないキャリアを追求し、ファッションを創造するための自分なりの方法を常に模索していました。彼女は長い間、業界から身を引いていましたが、アーティストとしてもデザイナーとしても、自分のアトリエで精力的に仕事を続けました。彼女の作品群はファッションの枠を超えたものであり、それは彼女の卓越した才能の証でもあります。彼女はファッション業界のルールに抵抗する勇気を持っていたのです」

2018年に目標は何かと問われたイーは、こんなふうに答えている

「いくらかの人々が、私の服を好んで着てくれることでしょうか。もちろん、とてもシンプルな答えです。評価を追い求めることですね。いや、そうでもない。私はちょっとした嘘をついているのかもしれません。誰だって、何かを作ったら、認めてもらいたいでしょう。でも(私の服は)ある意味でとても実用的なんです(笑)。服のディテールに、ちょっと特別な何かが隠されています。そんなに目立つものではないので、最初はわからないかもしれません。でも、人々にディテールの美しさというものを楽しんでもらいたいですし、よりスローなファッション、より静かなファッションに触れ、賛同してもらえたらと思います」

マリナ・イーの誕生からデザイナーとしての軌跡

1958年

アンティークディーラーの娘としてベルギーのアントワープに生まれる。『Wanderful』によると、ファッションに目覚めたきっかけは、母親が持っていた『100 Idées』や『Marie Claire』といったファッション誌に触れたことだった。また、「20歳になるまでに14回以上引っ越した」という。

1973年

15歳でハッセルトのシント・ルーカス・インスティテュートに入学。

1976年

マルタン・マルジェラとともにアントワープに移り、王立芸術アカデミーに入学する。イーは2017年に『Wanderful』でこの頃を振り返り、「当時はファッションというもの自体が存在していないも同然だったので、何も期待していなかった」と述べている。

1981年

アン・ドゥムルメステール、ダーク・ビッケンバーグ、ダーク・ヴァン・セーヌ、ドリス・ヴァン・ノッテン、ウォルター・ヴァン・ベイレンドンクらとともに卒業し、「アントワープ・シックス」として知られるようになる。このグループの陰の立役者であるグラフィックデザイナーのヘルト・ブルルートは1987年、本誌でもお馴染みのライターであるサラ・マウワーに「結束しなければ、チャンスはなかった」と語っている。

イー自身は、2025年の『1 Granary』のインタビューで当時をこう回想している。「私たち(アントワープ・シックス)は、1981年に打ち出された『テキスタイルプラン(ベルギー政府によって繊維産業の活性化のために打ち出された計画)』の目玉だったのです。その一環として、ベルギーの繊維・製菓協会(ITCB)によるプロモーションキャンペーンが、雑誌『Mode, dit is Belgisch』と『ゴールデン・スピンドル』というファッションコンテストの2本柱で行われました。あるひとつのことがきっかけで、私たちはいつの間にか大きなことに巻き込まれていったのです」

1982年

1982年、「ゴールデン・スピンドル」で発表されたマリナ・イーのコレクション。
1982年、「ゴールデン・スピンドル」で発表されたマリナ・イーのコレクション。

ファッションコンテスト「ゴールデン・スピンドル」に初参加。

1984年

マリナ・イー 1985-86年秋冬コレクションより。
マリナ・イー 1985-86年秋冬コレクションより。

「ゴールデン・スピンドル」の後、イーはブティックの「Stijl 」を経営するソニア・ノエルからプロトタイプの販売を打診される。

1986年

マリナ・イー 1988年春夏コレクションより。
マリナ・イー 1988年春夏コレクションより。
1980年代、バセッティでのスケッチ。
1980年代、バセッティでのスケッチ。

アントワープ・シックスがロンドンで開催されたブリティッシュ・デザイナー・ショーに参加したことで、ベルギー発のファッションが注目の的に。

1997年、『VOGUE』は同じアントワープ・シックスのメンバーであるアン・ドゥムルメステールのプロフィールのなかで、「アントワープ・シックスは自分たちの作品をワゴン車に積み、ロンドンに飛んだ。このショーに参加したことで、彼らは国際的なグループとして、アントワープがファッション都市として認知されるきっかけを作った」と記している。

「1986年、アントワープ王立芸術アカデミーに在籍していた6人の学生が資金を出し合い、ワゴン車を借りて、秋のコレクションをロンドンのショーに持ち込んだとき、彼女たちがあれほど注目されるとは誰もが予想だにしなかった。ベルギーの名前の発音が難しいがゆえに、国際的なプレスやバイヤーがこのグループを『アントワープ・シックス』の名で取り上げたことも、その存在を知らしめるのに一役を担った。画家のルーベンスのような卒業生を輩出する厳格なアカデミーで学んだということ以外、スタイル的な共通点はほとんどなかった。しかし、ファッションの世界では、たとえ意味をなさない名でも、まったく無名よりはましなのだ」

イーはベルギーのレーベル、グルーノ&シャルダン(GRUNO & CHARDIN)やバセッティ(BASSETTI)で働く。1990年頃まで自身のレーベル、マリー(MARIE)を手がける。

1989年

Business of Fashion』によると、マルタン・マルジェラがパリで初のショーを発表したすぐ後、イーはファッションから離れた。イーはマルジェラとの関係について、ラブキンにこんなことを明かしている。「彼(マルジェラ)は私のことをインスピレーション源としていました……私は彼のミューズだったのです。個性、ヘア、メイクに至るまで、クリエイティビティの糧となるものすべてにおいて。(マルジェラの最初のショーで)ランウェイを歩いているモデルがマリナのようだと言う人もいましたが、本当にそうだったんですよ……私は誰かのためのインスピレーションではなく、自分自身のインスピレーションでありたかったのです」

Duchump』のクリス・マラディアガとのインタビューでは、イーはファッションから撤退した時期をこう振り返っている。「成熟への一歩だったのだと思います。以前の私はとても不安定でした。愛や受容を求め、地べたを這いずり回る覚悟でいたくらいです。そんなことはしなかったけれど、私はとても惨めでした。だから同じ時期にファッションをやめたのです。マーティンもアンもドリスも、みんなビジネス志向で、バックアップがあって、家族があって、お金があって……そういう資質があったのです。でも私にはなかった。私はただのアーティストでしたから。そしてそれは、孤独なことです」

息子のファラを妊娠していたイーは、両親の家に戻った。そこで彼女は、家にあった雑貨などを活用して創作活動を行い、マーケットで売ることに成功した。その後、兄の勧めで彼の住むブリュッセルに移り住み、自身の店をオープン。1992年には、そこで「Indigo」というカフェもスタートさせた。

2000年〜

アントワープ王立芸術アカデミーの2013年卒業ファッションショーの審査員。左からマリナ・イー、ダーク・ビッケンバーグ、アン・ドゥムルメステール、ウォルター・ヴァン・ベイレンドンク、ドリス・ヴァン・ノッテン、ダーク・ヴァン・セーヌ。
BELGIUM-FASHION-SHOWアントワープ王立芸術アカデミーの2013年卒業ファッションショーの審査員。左からマリナ・イー、ダーク・ビッケンバーグ、アン・ドゥムルメステール、ウォルター・ヴァン・ベイレンドンク、ドリス・ヴァン・ノッテン、ダーク・ヴァン・セーヌ。

2000年代を通して、イーは劇場やダーク・ビッケンバーグを含むほかのデザイナーのためにデザインする。

2018年

東京のコンセプトショップ、LAILA TOKIOのオープン10周年を記念し、「M.Y.」という名のもと一連のコラボレーションコートを発表。イーはこのとき、『VOGUE』のインタビューで「自分に合ったファッションを作る方程式を示したかった」と明かしている。「ファッションのシステムやその世界、そして同期のデザイナーたちのような商業的な関わり方から外れてから、私は少し秘密めいた生活、あるいは静謐な生活を送るために多くの時間を割いてきました。その間に、自分の芸術的な実験においても成熟し、自分が何者であるかを見つけることもできました。長い年月を経て、私は多くのことを学んだと思います。そして私は、いかなるときもファッションデザイナーであり続けました。いつもデザインしたり、自分のために作ったり、スケッチしたりしていましたから。また、ファッション界で起こっていることを常に吸収していました。仲間の仕事だけでなく、市場の変化なども。だから、ファッションデザイナーとして、自分の資質、そしてこのコレクションを発表するいい機会だと思ったのです」

AnOther』誌では「私はボヘミアン。常に創造し、創造することを決してやめません」と語っている。

2021年

クリエイティブコンサルタントのラファエル・アンドレアソンの勧めもあり、イーはファッションの世界に戻ることを決意。モード博物館(MoMu)のディレクターであるカート・デボは、「60歳を迎えたばかりの2021年、彼女は再び自身のレーベル、M.Y.を立ち上げ、毎シーズン新しいコレクションを発表する予定でいました」と話す。「M.Y.は、ファッションにも人間的な側面があることを示す、サステナブルなブランドでした。より大きく、よりよく、より壮大であることは、彼女が目指すものではありませんでした。持続可能性と誠実さが、彼女にとっての指針だったのです」

2023年

長年勤めていたゲントの王立美術アカデミー(KASK)とハーグの王立美術アカデミー(KABK)のテキスタイル・ファッション科での教職を退職。「生徒たちに私が持っている知識を伝え、失敗なんてものはないと安心させることが、教師としての私の原動力でした」とイーは『1 Granary』に語っている。

2024年

M.Y.アトリエの様子。
M.Y.アトリエの様子。

ベルギーファッションアワードで審査員賞を受賞。イーはこのときの心境を、『1 Granary』に次のように明かしている。「最も心を動かされたのは、賞そのものよりも、審査員が私を選んだ理由でした。特に思い出すのは、ファッション評論家のリー・エデルコートの言葉です。私が表舞台から消えて無名の存在になるのではなく、強くなって復帰したのだと、彼は話してくれました。この何年もの間、私がどうやって自分の意思を貫いてきたかに、彼らは感銘を受けたのです。そのとき初めて、私は本当に勇敢だったのだと気付かされました」

2025年

2025年、パリのドーバーストリートマーケットにて。M.Y.のインスタレーション。
2025年、パリのドーバーストリートマーケットにて。M.Y.のインスタレーション。

ブリュッセルのファッション&レース博物館で開催された『40 Years of Stijl』展に出展。MoMuは2026年の『アントワープ・シックス』展を発表。

「2021年にスタートしたばかりのコレクションは、今後も続きます。マリナの最大の願いでしたから」と、ラファエル・アンドレアソンは断言する。「過去20年間、彼女がプライベートな空間であるアトリエで創り上げてきたデザインを、遺産として受け継いでいきます。私たちは今後、新しいスタイルを提案するつもりはありません」

Text: Laird Borrelli-Persson Adaptation: Motoko Fujita

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