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左手のフルート奏者が被爆樹木の下で込める「平和」の思い…生きた慰霊のカタチとは

  • 2025.10.4

右半身まひの障害を抱えながら左手でフルートを演奏している札幌の畠中秀幸56歳さん。

沖縄のあとに、畠中さんが慰霊の演奏をした地は被爆地、広島。
故郷で祈りの音色が響きます。

80年前、戦争で初めて原爆が投下された午前8時15分。

「黙とう」

広島市で多くの人が祈るその中に、左手のフルート奏者、畠中秀幸(56)さんがいました。

「8時15分の瞬間にどれだけの命が消えたと思うと、戦後80年で注目されているが常々持ち続けないといけない気持ち」

畠中さんは、被爆3世です。

広島市中心部から車で1時間の場所にある大竹市に今も実家があります。

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畠中さんの祖父・只人さんは、当時2歳だった畠中さんの父、嗣郎(82)さんと一緒にリアカーを引いて爆心地まで、親戚を探しに行きました。

「祖父が34歳、リヤカーをひいて30キロ離れた爆心地まで行った。父の話によると、連れてきた人が部屋に寝ていて怖かったと」

被爆の状況をあまり話すことはなかったという祖父・只人さんは、被爆者手帳を受けとらなかったといいます。

「生きた慰霊」で伝えること

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畠中さんの父、嗣郎さん(82)があの日のことを語ります。

「真っ赤になっている人ばかりだった。やけどで赤いのと赤い消毒液を塗っていた。その記憶だけは鮮明にまだ脳裏から離れません」

息子が広島で慰霊の演奏をすることについては…

「涙が出ましたね。僕ができないから秀幸がやってくれる」

病気で半身まひとなった右側と健常な左側の2つの違う感覚がある畠中さん。
相容れないものどうし対話し、新たな価値をつくりだすことを大切にしています。

しかし「原爆」に関して、相反するものとの対話は成立しないと畠中さんはいいます。

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「絶対的な暴力です。許すわけにいかないという感情的なものはある。どうしても広島県人なのであるんです」

「でも、それを感情的にやってしまうと、僕は同じ列に落ちてしまう。だから僕は慰霊演奏という形で、次の世代に伝えないと意味がない。生きた慰霊にならない」

被爆樹木の下でつなぐ平和の祈り

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原爆ドームから約300メートルの場所にある、1本のシダレヤナギの木。被爆樹木です。

畠中さんが参加したのは、毎年8月6日に被爆樹木の下でアーティストらによる平和を祈る活動です。企画したのは、写真作家の浅見俊哉さん。

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被爆してもなお、成長するシダレヤナギを8月6日の日光で姿を映し出して、作品を作り続けています。

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「被爆樹木もそうだが、苦悩や傷ついた経験が表現に反映されている」

畠中さんは「圧倒的な暴力に対するカウンターアクションとしての浅見さんのアート活動にほとんど同じことを考えた」と話します。

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この木の下で、祖父、そして原爆で亡くなったすべての人に向け、慰霊の演奏をします。

「感極まったというか。水や木の自然の循環が亡くなった人の思いと重なったのを感じた」

「強烈な攻撃性からすると小さいアクションかもしれないが、そういうことを繰り返していかないとだめだと思っている」

畠中さんの妻のさおりさんは「体調もギリギリだと思います。やりたいことやるのが優先なんですよね、それに体調を間に合わせる」と話します。

広島が受けた傷は、計り知れない悲しみを生みました。

しかし、畠中さんは同じ傷を返さず、音楽でつなぐ形を模索しています。

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原爆で亡くなったすべての人に向け、慰霊の演奏をします。

病気によって左手でフルートを演奏する畠中さん。

演奏を聴いた人からは「世界がやっぱり一体となる日だと思って、その音色が聞こえてきた感じがした」「祈りの音色ですよね」という声が。

「そういう演奏がしたい」と話す畠中さん。これからも音楽で平和の大切さを伝えていきます。

文:HBC報道部
編集:Sitakke編集部あい

※掲載の内容は「今日ドキッ!」放送時(2025年8月13日)の情報に基づきます。

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