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NHK大河で再び浮上した“設定”に視聴者ざわつく「なぜ今さら」2人が距離感をやたらと“気にする理由”とは?

  • 2025.10.23
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『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』10月19日放送 (C)NHK

栃木から江戸へと戻った歌麿(染谷将太)が、蔦重(横浜流星)と再会する場面で、ふと視聴者の記憶が刺激される瞬間があった大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』第40話。蔦重が彼に歩み寄ろうとした際、歌麿が思わず「あんまり馴れ馴れしいのもよ」と拒む一言を放つのだ。そのセリフが、かつて提示された“歌麿=男色”という設定を不意に思い出させる。忘れかけていたその属性を、なぜいまになってふたたび持ち出すのか。制作側の意図を読み解くことが、この回を理解する鍵となる。

※以下本文には放送内容が含まれます。

第40話での再提示:瑣吉の登場と“男色の相”

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『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』10月19日放送 (C)NHK

史実上、歌麿が男色、あるいは男娼(陰間)であったという記録はない。つまりこの設定は完全なドラマオリジナルである。それにもかかわらず、脚本は折に触れてその設定を再燃させる。単なる性的嗜好の描写にしては、あまりに意図的だ。

では、この“男色設定”は何を象徴しているのか。見方によっては、ここに“芸術家としての距離感”という主題が潜んでいると言える。

歌麿にとって愛とは、創造と破壊を同時に孕む危険なエネルギー源である。愛欲と創作、快楽と禁忌の境界を行き来する彼の生き方を、制作側は“性愛の多様性”という現代的な文脈で再構築しているのではないか。歌麿ときよ(藤間爽子)をめぐるエピソードに、その片鱗は嫌というほど散りばめられていた。

この再提示のトリガーとなったのが、新キャラクター・滝沢瑣吉(津田健次郎)の登場だ。瑣吉はまさに占い師のような口調で、あいつには男色の相があるなどと言い放つ。このセリフを、あえて新しい人物の口から語らせたことが重要である。制作陣は、視聴者に対しあらためて“歌麿=男色”の設定を思い出させる演出を提示している。

つまり、“男色の歌麿”という設定を一時的な要素として消費させないための再強調なのだ。

ドラマがこの要素を繰り返すのは、視聴者に“忘れさせたくない何か”……つまり、性愛のゆらぎそのものが、歌麿という人物の核心であるという事実を印象づけるためだろう。SNS上でも、歌麿の男色設定については「なぜ今さら?」と蒸し返しを疑問に思う声が挙がっている。

芸術家の宿命としての位置付け

歌麿と蔦重の関係には、商売上のパートナーを超えた“熱”がある。ふたりの間に漂う緊張感は、芸術的共鳴にも似た恋愛的な磁力だ。

歌麿が「あんまり馴れ馴れしいのも」と言って拒むのは、単なる照れや人間関係の距離ではない。そこに“蔦重への情念”が甦る危うさを感じ取っているのではないか。視聴者はその微妙な距離を見つめながら、芸術の根底に潜む愛憎を意識する。ドラマはこの構造を巧みに利用し、創作の背景に“性愛”を位置づけている。

蔦重が愛したのは、絵師としての歌麿か、それとも……。この曖昧さこそが、作品全体に緊張をもたらしている。

くわえて、本作の優れている点は、男色を“異端”として扱わないことだ。松平定信(井上祐貴)による風紀粛正の時代、性愛の自由は政治への抵抗を意味する。

だからこそ、歌麿の性愛は権力に対する“逸脱の象徴”としても機能する。愛の形を問わず、欲望を描こうとすること。それ自体が、幕府の抑圧に対する芸術的反抗なのかもしれない。

つまり、男色設定は性的マイノリティを演出するためではなく、芸術家・歌麿の“自由への衝動”を視覚化するための装置として存在している。性愛の自由を描くことが、政治的意味を帯びる時代背景と結びつく。これが、ドラマが採用した最大の批評的仕掛けである。

男色設定は社会への“鏡”?

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『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』10月19日放送 (C)NHK

現代の映像作品では、同性愛が“多様性演出”として消費されることも少なくない。しかし『べらぼう』は、それとは明らかに異なる文脈を持つ。

ここで描かれるのは、性の政治性、芸術の倫理、そして観る者の感情そのものだ。

視聴者が「不快」「美しい」はたまた「理解できない」といった多様な反応を示すこと自体を、制作側は意図しているのではないか。すなわち、“男色設定”は現代社会への鏡であり、“あなたはどんな性愛を許容し、どんな愛を排除するのか?”という問いを突きつける挑発的な仕組みなのである。

結局のところ、歌麿における性愛は、創造力の根源であり、同時に彼を破滅へと導く毒でもある。彼がかつての恋人・きよを描けなくなったとき、創作の火は一時、潰えた。それがふたたび男色という形で甦るのは、愛の対象の喪失=創造の再起動を意味している。

歌麿の欲望は常に不安定で、愛の形が変わるたびに、新しい絵が生まれる。この“揺らぎ”こそが芸術家の宿命であり、男でも女でもない“愛”の形こそ、NHKが現代的に再解釈した自由の象徴である。

『べらぼう』が描くのは、性愛を超えた創造の業であり、その先にあるのは“愛の政治”……時代と性、権力と芸術のせめぎ合いなのだ。


NHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』 毎週日曜よる8時放送
NHK ONE(新NHKプラス)同時見逃し配信中・過去回はNHKオンデマンドで配信

ライター:北村有(Kitamura Yuu)
主にドラマや映画のレビュー、役者や監督インタビュー、書評コラムなどを担当するライター。可処分時間はドラマや映画鑑賞、読書に割いている。Twitter:@yuu_uu_