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「他の人じゃできなかった」“ドラマ史に刻まれる”母性像を体現した稀代の女優、演技が“存在”に昇華した最終話【NHKドラマ】

  • 2025.9.26

NHKドラマ『母の待つ里』は、浅田次郎原作らしく涙と笑いを交錯させながら、東北の原風景を舞台に、母が待つ故郷を描いた。第4話(最終話)では、主人公たちが通夜の席で“ちよの子ども”として結びつけられ、最後には待ち続けた母と再会する幻想的な場面で幕を閉じる。ここで強調されるのは、父の徹底した不在である。

“謎のなさ”を演じる難題

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土曜ドラマ『母の待つ里』最終話 9月20日放送 (C)NHK/テレビマンユニオン

擬似兄弟の一人である松永徹(中井貴一)は、最後まで母・ちよ(宮本信子)の正体を探ろうとする。しかし、結局そこに謎はなかった。彼女はただ“子を待つ母”として存在していたのだ。

この“謎のなさ”こそ、演技においてもっとも難しい領域だろう。派手な秘密や劇的な告白を持たない人物を、どうすれば観客に魅力的に映すことができるのか。

宮本信子の演技は、その問いへの回答であった。彼女の演じるちよは、一切の虚飾を排し、自然体のまま“母”を体現する。その微笑み、沈黙、畑に立つ姿。それらが語るのは、“母は待ち続ける存在である”という普遍的な真理である。SNS上でも宮本の演技について「嗚咽するほど泣いた」「見応えある」「他の人じゃできなかったと思う」という声が多い。

演技が“存在”にまで昇華したとき、視聴者はちよをキャラクターとしてではなく、自分自身の母や祖母の姿と重ね合わせて受け止めることになる。

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土曜ドラマ『母の待つ里』最終話 9月20日放送 (C)NHK/テレビマンユニオン

“ふるさとサービス”によって集った夏生(松嶋菜々子)、精一(佐々木蔵之介)、徹、田村(満島真之介)らは、血縁ではなくサービスを介した擬似兄弟にすぎない。だが、ちよにとっては皆“我が子”であった。震災で実子を失いながらも「いつか帰ってくる」と信じ続けた彼女は、やがて現れた他者たちを自然に受け入れる。

ここで重要なのは、母性が血縁を超えて機能するという点である。宮本が演じる母性は、単なる情緒ではなく“共同体を再生させる力”として描かれる。村人総出で通夜を準備し、義兄弟たちが再生の計画を語る場面は、ちよの存在がコミュニティを包み直す核であったことを示している。

故郷を象徴するのは常に母であり、父は描かれない。誰も「父に会いに帰る」とは言わない。そこに浮かび上がるのは、日本的原風景としての“母の神話”ではないか。母は、血縁であれ擬似家族であれ、無条件に迎え入れる存在であり、父はそこにいないのだ。

宮本信子のキャリアと母性像

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土曜ドラマ『母の待つ里』最終話 9月20日放送 (C)NHK/テレビマンユニオン

宮本は、近年、映画『メタモルフォーゼの縁側』でも擬似的な“おばあちゃん”を演じ、若い世代を包み込む存在感を示した。本作『母の待つ里』は、その延長線上にある。彼女が演じる母性は、血縁や制度の制約を超え、観客に安心感と普遍性を与える。

宮本の演技は“母性という記号”を生きた経験で裏打ちすることで、リアリティに転換するのだ。つまり、母を演じているのではなく、“母であること”をその場で現前させる。そこに宿るのは、俳優としての技術と、人間としての体験が融合した稀有な境地である。

『母の待つ里』は、震災や過疎という現代的テーマを背景にしながらも、最後には“母が待つ故郷”という神話的原風景へと回帰した。そこには父の影はなく、母だけがいた。そしてその“母”を、宮本信子が体現した。

彼女の演技は、謎を持たない人物を深遠に映し出すという難題を乗り越え、母の神話を観客に現実の温もりとして届けた。最終回の満面の笑みは、演技でありながら演技を超えた瞬間であり、日本のドラマ史に刻まれる母性像である。

『母の待つ里』は宮本信子という稀代の女優の力によって、単なる家族劇を超えた批評的寓話となった。母を待つのではなく、母が待っている。その逆転した構造のなかに、日本人が失いつつある“帰る場所”のイメージが息づいていた。


NHK 土曜ドラマ『母の待つ里』 毎週土曜よる10時放送
NHKプラスで見逃し配信中

ライター:北村有(Kitamura Yuu)
主にドラマや映画のレビュー、役者や監督インタビュー、書評コラムなどを担当するライター。可処分時間はドラマや映画鑑賞、読書に割いている。X(旧Twitter):@yuu_uu_