1. トップ
  2. 恋愛
  3. やなせたかしは妻に「食べさせてあげる」と言われたが「そんなことさせるか」と奮起…元秘書だけが知る素顔

やなせたかしは妻に「食べさせてあげる」と言われたが「そんなことさせるか」と奮起…元秘書だけが知る素顔

  • 2025.8.9

朝ドラ「あんぱん」(NHK)のモデルである漫画家・絵本作家やなせたかし氏。『やなせたかし先生のしっぽ やなせ夫婦のとっておき話』(小学館)を上梓した元秘書の越尾正子さんは「先生には奥さんが養ってあげると言っても、そうはさせないという意地があった」という――。

33年前、やなせたかしの秘書になった

NHK朝ドラ「あんぱん」が話題を呼んでいます。アンパンマンの生みの親・やなせたかしさん(1919~2013年)をモデルにした物語で、私は20年以上にわたってやなせ先生の秘書をしていたので、毎朝、楽しみにしています。

『NHKドラマ・ガイド 連続テレビ小説 あんぱん Part2』(作:中園ミホ、NHK出版)
『NHKドラマ・ガイド 連続テレビ小説 あんぱん Part2』(作:中園ミホ、NHK出版)プレスリリースより

私が「やなせスタジオ」で働くことになったきっかけは、やなせ先生の奥様、暢のぶさんに声を掛けられたことでした。1992年、43歳のときにそれまで勤めていた協同組合を辞めた私は、次に就職する会社ではのんびりと決まった時間だけ働き、決まった賃金をもらい、好きなことだけしてつつましく生きていきたいと漠然と考えていました。でも、趣味の茶道は続けたかったので、お茶の先生だった暢さんに退職したことを話したら、「うちに来ない?」と誘ってくださったんです。

それまでやなせ先生の仕事を手伝っていた暢さんの妹・瑛えいさんが高齢になり、体調不良もあって、後任を探していたタイミングだったそうで、私に白羽の矢が立ったようです。ただ、そのときは、「モノを書く人やモノ作りをする人は恐ろしく繊細な神経を持っているだろう。私のような粗雑な性格の人間には無理だ」と思い、後日返事をすることにして、数日迷いました。

結局、私が有限会社やなせスタジオに就職を決めたのは、お茶の稽古に行きづらくなるのが嫌だったからという理由から。そこからまさか20年以上勤めることになるとは夢にも思いませんでした。

茶道の先生だったやなせ夫人に誘われた

入社が決まって、暢さんからやなせ先生に「今度、うちの経理や事務を手伝ってもらう越尾さんです」と紹介してもらうと、先生はさらっと「うちの仕事は簡単だからよろしくね」とおっしゃいました。主な仕事は経理と事務全般。前任者から伝票や帳簿を引き継ぐと、暢さんから会社や個人の通帳と印鑑を渡され、それを保管する金庫の番号から鍵の置き場まで教えられました。

やなせスタジオ代表取締役・越尾正子さん
やなせスタジオ代表取締役・越尾正子さん(撮影=プレジデントオンライン編集部)

「もし私が悪い人だったらどうします?」と暢さんに聞いたところ、「あなたが悪い人だったら、自分の観る目がなかったとあきらめる」と私の目をまっすぐ見てきっぱり言い切る暢さんに、私はかなわないなと感服しました。このようにしっかりした自分の考えを持つ女性がやなせ先生は好きなのだろうとも思いました。

勤め始めると、暢さんが自分のことや先生のことを話してくれるようになりました。面白いことに、暢さんが話していたのと同じ話を、やなせ先生も話してくれることがあるのですが、話にズレが全くないんです。よくお互いに話をされているんだなと思いました。

やなせと暢夫人の金銭感覚の違い

それを感じた1つのエピソードは、お二人が語ったお互いの金銭感覚の違いです。やなせ先生は学生時代から翌月の生活ができるぐらいのお金を必ず手元に残していた一方、暢さんは給料日にはお金が入るからと買い物をしていたという話を、私は先生と暢さんそれぞれから聞きました。

やなせ先生いわく、先生が堅実なのは「気が小さい」からで、「カミさんはオレと逆で、明日お金が入るとなると、今あるお金を全部使ってご馳走を買ってきたりする」とのこと。こうしたお互いの性格を理解し、違いも受け入れ、補い合っている夫婦だったのです。

やなせ夫妻の関係で思い出されるのは、お互いを尊重し合う姿です。私が入社したときには、先生は73歳、暢さんは74歳という高齢でしたから、あまり若い夫婦のようにデレデレした様子は見られません。それでもやっぱりお互いのことを尊重して、お互い仕事ややりたいことをそれぞれ自由にやりながら、それを相手に話して常に情報を共有している。会話をとてもよくしている夫婦だなと思いました。

70代になっていたやなせ夫妻の思いやり

先生は「自分は今仕事が忙しいから、家のことはやってほしい」と暢さんに言いつつも、暢さんが旅行に行ったり、お稽古に行ったり、帰りが先生の食事時間に間に合わないときには、冷蔵庫を見て自分で適当に食べることもよくしていました。

時代的には奥さんが食事を用意しなくちゃいけないとか、家のことは奥さんの仕事だから手を出さないと考える男性も多かったでしょう。でも、やなせ先生はそうではなく、逆に「もし忙しかったら僕が何か買ってくるよ」と暢さんに言っていました。暢さんも、自身が議員秘書の仕事をしていて、やなせ家が共働きだった時代のことを思い出して、「うちの人はね、私が仕事で帰るのが遅くなる時は、肉屋でカツなどおかずを買っておいてくれるのよ」と話してくれたことがありました。

荒木町で妻と
荒木町の自宅でのやなせたかし氏と妻の暢さん

お二人が結婚したのは戦後すぐのことで、当時は男の人が家のことをやるのは男として恥ずかしいなどと言われていた時代だと思いますから、珍しいですよね。今は夫婦で食事の買い物に行ったり、男性も手伝うのは当たり前ですが、やなせ家の場合は暢さんがやっておいてと指示するわけではなく、先生が自分からおかずを買っておいてやろう、そうすれば早く食べられてお互いに楽だろうと考えるんです。そうした気が回るところも、すごいですよね。

妻は夫に「食べさせてあげる」と言ったが…

ちなみに、暢さんがやなせ先生に「私があなたを食べさせてあげる」と言ったという話がよく語られますが、現実はちょっと違います。結婚当初は暢さんのほうが、収入が安定していたことは事実です。ただ、これは先生が最初の自伝を書いたとき、インタビューで語ったエピソードですが、インタビューの後に先生は私にこっそり打ち明けたのです。

「取材の人が『私があなたを食べさせてあげる』といった話をすごく納得して聞いてくれたけれど、そんなこと(妻に食わせてもらうこと)をさせるものか」と。奥さんが、自分が働いて食べさせるという覚悟を持ってくれているからといって、自分はそれに頼るものかという強い気持ちや意地もやなせ先生にはあったのです。

仕事においても、先生は非常に細やかに気のまわる方でした。土曜日や日曜日に先生も暢さんも外出しなければならない時、愛犬の世話は普通ならアシスタントに出てきてやってもらうところだと思います。でも、先生は「休みなのにアシスタントに来させてはかわいそう」と言って、知り合いの女性にアルバイト料を払って犬の世話を頼んでいました。

「二人ともいなくなると犬が寂しくなって家の中をガシャガシャにするから、そばにいてくれるだけでいい。絵を描いていてもいいし、本を読んでいてもいい」と言って、アルバイト料を払います。そのアルバイト料をもらった本人が「犬の番でこんなにもらっていいの?」と驚くほどお金をちゃんと払っていました。

生前、妻の頼みどおり財産分与をしていた

暢さんの話で印象的だったのは、財産分与のエピソードです。お茶の稽古仲間の戦争未亡人たちが集まって話したときのことです。同年代の人たちはみんな戦争を体験していて、ご主人を亡くした方もいました。その人たちが「旦那さんが死んだ後、自分のお金が入らないと生活に困るからみんなで工夫しよう」という話になったそうです。財産を分けてもらうように話そうという中で、まだ言いづらくて言えない人、迷っている人、旦那さんがあまり良い返事をしない人がいました。

ところが、暢さんが先生に話したら「すぐくれたのよ」とおっしゃっていました。

「先生がきれいな女性と一緒」と言われても…

やなせ先生はお金の面だけでなく、何かとクリーンな人でした。アシスタントは全員女性でしたが、変な噂になることは、いっさいありませんでした。先生がアシスタントと一緒に出かけて歩いていると、近所のお店の人などがそれを見て、暢さんに、「この前、やなせ先生がきれいな女性と歩いていましたよ」と伝えに行くんです。でも、暢さんは「あれはアシスタントよ」と全然気にしない。やきもちを焼くこともない。夫婦で本当に信頼し合っていたのです。

暢さんは私が入社後半年ほど経った頃に体調を崩すようになりました。その頃から「あなたはうちの人に似ているから、きっと気が合うと思う。絶対やめないでね」と言われるようになりました。暢さんに頼ってもらえるのはうれしかったですが、どこが似ているのかはわかりませんし、「辞めません」「先生のことは任せて下さい」などとは簡単に言えませんでした。そのうち、奥さんは「辞めないでね」と言わなくなり、その代わりに「どこか子どもっぽいところがある二人を残していくのは心配だわ」というようになりました。結局、暢さんは私が働き始めてから1年ちょっとで亡くなってしまいます。

「オレの養子にならないか」と言われたことも

以降、私はやなせ先生が亡くなるまで20年以上、それこそ公私にわたって先生のそばにいました。やなせ先生は仕事が好きでしたから、たいへんなときも楽しんでいるように見えました。それはそばにいる私にとっても愉快で楽しいことでしたが、ある日突然、やなせ先生が「越尾さん、オレの養子にならないか」と言ったことがあるんです。私はびっくりしましたが、即座に答えました。

越尾正子『やなせたかし先生のしっぽ やなせ夫婦のとっておき話』(小学館)
越尾正子『やなせたかし先生のしっぽ やなせ夫婦のとっておき話』(小学館)

「私の代で越尾の家を終わらせようと考えているので、養子にはなれません」

越尾という苗字は珍しく、私の母にはその姓を残したいという思いがあったのです。

先生は静かに「そうか」とだけ言いました。

やなせ先生はさまざまな仕事をされた方でしたので、変化が常にあり、そばで仕事をしている私も飽きる暇がありませんでした。それに、先生は仕事ができる人よりも「仕事を楽しんでする人」が好きでした。偶然が重なって先生とご一緒して、いろんな仕事の楽しさを味わうことができたのは私にとってすごく幸せなことでした。

取材・文=田幸和歌子

越尾 正子(こしお・まさこ)
やなせスタジオ代表取締役
1948年、東京都生まれ。高校卒業後、事務関連の仕事をしながら、趣味で習っていた茶道で柳瀬暢(やなせたかし夫人)と知り合い、1992年に、やなせスタジオに就職。その後、株式会社となったやなせスタジオの代表取締役に就任

元記事で読む
の記事をもっとみる