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「残りの人生は、消化試合だろう…」飲食店経営で成功した52歳男性が抱える虚無感の行方

  • 2025.6.2

男という生き物は、一体いつから大人になるのだろうか?

32歳、45歳、52歳──。

いくつになっても少年のように人生を楽しみ尽くせるようになったときこそ、男は本当の意味で“大人”になるのかもしれない。

これは、人生の悲しみや喜び、様々な気づきを得るターニングポイントになる年齢…

32歳、45歳、52歳の男たちを主人公にした、人生を味わうための物語。

▶前回:「まだ俺に色気はあるか…?」結婚20年、45歳男が21万円の高級ニットを購入したワケ

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Vol.6 銀座の夜、閉店後のレストランで… 飲食店経営の52歳、五味慎之介の場合


「おひとり様ですね、どうぞ」

平日のランチ時。

久しぶりに銀座のフレンチのホールに立った僕は、良質なサマーセーターを着た男性を店内へと招き入れた。

テーブルの空き具合を横目でチェックするも、おかげさまで店内はほぼ満席だ。

なかなか恰幅のいい男性だったから少し心配ではあったけれど、数席残っていたカウンター席へと案内した。

― 大丈夫かな。カウンター席はお客さまには少し窮屈かもしれないけど、ゆっくり楽しんでいただけるだろうか。

この店の自慢は、なんといっても素材の良さだ。

新鮮な野菜や魚介は全て、その日の朝に市場で買い付けたもの。その時期に一番美味しい旬の素材を厳選し仕入れるよう徹底している。

さらにはその最高の素材の魅力を余すところなく引き出す、確かなセンス。

まだ32歳と若いながらに本場フランスで学んだ三隅シェフが、素朴で温かみのあるフランスの家庭料理に仕立てるのだ。

都内に3店舗、伊豆と長野に2店舗のレストランを経営する僕だが、この銀座のフレンチはその中でも一番のお気に入り店舗だ。

自画自賛するようだけれど、ここより美味しいフレンチは他にはないと思う。

主戦力はもちろんディナーだけれど、より多くの客に気軽に自慢の料理を楽しんでもらいたいという想いで、数年前からこうしてランチも始めている。

― 今のお客さまは、どうやら初めてご来店いただいたようだけど…気に入っていただけたかな?

他の客へのサーブの合間を縫って、先ほどの男性へ目を配る。

けれどそこで見た光景は、僕にとってあまり嬉しいとは思えないものなのだった。

どうやら先ほどの男性は偶然にも、カウンター席で隣になった女性と知り合い同士だったらしい。

会話が盛り上がるその傍で、グツグツと熱い状態で提供されたアッシパルマンティエ──じゃがいもとひき肉のグラタン──が無視され、最高の食べごろを見逃されていく。

― ああ…料理が冷めていく…!それは熱々が美味しいのに…!

10分後、ようやく手をつけられたアッシパルマンティエは、すっかり上のチーズが固くなってしまっていた。

さらに女性に至っては、その固くなってしまったチーズをペロリと剥がして、お皿の横によけられる始末なのだった。

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「ごちそうさまでしたぁ〜」

ふたりが食事を終えて連れ立って店を出た時、ちょうどランチタイムも終わり、店は空っぽになった。

皿を下げてみると、女性はカロリーを気にしていたのだろうか。ほとんどのお料理が半分以上残っているうえに、デザートのクレームダンジュにおいてはたったの一口も手をつけられていない。

シェフの三隅くんが、僕が下げた皿を心配そうに覗き込む。

「五味さん。こちらのお客さま、お味がお気に召さなかったですかね?それとも、量が多かったかな。他のお客さまは皆さま完食されているんですけど…」

けれど僕は心配そうな顔を浮かべる三隅くんに、なんともいえない寂しさを抱えながら慰めの言葉をかけるのだった。

「いや…。“こんなもの”だと思って、諦めるしかないよ」

“こんなもの”。

自分で言っていて悲しくなってしまうけれど、この世界は言葉の通り、“こんなもの”なのだ。

52歳になった今の僕は、いやというほどそれを知っている。

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52歳。

飲食業界に身を投じて、34年が経つ。高校生の時の喫茶店のアルバイトも含めれば、37年だ。

小さなフレンチのシェフから経営者に転身はしたものの、人生の半分以上もの時間を飲食業で過ごしていることになる。

そして、身に染みているのだ。この仕事では多かれ少なかれ、こういった寂しい想いはついて回るもの。

洋食店で、パリッと焼けたチキンソテーの皮を剥がしてしまう人。

鮨店で、ネタだけ食べてシャリを残す人。

ワインバーで、コーラしかご注文されない人。

お料理の写真だけ撮って手をつけられない人に、一口も召し上がらないうちに大量の調味料で独自の味付けをなさる人…。

僕が経営しているのは、恵比寿のフレンチ。代々木の洋食店。伊豆の鮨店に長野のオーベルジュ。そしてこの、銀座のフレンチ。

そのどこでも、虚しい想いをすることはある。特に最近は、喜びよりも虚しさが勝つことの方が多いのだった。

虚しさの原因について、思い当たる節はある。

シェフとして現場に立たなくなったことも一因だと思うけれど、何より───僕はおそらく、歳を取り過ぎてしまったのだ。

美味しいものを食べてほしい!という熱い気持ちは今や、「諦め」の名の下にすっかり冷め切ってしまっている。まるでさっきの、アッシパルマンティエみたいに。

努力はしているつもりだ。現場で客の顔を見ることで喜びを取り戻そうと、ここ数年はこうして店に立つ機会を増やしてみてもいる。

けれど、どうにもこうにもつまらない。

チーズが冷めていくのも耐えられないし、近年増えた気がする写真撮影のためだけに料理を注文する客に関しては、もういっそすっかり店を辞めてしまいたくもなる。

だけど、店を辞めたところで一体今の俺に何ができるというのだろう?

仕事を楽しめないのは、気力がないからだ。

つまり、52歳なんて、もう燃え殻のようなもの。自身の心の奥底を探しても、熱い気持ちはどこにも見つからない。

マナーの良くない客にガッカリしてしまうのもきっと、歳を取り過ぎて頑固になってしまったからなのだろう。

だけど、飲食業界でしか働いたことのない僕にできることなど、他になにもないのだ。

あとはきっと、消化試合。

つまらない人生を残り時間を暇つぶしのごとく消費して、死んでいくだけ。



― 52歳か。歳を重ねるって、本当につまらないことだよな…。

ランチタイムの失望で燃え尽きてしまった僕は、ディナーは店舗に立つことをキャンセルした。

もともと人手は足りているし、シェフの三隅くんは優秀だ。

「いつか五味さんみたいに、レストランを複数経営してみたい」という夢を普段から熱く語っているし、実際にその資質があると感じている。僕がいなくても店は回る。

もともと予定していた八丁堀での顧問弁護士との打ち合わせを夕方に終えると、もう僕のすべきことは何もなかった。

― あの弁護士の先生はいいよな。確か同い年だけど、枯れるどころかどんどんイキイキしてきてる。弁護士ってきっと、やりがいがあるんだろうな…。

実は、弁護士という仕事には、もともと強い憧れがあった。

けれど僕が高校生だった時には、家庭の金銭的な事情で大学受験は視野になかったし、同じくらい料理にも興味があったからこの道へと進んだのだ。

結果、向いていたから今の成功がある。その選択に後悔はない。

ただ、意味はないと分かっていながら、ときどき考える。

― もしも、俺が弁護士だったら…。

そしてすぐに頭を振るのだ。

もう、52歳。今さら何を言っても遅い、と。

ぼんやりとそんなことを考えながら、八丁堀から築地方面へとあてもなくぶらぶら歩く。

急に暇になってしまった僕は今の現実にフォーカスすべく、“視察”と心の中で銘打って、道すがらいくつかの流行の飲食店を見て回るのだった。



結果として“視察”は、失敗に終わった。

別に、何があったというわけじゃない。

どんな店をみても胸が躍ることはなかったし、デカ盛りやインバウンド用の“映えメニュー”を取り入れるつもりにもなれず。

さらには食事をしながらスマホに向かって失礼なレビューを続ける配信者などを目の当たりにし、より一層げんなりとした気持ちが押し寄せてきた…というだけだ。

銀座の行きつけのバーでしばらく気持ちを落ち着かせたものの、なんだかこのまま家に帰る気にもなれない。

結局また銀座にいるということもあり、飽き飽きとした気持ちを持て余しながら、もう一度フレンチの店に顔をだしてみることにしたのだった。

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店の明かりは、もう落ちていた。

時刻は23時過ぎで、もう閉店から1時間以上が経っている。店内にはもう1人の客も残っていないはずだ。

けれど…ドアを開けた僕は、目の前に広がる意外な光景に眉をひそめた。

店内は薄暗く、客も、従業員もいない。

それなのに店のカウンターには、ずらりとグラタン皿が並んでいるのだ。

「なんだ…これ?」

思わず口をついて出た言葉に、厨房からぴょこっと三隅くんの顔がのぞく。

「あれっ、五味さん。結局戻られたんですね!ちょうどよかった。よければ、味見してくださいよ!」

「味見…?」

おずおずとカウンターに近づく僕に、三隅くんが熱のこもった声で力説する。

「はい。いくつか試作品を作ってみたんです。今日のランチで、アッシパルマンティエになかなか手をつけられないお客さまがいらっしゃったじゃないですか。

熱々が一番美味しいのは当たり前だけど、それって店側の都合かもな、と思って。ゆっくり過ごしたいお客さまもいらっしゃると思うので、冷めてもより美味しくなるようなレシピを新しく考えてみてるんです」

三隅くんに勧められるがまま僕は、試作品のうちの一つをひとくち口に運んだ。

「冷めてる…けど、うまい。バゲットによく合いそうだ」

「そうなんです!!」

僕の言葉に、三隅くんの顔がパアっと明るくなった。

朝の市場の買い付けからほとんど一日中ぶっ続けで働いているはずなのに、その顔には疲れは見えない。

それどころかキラキラと眩しく輝いて、僕は相対的にまた、自分の老いについて思い知らされるのだった。

よく見ると試作品はアッシパルマンティエだけではないようだった。

カロリーの低そうな皿がいくつか並び、口当たりの軽そうなデザートまで、さまざまな試作品が厨房に並んでいる。

厨房の端に設えられたデスクでは、パソコンが煌々と光っていた。エクセルの複雑なシートが開いてあり、その様子から見て、減価率などの計算までしているようだった。

「すごいね、三隅くんは…」

「何がですか?」

「今32歳だっけ?やっぱり気力あるよなぁ。若いっていいよな」

圧倒的なパワーは、やっぱり若さゆえのものなのだろう。遠い昔に自分が失ってしまった光は、特別まぶしく見えた。

「いやいや、何言ってるんですか。五味さんだってまだまだバリバリじゃないですか!」

気を使った三隅くんが、おべんちゃらをつかってくれる。なさけなくてすぐに否定しようと思ったけれど、次に三隅くんが言った言葉に僕は、うかつにもハッとさせられるのだった。

「いやだな、年寄りみたいなこと言わないでくださいよ。次は、どうするんですか?」

「…次?」

「はい。次、です。だって五味さんって洋食シェフだったのにフレンチも習得して。そのうえ鮨屋も、オーベルジュまで経営して。いつだって新しいことにチャレンジするじゃないですか」

「いや…俺、52だよ?」

「…?はい、そうですね!それで、次の50代はどんなことにチャレンジするんですか?僕、新しいことに挑戦しつづける五味さんがずっと憧れなんです」

三隅くんからの問いかけは僕にとって、まるで冷たい水で顔を洗ったかのように鮮烈な爽快感があった。

「そうか…」

思い出した。僕がここまで店舗数を増やしてきたのは、新しいことに挑戦するのが楽しかったからだ。

「この歳からでも、新しいことにチャレンジしたっていいのかな」

自分自身に言い聞かせるように呟いたその言葉は、三隅くんに聞こえていたかどうかわからない。

けれど三隅くんは、思い切り眩しい子どもみたいな笑顔で試作品のアッシパルマンティエを味見しながら言うのだった。

「新しいことに挑戦してる時って、楽しいですもんねー!僕、五味さんから学んだことの一番は、そこだなぁ」

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そう言ってまた調理に戻ってしまった三隅くんを、僕は少し遠くからしばらく見つめていた。

カウンター席で試作品のアッシパルマンティエたちと席をならべながら、僕はそっとスマホを取り出す。

そして、映える料理の写真など一枚も撮ったことのないスマホで、ブラウザを立ち上げた。

また、新しい店舗を立ち上げるか?

けれど、そのアイディアを手に取るように確かめてみても、僕の心はあまりワクワクしない。

そこで…恐る恐る検索したキーワードは、こうだ。

<50代 司法試験>。

本当に、何歳からでもチャレンジできるんだろうか?

自信はない。確信もない。

だけど、さっきまでずっと胸に巣くっていた粘りつくような虚しさは、いつのまにか綺麗さっぱり消え去っていて――代わりに胸を満たしているのは、昔感じていたようなワクワク感なのだった。

― …後任は、とっくに見つかってるしな。

厨房からは、未来を祝福するような軽やかな鼻歌が聞こえている。

レシピに必要なのは、あとはどうやら、僕の覚悟だけらしい。


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32歳にして、飲食店の多店舗経営者から後継者指名を受けた三隅。そのプライベート

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