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ダンディなスーツを着たとき、どんなアナタが鏡に映る?【連載・ヴォーグ ジャパンアーカイブ】

  • 2025.6.1

高校の学芸会で、ベルばらのオスカルをやらされそうになったことがある。『ベルサイユのばら』(作・池田理代子)というフランス革命を舞台にした1970年代の漫画の登場人物である。そのオスカルという男装の麗人を、ただ背が高いというだけの理由でやれと言われた。幸い演目は『八百屋お七』に決まり、私は恋ゆえに江戸を火の海にしたお七を刑場に連れていく下級武士の役になった。女子校では高身長の者に男装役が回ってくる。172センチは日本の女性では大柄に分類される。

高身長は父譲りである。父は会社でダンディだと言われていたらしい。母もうれしそうに「パパはダンディだから」と言っていた。晩年は似合わない帽子を気に入ってかぶっていたが、もっと褒めてあげればよかった。父は三途の川を渡るときにも、お気に入りの服でおしゃれをしていた。ダンディという言葉は、18〜19世紀の英国で生まれたらしい。服装や振る舞いや意識の持ち方に強いこだわりがあり、他者の眼差しに敏感で、時に自己陶酔的。無頓着を装う自意識過剰。多くは男性を指すようだ。

現代日本では、ダンディは「素敵なおじさん」「おしゃれな熟年男性」といった意味合いだ。しかし尋常でなく他者の眼差しに執着するという意味でのダンディと言えば、やはり千利休じゃないだろうか(詳しいお方は素人の寝言だと思って読んでいただきたい)。茶道では、道具の清め方から座ったときの膝の位置までとんでもなく細かく作法が決まっている。茶を点てたり服したりする上では極めて合理的であり、同時に本来誰も気にしないような小さな所作にまでことごとく人の目が向くような仕掛けでもある。あらゆる細部に目配りして合理化と審美を尽くさないではいられなかった茶人の並外れたエナジーを感じる。

装いの話に戻ろう。茶からのつながりで言えば、和服は反物から仕立てる決まった形の衣服で、デザインに男女で大きな違いがあるわけではない。古代の庶民の貫頭衣は男女差がなかったとされているし、今だって部屋着や運動着はみんなTシャツスウェットパンツだろう。男女の違いを際立たせるのは晴れ着や制服で、本来人体が動いたり休んだりしやすい格好は共通である。

今回取り上げる2009年11月号では「両性具有(アンドロジナス)的な美」に注目している。ちょっと理屈を言えば、今では「両性(男と女の二つの性)」という二元論を前提にしてそのどちらをも具有する(そなえもつ)という捉え方ではなく、そもそもジェンダーはグラデーションであるという認識が広まりつつある。当時の誌面でサラ・モーアは、テイラードジャケットについて「女性がマスキュリンな服を着ると、守られているような気持ちになれるし、外からは強そうに見える」と述べているが、男性用のジャケットを庇護者や武装に見立てるのは、女性を抑圧してきた家父長制や男性優位の構造を疑いなく受容することになりはしないか。

ちなみに私も10代の頃はアンドロジナスな服を着ていた。セーラー服である。日本ではおなじみの女子学生の制服は、英国の水兵服が原型だ。80年代に映像化されて大ヒットした赤川次郎の小説『セーラー服と機関銃』のように、今では少女の聖性と女性性の象徴ともみなされている。男性目線で過度に商品化されたセーラー服だが、個人的には和服と似ていると思う。全体に直線張って、胸もとをV字で合わせるデザイン。

背中の長方形の襟は帯のタレ先みたいだし、胸のシルクのリボンは、斜めになった帯揚げみたいだ。プリーツスカートは大正時代の女学生の袴のよう、胸当てに校章が刺繍されているのはまるきり家紋である。のちに私が着物好きになったのはセーラー服を着たおかげではないかという気すらする。

袴といえば、明治時代には国策で女性が動きやすい袴を穿くことが奨励された。だが「男のものを着るとは」と批判する声が上がり一度は禁止されたという。そこで進歩的な教育者・下田歌子が宮中の女官の袴をヒントに女袴を考案。女学生は動きやすい袴にブーツで勉学に励んだ。現在の卒業式でもおなじみのハイカラさんスタイルである。やがて女子の制服は和服ではなく水兵服にスカートというスタイルになり、先述のように映像メディアによって性的商品化されたが、今では制服のオールジェンダー対応が進み、ブレザーに合わせて何を穿くか自由に選択できるようになりつつある。理不尽な校則の服装規定も見直され、制服は大人の眼差しに応え大衆に消費されるものから、本人が自由に選択し快適に過ごすためのものへと変化している。

35年前、セーラー服を着た私は、決して兵士に守られた子どもでも、抑圧された聖少女でもなかった。何者にも擬態せず、得体の知れない自分のまま何にでもなれると信じた束の間の10代。今だって部屋着で寝転がっているときの私は、あの頃と大差ないのだ。

Photography: Shinsuke Kojima(magazine) Text: Keiko Kojima Editor: Gen Arai

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