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25年前、日本中が見惚れた“型破りなカリスマ” テレビに映るだけで“空気が変わる”唯一無二の表現者

  • 2025.6.1

「2000年代初頭、テレビに映るだけで“空気が変わる俳優”が現れた」

2000年代初頭の日本のドラマ界において、オダギリジョーの存在はまさに異質だった。

今から25年前となる2000年、『仮面ライダークウガ』(テレビ朝日)でテレビドラマ初主演を飾りながら、その後のキャリアは決して“特撮ヒーロー”の枠には収まらない。

ファッション、髪型、立ち居振る舞いーー。すべてが“既存の俳優像”から逸脱していて、だからこそ魅力的だった。その自由さに惹かれたのは、特に20代〜30代の若者たち。「型破り」という言葉がこれほど似合う俳優はいなかっただろう。

まさに日本中が注目する“型破りなカリスマ”とも呼べる存在の登場だ。

作品ごとに“別人”になる俳優

オダギリジョーのすごさは、演じるたびに“まったく違う顔”を見せることにある。2003年公開の映画『アカルイミライ』(黒沢清監督)での無気力な若者、2006年公開の『ゆれる』(西川美和監督)の人間の闇を内包した弟役。

そしてなんといっても、これまでの警察ドラマの常識を覆す、ユルさとシュールさが相まりながらもミステリー作品としても楽しめる2006年放送のドラマ『時効警察』(テレビ朝日)の不思議な刑事・霧山修一朗ーー。

一貫しているのは「掴みどころのなさ」だが、それが彼の“演技の奥行き”とも言えるだろう。彼が演じると、セリフの意味が深くなり、視線一つで物語が動く。言葉では説明できない感情のグラデーションを、たしかに画面に残す。

それはまさに、“演じる”という行為の可能性を広げている俳優の証だ。

“テレビの外”でも生きる表現者

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(C)SANKEI

オダギリジョーは、テレビや映画の枠に留まらず、自ら脚本・監督を手がけたり、アートや音楽とコラボしたりと、“表現者”としての活動も幅広い。彼にとって「何を演じるか」以上に、「どう生きるか」が重要なのかもしれない。

その姿勢はどこまでもストイックで、妥協がない。メディアに多く登場するわけではないが、それでも彼の一挙手一投足が話題になるのは、“存在感”があるからだろう。

気まぐれのように見えて、芯がある。遠くにいるようで、なぜか近く感じる。そんな矛盾が、彼の魅力を深くしているのかもしれない。

今なお“変わり続ける”唯一無二の表現者

40代となった今も、オダギリジョーは変わり続けている。

年齢やキャリアに縛られない“俳優の理想形”といえるかもしれない。常に“次”が読めない。だからこそ、「私たちに次は何を見せてくれるのか」と期待せずにはいられない。

これまでも、そしてこれからも“誰にも似ていない俳優”として、私たちの想像を超え続けてくれるだろう。


※この記事は執筆時点の情報です。