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「生まれ変わっても、星野監督と野球がしたい」愛弟子・中村武志が語る、世間が抱く“闘将”星野仙一への誤解

  • 2026.1.31

現役時代には「燃える男」と称され、監督時代には「闘将」と呼ばれた星野仙一が天に召されてすでに8年が経過した。昭和、平成を代表する野球人である一方、優しさと厳しさ、飴と鞭を巧みに使い分けた人心掌握術は、現在の観点から見れば、行きすぎた「根性野球」「精神野球」といった側面がクローズアップされたり、選手たちへの鉄拳制裁が問題視されたりすることもある。

一体、星野仙一とはどんな人物だったのか? 彼が球界に遺したものとは何だったのか? 彼の実像を探るべく、生前の彼をよく知る者たちを訪ね歩くことにした。彼らの口から語られる「星野像」は、パブリックイメージ通りである一方で、それとは異なる意外な一面もあった。「星野仙一」のリアルに迫りたい——。連載第5回は、星野の愛弟子であり、中日での監督時代の正捕手であった中村武志に話を聞いた。【中村武志インタビュー全2回の1回目/第2回へ続く】

「生まれ変わっても、一緒に野球をしたい親よりも大切な人」

2025(令和7)年11月、中村武志は『私の「プロ野球都市伝説」』(論創社)という本を上梓した。副題には「愛する星野監督と野球人たち100話」とある。中村と言えば、自他ともに認める星野仙一の愛弟子である。

「本を出すことを決めたのは、“自分のことを伝えたい”というよりは、世間では星野さんのことを勘違いしている人がすごく多いから、“もっと本当のことを知ってほしい”という思いが強かったからです。僕は、“生まれ変わっても星野さんと一緒に野球がしたい”と思っていますから」

中村は今、「勘違い」と言った。その意味を理解した上で、あえて「世間の人々は星野さんに対して、何を勘違いしているのでしょうか?」と問う。その答えは明確で、こちらが予想した通りのものだった。

「今の価値観から見て、“星野監督の指導はやりすぎじゃないのか?”という意見が多いということです。でも、僕自身は決してそう思っていない。僕はキャッチャーだったので、間違いなくいちばん叩かれました。でも、それが僕の自慢です。“たくさんの選手がいる中で、オレがいちばん星野さんに叩かれたんだ”って」

監督時代に「闘将」と呼ばれた星野の代名詞でもあるパワハラ的な「熱血指導」「鉄拳制裁」は、現在の価値観から鑑みると「行き過ぎではないのか?」という批判がある。それに対して、中村は「世間の人は勘違いしている」と言い切った。

「今の時代は、叩くことはNGで一発アウトだということは理解しています。でも、あの時代においていちばん叩かれた僕が、“生まれ変わっても、星野監督と一緒に野球がやりたい”と心から思っているのも事実なんです。その思いだけはきちんと伝えたかったから」

中村は決して「殴られた」とは言わず、「叩かれた」と口にする。彼の自著でも同様で、一連の星野の言動に対して、カギカッコつきの「指導」と表記している。そして中村は、こんなことも口にした。

「もしも、“僕の両親と星野さんと、どちらが大切か?”と聞かれたら、僕は“もちろん、星野さんです”と答えます。僕と監督との関係を知っているから、両親もきっと理解してくれると思います」

心の底から星野を敬愛していることがよく伝わってくるやり取りが続く。「両親よりも大切な人」と語る星野仙一と中村の、生涯にわたる交流を振り返りたい。

星野監督誕生によって出場機会が激増

両者の最初の出会いは1986(昭和61)年秋、星野の中日ドラゴンズ監督就任が決まった直後、静岡・浜松での秋季キャンプのことだった。当時、中村はプロ2年目を終え、いまだ一軍出場がなかった。

「僕は子どもの頃からジャイアンツファンだったので、現役時代の星野さんのイメージはなかったんです。むしろ、NHKの解説者、キャスターとして全国区の人という印象で、“怖い人”というイメージはまったくありませんでした」

しかし、現役時代の星野を知る先輩選手たちはそうではなかった。彼らの間に動揺が走っていたことに、中村はすぐに気がついた。

「監督就任が決まった後、現役時代からつき合いのある鈴木(孝政)さん、小松(辰雄)さん、牛島(和彦)さん、宇野(勝)さんたちがみんな一斉にざわついていました。だけど、それ以上に名古屋全体が大騒ぎをしていたことがすごく印象に残っています」

プロ入り以来、一度も一軍出場がなく、いつクビになってもおかしくない状況だった。たとえ監督が誰であろうと、当時19歳の中村は自分のことで必死だった。しかし、秋季キャンプ初日に、先輩たちが騒然としていた理由をすぐに理解する。

「初日のミーティングは約2時間続きました。僕は若手だったので最前列に座っていたんですけど、いきなり“人が話しているときは、人の目を見ろ!”と言われたので、ずっと背筋を伸ばしたまま、まばたきもできない、息をしても怒られるような緊張感が続きました。実際、次の日には全身が筋肉痛になっていましたから(笑)」

全体練習は朝9時から始まる。しかし、中村は6時に起床し、7時から個人練習に取り組むよう指示された。16時に全体練習が終わってからも、19時までグラウンドに残り、宿舎で夕食をとってからは夜間練習に励む。

「1日12時間以上は練習していました。苦しかったけど、それでも最後まで必死に食らいついて乗り切ることができたことで、翌年の春季キャンプで初めて一軍帯同を許されたんです」

いまだ実績のないプロ3年目の若者。その雄飛の瞬間が近づいていた。

「クロマティ乱闘騒動」後のもう一つの乱闘劇

星野監督初年度となる87年シーズン、プロ3年目にしてようやく中村は一軍初出場を果たした。43試合に出場し、打率・212、3本塁打、11打点を記録し、正捕手・中尾義孝に一歩迫る躍進を遂げた。この年の6月11日、今でも語り継がれる乱闘騒動が起こった。舞台は熊本・藤崎台球場。星野にとっての因縁の相手となる読売ジャイアンツ戦で、世に言う「クロマティ乱闘騒動」が起こったのである。

「マウンドには宮下(昌己)さんが上がっていました。対するバッターはクロマティ。事前のミーティングでは、“インコースの厳しいところを突け”と言われていました。今だから言えるけど、あれは《計画的》でした。事前に宮下さんは“行くぞ!”と言い、僕も“わかりました”と答えていましたから」

宮下が口にした「行くぞ!」というのは、「当てるぞ」という意味であり、つまりは故意死球を意味するものだった。

「とはいえ、最初からインコースに構えると、“いかにも”という感じなので、ダミーでアウトコースに構えました。そして投球はクロマティの背中に直撃。一瞬にして乱闘騒ぎが始まりました。結論から言えば、あれは僕がすべて悪かったんです」

クロマティへの厳しい攻めはベンチからの指示であり、実際に危険球を投じたのは宮下である。どうして中村が「すべて悪かった」のか?

「本来であれば、マウンドに向かうクロマティを何としてでも僕が止めなければいけなかったんです。でも、あのとき僕はパニックに陥っていて、バッターを止めるのではなく、コロコロ転がったボールを追っていました。普通、バッターもピッチャーも“キャッチャーが止めてくれるだろう”と思っているものなのに、僕がもたもたしていたものだから、クロマティもマウンドに行かざるを得なくなってしまったんです……」

一目散にマウンドに向かったクロマティの右ストレートが宮下の顔面にヒットする。球場は一瞬にして騒然とし、両軍入り乱れての大乱闘劇が始まった。もちろん、星野も真っ先にグラウンドに飛び出してくる。このとき「事件」が起こった。

ジャイアンツの王貞治監督の下に詰め寄り、星野が右の拳を振り上げたのである。本連載において、明治大学の1学年先輩である高田繁は次のように述べている。

「いくら星野であっても、普通は王さんには手を出しませんよ。でも、あのときは激高していたんでしょう。ただ、さすがに後で“しまった”と思ったはず。あのときだけだと思いますよ、星野にとっての《計算外》は。それ以外はずっと計算していたし、《星野仙一》を演じていましたから」

しかし、中村は「いや、それは誤解です」と主張する。

「世間では、“星野監督があの王さんに手を挙げた”と考えている人もいるようですけど、そうではないんです。あれは、“おたくのクロマティは拳で殴ったんですよ”という、王さんへのアピールです。“いくら何でもグーはダメですよ、グーは”という意味だったんです。決して、王さんに手を挙げようとしたわけではないんです」

前述した中村の自著には、こんな一節がある。

《宿泊ホテルに帰ってから、私は星野監督に呼ばれて。それは……、本当に怖かったです。注意どころではなかったです。クロマティ事件におけるもう1つの乱闘でした。》

それは、当時20歳の中村と、監督1年目、当時40歳の星野との濃密な関係の始まりでもあった——。

中村武志「後編」に続く)

Profile/中村武志(なかむら・たけし)
1967年3月17日生まれ。京都府出身。花園高校から84年ドラフト1位で中日ドラゴンズ入団。星野が監督に就任した87年に一軍初出場を果たすと、翌88年には正捕手に抜擢され、リーグ制覇に貢献。星野に「こいつのおかげで優勝できた」と言わしめた。星野とは87~91年の第一次政権、96~2001年の第二次政権と、すべての期間でともに過ごした。02~04年は横浜ベイスターズ(現・横浜DeNAベイスターズ)、05年は東北楽天ゴールデンイーグルスへ移籍し、この年限りで現役引退。その後、横浜、中日、千葉ロッテマリーンズ、韓国球界でコーチを歴任。星野とは生涯にわたる交流が続いた。

Profile/星野仙一(ほしの・せんいち)
1947年1月22日生まれ。岡山県出身。倉敷商業高校、明治大学を経て、68年ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。気迫あふれるピッチングで、現役通算500試合に登板し、146勝121敗34セーブを記録。現役引退後はNHK解説者を経て、87~91年、96~2001年と二期にわたって古巣・ドラゴンズを率いる。02~03年は阪神タイガース、07~08年は日本代表、そして11~14年は東北楽天ゴールデンイーグルスで監督を務める。17年、野球殿堂入り。翌18年1月4日、70歳で天に召される。

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