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銀座の高級ステーキ、帝国ホテルのスイート、そして愛の故意死球…「星野仙一にいちばん叩かれた男」中村武志が受けた“規格外の教育”

  • 2026.1.31

現役時代には「燃える男」と称され、監督時代には「闘将」と呼ばれた星野仙一が天に召されてすでに8年が経過した。一体、星野仙一とはどんな人物だったのか?彼が球界に遺したものとは何だったのか?彼の実像を探るべく、生前の彼をよく知る者たちを訪ね歩くことにした。彼らの口から語られる「星野像」は、パブリックイメージ通りである一方で、それとは異なる意外な一面もあった。「星野仙一」のリアルに迫りたい——。連載第5回は、星野の愛弟子であり、中日での監督時代の正捕手であった中村武志に話を聞いた。【中村武志インタビュー全2回の2回目/第1回を読む】

88年、初めてのオールスター出場で見せた、星野の優しさ

監督2年目となる1988(昭和63)年、星野仙一率いる中日ドラゴンズは6年ぶりにセ・リーグを制した。郭源治をストッパーに転向させ、ルーキーの立浪和義をショートに抜擢すると、宇野勝をセカンドに、正捕手の中尾孝義をセンターにコンバート。中尾の代わりに、スタメンマスクをかぶることになったのがプロ4年目を迎えていた中村武志だ。この年、中村は初めてオールスターゲームにも選出されている。

「前年2位だったので、星野さんもコーチとしてオールスターに出場していました。第3戦、東京ドームでの試合後のことでした。星野監督は僕と、ルーキーの立浪(和義)を食事に誘ってくれました。人生初の銀座です。このとき食べた鉄板焼きのステーキの味は一生忘れません。食事中、星野さんは本当に嬉しそうでしたね」

食事後のことだ。星野は中村と立浪に言った。

「お前らはオールスター選手なのだから、一流のホテルに泊まれ!」

そう言うと、球団が用意していたビジネスホテルではなく、自ら帝国ホテルのスイートルームを一人一室、予約したという。中村が続ける。

「本当に驚きました。そこには2部屋も、3部屋もあって、本当に立派なものでした。ホテルにチェックイン後、立浪と二人で、“普段の怖い監督と、今日の優しい監督と、一体どちらが本当の星野さんなんだろう?”と話したことを覚えています(笑)」

これまで、本連載で多くの証言が寄せられているように、これこそ星野の得意とする「飴と鞭」の本領発揮であった。厳しさの中にときおり垣間見せる優しさ。まさに「飴と鞭」である。こうしたやり取りを重ねるうちに、中村はますます星野に心酔していく。

前述したように、この年のドラゴンズはリーグ制覇を果たしている。パ・リーグを制したのは森祇晶監督率いる西武ライオンズである。

「この頃の西武は圧倒的な強さを誇っていました。これはよくわからないけど、星野さんも“たぶん勝てないんじゃないか”と思っていたんじゃないですかね。むしろ、“あの西武に勝つなんておこがましい”ぐらいに思っていたような気がします」

どうして、そう感じたのか? 理由を問うと、その答えは明確なものだった。

「あれだけ勝負に厳しい星野監督が、シリーズ前の練習中からずっとリラックスしていたからです。思わず僕らも、“監督、最初から諦めているのかな?”とか、“勝たなくてもいいのかな?”と感じるぐらいでしたから。結局、1勝4敗で負けるんですけど、試合後にそんなに怒ることもなく淡々としていましたね」

「この日本シリーズはキャッチャーの差で負けた」

中村にとって、この年の日本シリーズで忘れられないのは、第5戦延長11回でサヨナラ負けを喫し、ライオンズが日本一を決めた直後の星野の言動だという。ロッカーで帰り支度をしている選手に向かって、指揮官は一喝する。

「全員出てこい!お前ら、西武の胴上げを見ろ!この悔しさを覚えておけ!」

この言葉は、今でも中村の脳裏にハッキリと焼きついているという。

「監督からすれば、“この悔しさを覚えておけ”ということであり、“王者西武から、何かを盗め”という意味だったのだと思います。そして、最後のミーティングが終わってから、僕だけ監督に呼び止められました。このとき、“このシリーズはキャッチャーの差で負けたな”と言われ、さらに、“伊東(勤)を見習え”とも言われました」

黄金時代を迎えていたライオンズの司令塔である伊東を見習え。それが、星野からのメッセージだった。このとき、星野は淡々としていたという。もちろん、「闘将」の代名詞である鉄拳制裁もなかった。この敗戦から、何かを学べ。それは、中村がさらなる高みへと昇るための、師からのエールだったのかもしれない。

「それ以来、伊東さんのようなキャッチャーになることを目標にしました。当時は雲の上の存在だったけど、その後は、伊東さんと少しずつ会話をする機会も増えていきました。現役引退後には千葉ロッテマリーンズ・伊東監督の下でコーチも務めました。印象に残っているのは、“勝って当たり前と思われているほどキツイものはない”という言葉です。あの当時の西武はいいピッチャーがそろっていたけど、だからこそ伊東さんは強烈なプレッシャーの中でプレーをしていた。“あぁ、オレたちはラクな環境で野球をやっていたんだな”って思い知らされましたね」

星野が口にした「伊東を見習え」という指示は、中村のさらなる成長を期待してのものだったのである。

「武志、目を覚ませ」と、故意死球を喰らった

星野と中村の関係はその後もさらに続いた。第一次政権となった87年から1991(平成3)年まで、さらに第二次政権となった96年から2001年まで、中村はほぼ正捕手として星野の厳しい指導の下、一流選手に成長した。

「星野さんが本当に厳しかったのは第一次監督時代のことで、二度目の監督になったときには、星野さんも年齢を重ねていたし、僕らもチームの中心選手になっていたので、以前ほど怒られることは減りました。と言っても、僕はキャッチャーだったので相変わらず叩かれていましたけど(苦笑)」

前編でも述べたように、これまでずっと中村は「殴る」という言葉は使わず、「叩く」と言っている。現在の価値観に鑑みて言葉を選んでいるのだということはすぐに理解できた。01年オフ、星野はドラゴンズのユニフォームを脱ぎ、阪神タイガースの監督に就任する。そして中村もまた、ドラゴンズを去り、森祇晶監督率いる横浜ベイスターズへの移籍が決まった。この頃、中村にとって忘れられない「ある出来事」があったという。

「ベイスターズではほとんど戦力になれませんでしたけど、僕の情けない姿が星野さんの気に障ったようです。タイガースベンチから見ていて、“中日時代のお前はそんなものではなかっただろ”と嘆いていたと、後に島野(修)コーチから聞きました。何度も、“今のアイツはたるんでいる”と怒っていたそうです。それで、“ちょっと、目を覚まさせてやれ”となったようです」

「ちょっと、目を覚まさせてやれ」とは、どういう意味か? 中村は続ける。

「明らかにわざとぶつけられたんです。相手は外国人投手で、キャッチャーは矢野(輝弘/現・燿大)でした。矢野は元中日の後輩ですから、“すいません”って謝っていたけど、別に彼のせいじゃない。間違いなく、星野さんの指示です。それでようやく目が覚めた気がしました」

ベイスターズ移籍後、中村はタイガース打線に対して厳しくインコースを突くことができなかった。無意識のうちに、「星野さんのチームの選手に万が一があってはいけない」という遠慮が芽生え、自軍投手に対して厳しくインコースを攻めるボールを要求できなかったという。

「僕のサインは、阪神の選手に対して優しかったんです。結局は自分のところではなく、相手チームのことを考えていたんです。それを星野さんは見抜いていて、“そんなんじゃダメなんだ”と間接的に伝えてくれたんだと思います」

ときは流れた。それぞれのチームも変わり、かつての師弟は、今度は敵と味方に分かれることになった。しかし、戦いの世界において情けは無用だ。星野は自分にそんなことを伝えたかったのだろう。中村は、今でもそのように理解している。

「もしも、“死んでくれ”と言われたら、迷いなく死ねます」

その後、中村は05年限りでユニフォームを脱いだ。現役引退後はベイスターズ、ドラゴンズ、マリーンズ、さらには韓国で指導者を務めた。この間も、星野との交流は続いた。

「監督に最後に会ったのは2017年の暮れ、星野さんの野球殿堂入り記念パーティーでした。今から思えば、その時点でかなり衰弱していました。あいさつをすると、いきなり平手打ちを喰らいました。“監督、今の時代は叩いたらダメなんですよ”と言うと、“オレとお前の仲なんだからいいんだ”と言われました。でも、その平手打ちは力がなく、弱々しいものだったことを、ハッキリと覚えています……」

それが、星野なりの「別れの言葉」であり、「最後の愛情表現」だったのだと、中村は考えている。そして、星野はこう続けた。

「よく耐えたな。よく頑張ったな。ありがとう」

生前の星野の思い出を語るその表情が神妙なものになる。中村に問うた。「星野をひと言で表現するならば?」と。少しだけ考えて、彼は言った。

中村武志が考える星野仙一とは?――“太陽”

「僕にとって星野さんは、《恩人》であり、《師匠》ですけど、そんな言葉で言い表せるレベルの人ではないんです。もしも星野さんに“武志、死んでくれ”と言われたら、迷いなく死ねます。だって、親よりも大切な人なんですから。だから、僕にとって、星野さんは《太陽》です。いつも見守ってくれるし、いつも照らしてくれる。亡くなってしまったけれど、今でもそうです。太陽のような人。それが僕にとっての星野さんなんです」

自他ともに認める「星野仙一にいちばん叩かれた男」は、うなずきながら静かに言った。

(次回、山﨑武司編に続く)

Profile/中村武志(なかむら・たけし)
1967年3月17日生まれ。京都府出身。花園高校から84年ドラフト1位で中日ドラゴンズ入団。星野が監督に就任した87年に一軍初出場を果たすと、翌88年には正捕手に抜擢され、リーグ制覇に貢献。星野に「こいつのおかげで優勝できた」と言わしめた。星野とは87~91年の第一次政権、96~2001年の第二次政権と、すべての期間でともに過ごした。02~04年は横浜ベイスターズ(現・横浜DeNAベイスターズ)、05年は東北楽天ゴールデンイーグルスへ移籍し、この年限りで現役引退。その後、横浜、中日、千葉ロッテマリーンズ、韓国球界でコーチを歴任。星野とは生涯にわたる交流が続いた。

Profile/星野仙一(ほしの・せんいち)
1947年1月22日生まれ。岡山県出身。倉敷商業高校、明治大学を経て、68年ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。気迫あふれるピッチングで、現役通算500試合に登板し、146勝121敗34セーブを記録。現役引退後はNHK解説者を経て、87~91年、96~2001年と二期にわたって古巣・ドラゴンズを率いる。02~03年は阪神タイガース、07~08年は日本代表、そして11~14年は東北楽天ゴールデンイーグルスで監督を務める。17年、野球殿堂入り。翌18年1月4日、70歳で天に召される。

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