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手は口ほどに #16:プロレスラーの手には、意思が宿っている

  • 2025.12.24
手は口ほどに #16:プロレスラーの手には、意思が宿っているOG画像

鉄アレイの重さを確かめるように、握り直す。持ち上げながら息を大きく吐き、息を吸いながら下げる。上げて、下ろす、また上げる。その反復の中で、身体をつくっていく。プロレスラー辻陽太のトレーニングは、静かだ。声を出すこともなく、勢いに任せて回数を重ねることもない。筋肉トレーニングは週に5回。「それが仕事ですから」と辻は言う。

リングのロープに触れるその一瞬。力を込める前の、わずかな間。プロレスラーの手は、言葉より先に感情を伝える。辻の試合を見ていると、手に視線がいく。相手を掴む手、マットに触れる手、押し込んで立ち上がるときの手。

それらは単なる動作ではなく、意思を表す「表情」のように見える。腕のトレーニングを続ける単調さの中に、彼のプロレスはすでに始まっている。重さの載るり方。関節の角度。力が逃げる瞬間。身体が何を感じているか。その感覚を育てる場所が、無言で行うトレーニングである。

いまでは、プロレスでチャンピオンベルトを巻く辻陽太。高校と大学の6年間は、アメリカンフットボールに打ち込んでいた。ポジションはクォーターバック。フィールド全体を見渡し、状況を判断する。その一瞬の判断が、プレーの成否を分ける。相手との呼吸、会場の空気、次に来る展開。一歩先を読んで試合をコントロールしていく感覚は、プロレスラーになったいま、辻の大きな武器となっている。

大学卒業後、辻は一般企業に就職した。「日本にはアメリカンフットボールのプロがないですから」。運動をしない生活の中で、「このまま60歳までパソコンに向かうのは……」という違和感が膨らんでいく。

偶然に深夜のテレビ番組「ワールドプロレスリング」を観て、プロレスラーになりたいと直感的に思った。そんなときに、ある記憶が蘇った。「大学に通うのに使っていた自由が丘駅で、新日本プロレスの棚橋弘至選手に会ったことがあって。一緒に写真を撮らせてくださいと声を掛けたときに、「君ガタイいいね、プロレスラーにならないの?」と言われたんです」。

いまになって棚橋にそのときのことを問うと、覚えていないというから、リップサービスだったのかもしれない。それでも、社会人としてもどかしい日々を送っていた辻は、その日からスクワットを始めて、すぐに会社を辞めた。「新日本プロレスの入門条件は、23歳以下。運動神経には自信があったのですが、年齢的に一度だけ、最後のチャンスなので、できることは何でもしようと思って準備しました」。

プロレスラー辻陽太さんのトレーニングの様子
トレーニングルームでは、相手はいない。一回ずつ丁寧にダンベルを上げて、自分自身としっかりと向き合う。
プロレスラー辻陽太さんのトレーニングの様子
反復の中で、筋肉の声を聞く。自分自身の限界は、ダンベルの重さよりも先に身体が知っている。
プロレスラー辻陽太さんのトレーニングの様子
ベンチプレスのウェイトを付ける。トレーニングでは、数字よりも、自分の感覚を大切にしている。
プロレスラー辻陽太さんのトレーニングの様子
力任せではない。ダンベルを上げる位置や手の角度に注意して、狙うのはフォームが崩れないぎりぎりの負荷。
プロレスラー辻陽太さんのトレーニングの様子
ベンチプレスで胸の筋肉を鍛えるには、押し上げるだけではなく、バーを下ろすときの制御が重要になる。
プロレスラー辻陽太さん
トレーニングで持ち上げた重さは、プロレスの試合で受け止める重さにもつながっている。
プロレスラー辻陽太さんの手のひら
手にできた豆は、毎日続けているトレーニングの証明。静かな鍛錬の反復が、リング上で言葉になる。

若手時代に、海外での武者修行も経験した。英国のプロレスは派手な技の発表会のようで、辻陽太にとっては違う競技のように思えた。「デビューしたばかりで新日本プロレスのヤングライオンと呼ばれていたときに、最低限の技しか使ってはいけない暗黙の了解がありました」。受け身、ロープワーク。倒れた後にどう立ち上がるか。「同じ技を繰り返す中でも、気持ちや表情で伝えていく。勝った負けたの勝敗以外にも魅力があるのがプロレス。新日本プロレスにとって大事なのは、そこなんです」。

新日本プロレスのメインイベンターとなった辻は、2025年11月に棚橋弘至とIWGP GLOBALヘビー級のタイトルマッチで戦った。王者は棚橋ではなく、32歳となった辻陽太。年明けの1月4日東京ドームでの引退を発表している棚橋を対戦相手に指名したのだ。

棚橋の出身地である岐阜で行われた興行で組まれた試合で、最後に辻が繰り出したのは、アメリカンフットボールのタックルから編み出したジーンブラスターという得意技。棚橋が引退前の最後となるタイトルマッチで、辻は自分の人生を変えた恩人を破った。12年を超えたストーリーである。

プロレスは技の発表会ではない、と辻は考えている。「技をバンバン出すだけだったら、テレビゲームになってしまう」。いま自分が何を考えているのか、表情や肉体の躍動で、何を伝えたいのか。「そのためにも、しっかりと筋肉をつくるのが大事です。もちろん、身体を守るという大前提もあります」。

準備を怠らないこと、先を読んでいくこと。もしかしたら、会社員として過ごしたときに身につけた習慣かもしれない。「他の選手より遅れてデビューした劣等感がありました。いまとなっては、あの経験があったからこそ、ここにいられると思っています」。

試合中に心掛けているのは何かと、辻に問うてみた。「手をガチャガチャと動かさないこと。フィニッシュの前に、何かを掴み取る思いを込めて天に突き上げるとか、大切なときに手を使いたいから」。

相手の肩を掴んで起き上がる。ロープを揺らしながら這い上がる。そんなときも、手の表情にプロレスラーの思いがこめられている。

プロレスラー辻陽太さん
YOTA TSUJIと書かれたTシャツ。若いころに修業したメキシコで体得したセンスが活かされている。
プロレスラー辻陽太さん、懸垂をしている様子
重い身体を引き上げる懸垂。引く力のトレーニングは、リングで相手を自分の間合いに引き込むため。
トレーニング中の様子
リングでは、腕の動きひとつ、手の表情ひとつが大切。そこをイメージしながら、丁寧にトレーニングを繰り返していく。
プロレスラー辻陽太さん
集中と弛緩。トレーニングでこれを繰り返していくことが、リング上での高いパフォーマンスにつながる。
トレーニング中の様子
トレーニングのときは、相手はいない。身体のフォームを確認するために鏡に向かい、ひとり黙々と続けていく。
プロレスラー辻陽太さんのコスチュームのひとつ「赤いハット」
入場のときにかぶる赤いハット。プロレスラー辻陽太になるための、大切なコスチュームのひとつだ。
プロレスラー辻陽太さん後ろ姿
ハットとコートを纏った辻陽太。プロレスの新しい時代を切り開くためにも、その歩みを止めることはない。

筋肉トレーニングは、単なる身体づくりではない。過去の経験すべてを、いまの自分につなげる作業でもある。持ち上げた重さが、次の試合、そしてまた次の試合につながっていく。トレーニングを終えて、床に座り込む。呼吸が整い、汗が落ちていく辻は、2026年1月4日に控えた、東京ドームでのビッグマッチに思いを馳せる。

棚橋弘至が引退試合をするその日に、辻は同世代のKONOSUKE TAKESHITA選手とお互いのタイトルを懸けたダブルタイトルマッチを戦う。中邑真輔、オカダ・カズチカ、内藤哲也といった人気プロレスラーが、次々と新日本プロレスを退団。そして今回、10年以上にわたってエースとして君臨した棚橋弘至が引退する。

辻陽太は、世代交代の旗手として新しい時代をつくることができるのか。「棚橋弘至と違うやり方で、そこにたどり着かなければいけない」。

さて、どうすれば、どんな試合をすればそこに到達できるのだろうか。「それって、答えがない戦いだと思うんです」。これをやれば心に残るプロレスラーになれるというアイデアが、いまあるわけではない。「リングの上でふとそれが降ってきたときに、それができたらいいなと思っています」。

profile

プロレスラー辻陽太さんのトレーニングの様子

辻 陽太(プロレスラー)

1993年生まれ。新日本プロレス所属。学生時代はアメリカンフットボールでクォーターバックを務め、大学卒業後に一般企業へ就職。2017年に新日本プロレスに入門し、2018年にデビュー。ヤングライオンとしての基礎を経て、2021年からはイギリスとメキシコで武者修行を経験。2023年に凱旋帰国して試合を重ね、2024年にIWGP GLOBALヘビー級王座を初戴冠した。2026年1月4日の東京ドームでは、IWGP世界ヘビー級王者であるKONOSUKE TAKESHITA選手とのダブルタイトルマッチに臨む。技だけではなく、手の動きひとつで思いを伝えるプロレスを目指している。

X:@njpw_yotatsuji

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