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ゴッホは生きている間に「絵が1枚も売れなかった」ワケではない…アルル時代の傑作を40万円で買った社長令嬢

  • 2025.12.20

ゴッホ展が東京や神戸で開催され、行列ができる人気になっている。アートに詳しいライターの村瀬まりもさんは「現在の大人気に比べ、ゴッホは生前まったく絵が売れなかったというが、1枚だけ購入した女性がいたという記録が残っている」という――。

フィンセント・ファン・ゴッホ『星月夜』(ニューヨーク近代美術館所蔵)
フィンセント・ファン・ゴッホ『星月夜』(ニューヨーク近代美術館所蔵)(写真=Google アートプロジェクト/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
「大ゴッホ展」が来場30万人突破

2025年から2026年にかけて、日本にかつてないほどたくさんのゴッホの絵が集まる。東京都美術館では「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」が12月21日まで開催され、2026年は愛知県美術館に巡回(1月3日~3月23日)。神戸市立博物館では「大ゴッホ展 夜のカフェテラス」が始まっており、2026年には福島、東京などに巡回する。

さらに2027年には「大ゴッホ展 アルルの跳ね橋」がスタートし、なんと2028年まで続くのだ。美術展のチケットが2000円超になった今、そんなにゴッホの絵を見に行く人がいるのかとも思うが、これまでも毎回50万人近くを動員してきたゴッホ展は、やはり美術展企画の鉄板でありドル箱。あの名作「夜のカフェテラス」が約20年ぶりに日本で見られるとなれば、現在の神戸市立博物館のように平日でも長い行列ができるのだ。

すでに「大ゴッホ展 夜のカフェテラス」は開始から3カ月弱で30万人を入場を記録した。

それだけの吸引力がある画家なので、フィンセント・ファン・ゴッホ(1853~90年)のわずか37年の生涯については、ゴッホ展に行かない人でもだいたいのところをご存じだろう。

「生前は無名だった」伝説は本当か

「今は世界の有名美術館に絵が所蔵されているが、生前は無名で絵がほとんど売れなかった」「無収入で弟のテオに死ぬまで仕送りしてもらっていた」「南仏アルルで同時代の画家ゴーギャンと共同生活を始めるも、彼と衝突し、自分の耳を切り落とした」「精神のバランスを崩して療養施設に入院し、退院後に麦畑の中でピストル自殺した」

ゴッホ展には必ず行く! というほどのファンになると、もう少し詳しい。

「従姉妹や下宿先の女性など、身近な人をすぐ好きになり、熱烈アピールしては嫌われていた」「自画像が多いのはモデルを雇うお金がなかったから」「有名なひまわりの絵はゴーギャンをアルルの“黄色い家”で歓迎するために何枚も描いた」「切り落とした耳たぶをゴーギャンのなじみの娼婦に渡した」「弟のテオもゴッホの死の半年後に病気で亡くなった」「死後にゴッホの絵の評価を高めたのはテオの未亡人ヨーである」

ということは知っている人も多いのではないだろうか。筆者もそのぐらいの知識はあったのだが、「ゴッホの生前に売れた絵」については、ほとんど何も知らなかった。

だが、「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」の公式図録にはこう書いてある。

1枚だけ展示作品が公式に売れた


ファン・ゴッホが生み出す芸術は生前まったく見向きもされず、彼の絵画はたった1点しか売れず、近代における傑出した芸術家のひとりと見なされるには死後何年もかかった、という「神話」は真実でない。しかし、それらを消し去ることはできない。
(中略)
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック、ジョン=ピーター・ラッセル、エミール・ベルナール、ルイ・アンクタン、ポール・ゴーガン、カミーユ・ピサロとその息子リュシアンなど、ファン・ゴッホが1886年初頭から88年初頭までパリで暮らしていたあいだに出会った芸術家仲間たちは、彼の才能を疑っていなかった。
(『ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢』図録、シラール・ファン・ヒューフテン「フィンセントとテオの芸術への愛」)

つまり、「ゴッホは生前まったく評価されず、絵は1枚も売れないまま失意のうちに死んだ」という“不遇の人”イメージは間違っており、実際には、絵は1枚だけだが公式に購入され、ヨーロッパの美術界でもそれなりに評価されていたのである。

誰が買ったのか

では、その1枚を買ったのは誰か。ゴッホが死去する約半年前の1890年2月、ベルギーの首都ブリュッセルで開かれた「20人会展」で73cm×91cmの「赤い葡萄畑」を購入したのは、同会に所属するアンナ・ボック(1848~1936年)という女性だった。

フィンセント・ファン・ゴッホ「赤い葡萄畑」1888年(プーシキン美術館蔵)
フィンセント・ファン・ゴッホ「赤い葡萄畑」1888年(プーシキン美術館蔵)(写真=History of the Red Vineyard by Anna Boch.com/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

彼女自身も画家。そして弟のウジェーヌ・ボック(1855~1941年)はゴッホと親交の深い画家だった。ゴッホは葡萄畑の絵を夢中で描いていることを制作当時からウジェーヌに知らせていたし、ゴッホが描いた彼の肖像画もある。ウジェーヌの死後、ルーブル美術館に遺贈され、現在はオルセー美術館が所蔵。フランスでは電話帳の表紙になるなど、国民に親しまれているとても有名な絵だ。

ゴッホの「赤い葡萄畑」を購入したアンナ・ボック
ゴッホの「赤い葡萄畑」を購入したアンナ・ボック(写真=JoJan/CC-BY-3.0/Wikimedia Commons)
フィンセント・ファン・ゴッホ「ウジェーヌ・ボックの肖像」1888年(オルセー美術館蔵)
フィンセント・ファン・ゴッホ「ウジェーヌ・ボックの肖像」1888年(オルセー美術館蔵)(写真=Eugene Boch.com/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

つまりゴッホからしてみれば、ベルギーの展覧会に絵を数枚出してみたところ、それを主催した美術団体のメンバーである“友達のお姉さん”が絵を1枚買ってくれた。コネありきの商談というかお知り合い価格というか、そういう感覚だったのだろう。

購入金額は400フラン。現在の価値に換算すると、わずか40万円ほどだった。

40万円ほどだが、ゴッホは喜んだ

ちなみにゴッホは「20人会展」にあの「ひまわり」も出展し、当時の手紙に「500フランの価値がある」と書いているが、そこまでは届かなかった。当時、ゴッホはオランダの母に宛てて「400フランなんて、よく考えてみれば安いんだけれど、とにかく絵が売れましたよ(照れ)」というようなメッセージを送っている。

それまでもゴッホは叔父に有償で風景画を頼まれたことはあった。また、ウジェーヌとお互いの絵を交換していたし、ゴーギャンとも絵を贈り合った。その取引に金銭は発生しなかったが、ゴーギャンの絵はすでに市場で売れるようになっていたわけなので、「等価交換」という意味で、ゴッホの絵にも価値が認められていたと考えることもできる。

しかし、やはり公式な場である展覧会で絵が売れたことは、うれしかっただろう。アンナがなぜこの絵を購入したかはわからないが、一説には、ゴッホほどの芸術家が評価されていないことに憤慨し、正義感のような気持ちから購入したという。

実家はハプスブルク家御用達

実はアンナにとって40万円ほどは、たいしたお金ではなかった。絵描きのボック姉弟には“太すぎる”実家があったのだ。

それは、かのハプスブルク家御用達の陶磁器メーカー、ビレロイ&ボッホ(Villeroy & Boch)。そのボッホ(ボックとも読む)が姉弟の苗字に当たる。フランス、ドイツ、ルクセンブルクに拠点を置き発展してきた企業で、マイセンやウェッジウッドのような一流ブランドだ。

バチカンに食器を提供し“ローマ教皇御用達”としても知られる。日本でも外資系のホテルなどでテーブルウェアとして使用されている。ただ、一般向け商品はマグカップが5000円ほどからと、そこまでお高くはない。

1890年当時は、ボック姉弟の伯父が社長を務めていた。その弟である父親は関連会社の社長。アンナはビレロイ&ボッホと父の会社の株を所有し、その配当金でブリュッセルの中心地にある瀟洒な館に住んで絵を描きつつ、毎週、サロンを開催するという優雅な日々を送っていたという。

ただアンナの画業は“お嬢様芸”では終わらなかった。同時代の女性画家マリー・ローランサンやメアリー・カサットほど有名ではないが、恵まれた境遇に甘えず、生涯、印象派やポスト印象派の流れを汲んだ“新しい絵”を描き続けた。同時にゴッホをはじめ、他のアーティストの作品を購入し支援する彼女は仲間に慕われ、絵や彫刻のモデルにもなっている。

絵を描くアンナ・ボック、1890年
絵を描くアンナ・ボック、1890年(写真=http://www.art-memoires.com/lm/lm03rey2.htm/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

アンナはゴッホの死後、「花咲く桃の木のあるラ・クロー風景」(現在はロンドンのコートルード美術館蔵)も購入したが、自分のコレクションを増やす資金にするため、1909年に「赤い葡萄畑」を売却する。次の購入者が出した金額は1万3000フラン(約1300万円)。19年間で価値は32.5倍になっていた(圀府寺司『ファン・ゴッホ 生成変容史』)。

なぜ今、絵はロシアにあるのか

このとき「“赤い”葡萄畑」を入手したのは、ロシア人実業家イヴァン・A・モロゾフだと言われている。おそらくそのときから絵はロシアに渡り、社会主義革命が起こり“真っ赤に”染まったロシアでレーニンが私的財産なんてけしからんと没収。1923年に国有化されて、現在はモスクワ・プーシキン美術館のハイライトコレクション(目玉)となっている。いつか日本で見られる日は来るのだろうか。

今後、ロシアの威信にかけても「赤い葡萄畑」が売りに出されることはないだろうが、現在なら価値はどれぐらいなのか。

実はゴッホの絵は近年、日本人が価格をつり上げてきた。バブル期の1987年に当時の安田火災海上(現:損保ジャパン)が50億円超で「ひまわり」(SOMPO美術館蔵)を落札したのは有名な話だ。

そして、1990年には大昭和製紙(現:日本製紙)創業者の長男で“東海の暴れん坊”と呼ばれた齊藤了英が「ガシェ博士の肖像」を120億円超で購入し、ちょっとやりすぎだろうという史上最高記録を作ってしまった(圀府寺司『ファン・ゴッホ 生成変容史』など)。

現在なら価値は100億円以上か

「赤い葡萄畑」はゴッホが最も画才を発揮したアルル時代の絵であるし、同居を始めたゴーギャンの影響を受けて現実にはありえない色使いを試みた意欲作でもある。

フィンセント・ファン・ゴッホ「ガシェ博士の肖像」1890年
フィンセント・ファン・ゴッホ「ガシェ博士の肖像」1890年(写真=出典不明/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

仮に100億円とすると、アンナ・ボックが最初に40万円で買ったときから2万5000倍の価値になっていると推測できる。そう考えれば、どんな投資よりすごい上昇率になるかもしれないが、そこには130年という時間がかかっているのだ。

ゴッホは死ぬまで独身だったが、彼の絵の価値を高めたのは女性たちだった。義理の妹となったヨー・ボンゲル(1862~1925年)は亡き夫テオの遺志を継いで、「ひまわり」の絵をロンドンのナショナルギャラリーに納めるなどし、ゴッホの名声を確立した。「大ゴッホ展」に作品を提供しているクレラー・ミュラー美術館のヘレン・クレラー・ミュラー(1869~1939年)は、ゴッホの絵に魅了されて90点ほどをコレクションし、ゴッホ中心の美術館を建てた。

だが、たとえ1枚でも、ゴッホが生きているときに絵を購入し、彼をプロの作家にしたのはアンナだった。きっと、彼に「世界にたったひとりでも認めてくれる人がいる」という確かな幸せと自己肯定感をもたらしたことだろう。つまり、今でいう「“推し”は生きているうちに推せ」。アンナが払った400フランは、まさにプライスレスなお金だったのではないだろうか。

村瀬 まりも(むらせ・まりも)
ライター
1995年、出版社に入社し、アイドル誌の編集部などで働く。フリーランスになってからも別名で芸能人のインタビューを多数手がけ、アイドル・俳優の写真集なども担当している。「リアルサウンド映画部」などに寄稿。

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