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英語の授業がハイレベルすぎた…「ばけばけ」では描かれない、小泉八雲が"生徒"に伝えた「粋なメッセージ」

  • 2025.11.27

NHK「ばけばけ」では、小泉八雲をモデルにしたヘブン(トミー・バストウ)が、松江中学校の教師として英語を教えるシーンが描かれている。八雲は、どんな授業をしていたのだろうか。ルポライターの昼間たかしさんが、当時の教え子たちの証言を集めた文献などから史実に迫る――。

ギリシャ、レフカダ島のラフカディオ・ハーンの像
ギリシャ、レフカダ島のラフカディオ・ハーンの像(写真=Konstantinos Stampoulis/Geraki/CC-BY-SA-2.5,2.0,1.0/Wikimedia Commons)
八雲は2人目の外国人教師だった

NHK朝の連続テレビ小説「ばけばけ」は、松野トキ(髙石あかり)とレフカダ・ヘブン(トミー・バストウ)を中心に物語が進んでいる。こうした中で、やっぱり気になるのは八雲の教師生活。考えてみれば、それまでの八雲の仕事は記者で作家。松江での仕事は、いわば収入に困って飛びついたようなもの。

そんな八雲は、いったいどういう授業をしていたのだろうか。

まず、多くの人が誤解しているであろうことがある。それは松江での初めての外国人教師が八雲ではないということだ。

もともと、島根県の学校に外国人教師を招くというのは、1885年に着任した県知事・籠手田こてだ安定やすさだの肝いりで始まったもの。これで最初に招かれたのがタットルというカナダ人であった。

タットルは1889年9月から翌年3月までの契約だったが、これを更新し1891年3月まで授業を受け持つ契約になっていた。ところが、この人物はとにかく教師としては酷い人物だった。当時の生徒の回想には、その授業がいかに酷かったかを記している。それによればタットルはとにかく寒がりで、特別の教室でストーブを焚いて授業をしていた。それでも、足らずに頭には頭巾を巻いての授業である。それだけなら、単なる寒がりで済むのだが、教え方も酷い。

段々授業を受けますうちに、ストーブの前へ毛布を敷いて遂にはごろっと横になったという具合でした。これには我々、書生ではあったけれども、何だ先生たるものが、我々を馬鹿にしている。こんな先生はつまらんということになった。(『座談会・旧師小泉八雲先生を語る』松江中学校 1940年)

前任者は1年も経たずに「クビ」

『座談会・旧師小泉八雲先生を語る』は、昭和に入り壮年となった当時の教え子たちが、ざっくばらんに思い出を語ったもの。もともとが身内を集めての会合だったためか、とにかく発言が率直なのだが、タットルがいかに酷かったかも多く語られている。

授業で生徒に褒美を出すこともあるが、賞品はカナダの古新聞だったというからメチャクチャだ。証言では「教育程度、知識の程度が先生は低かったのでしょう」とまでいわれている。

そのあまりの酷さについに島根県でも解雇を決めた。西田千太郎の日記では1890年7月28日に「教授上不完全の点なきにあらざるを以て、本月限解雇」とある。そのため、後任を探すべく県知事の籠手田が上京したところ、文部省から推薦されたのが八雲だったというわけである。

つまり、招いた島根県として、今度は大丈夫か? と期待されていた人物だったというわけだ。

こうして八雲が教鞭を執ることになった島根県尋常中学校は、当時島根県で唯一の中学校であった。現在は学制改革で県立松江北高校となったが地域の名門に変わりはない。旧制中学校時代には若槻礼次郎・竹下登と総理大臣だけでも2人を輩出している。つまり、県内の優秀な生徒たちが集まる学校である。

なぜ“素人”の八雲が教師に選ばれたのか

対する八雲は、新聞記者として経験を積み文学の才能はあったが、教師としてはズブの素人であった。タットルを教師としての質が悪いからと解雇しているのに、次に招いたのは文部省からの推薦があるとはいえ、教師なんてやったこともない人物である。しかし、西田らがこれを心配していた気配は史料からは見られない。

教頭である西田は、英語も堪能だったので八雲の才能もすぐに見抜いたのであろう。なにより、自身も大学には進めず苦学して英語を習得し、4つ教職の免状を受けた人物だから、なにか通じるものがあったのだろう。

八雲が松江にやってきた当日、1890年8月30日の西田の日記には「本年4月初めて日本に来たり日本事情掘削に力を尽くせり。割合によく日本の生活に慣る」とある。前任のタットルは生徒からも「金儲けのために来ているという印象が何時もあった」と評されるような人物だったから、日本文化に馴染もうとする態度を見せている八雲には最初から期待できると感じていたのだろう。

さて、こうして始まった八雲が受け持った授業は「コンポジション、カンバセイション及びリーディング」だったとある。すなわち、作文・会話・朗読である。裏を返せば文法は教えていない。文法の授業は西田ら日本人教師の担当で、八雲はひたすら生きた英語の運用を任されていた。

当時の英語教育「ひたすら発音して、書いて慣れろ」

当時の中学校は「帝国エリート養成所」で、英語とドイツ語かフランス語の履修が強制されていた。だが問題は、日本語の教科書がほとんど存在しなかったことである。

文部省の『正則文部省英語読本』は1ページ目から全て英語で、日本語の解説は一切ない。ひたすら発音して書いて慣れろというスタイルで、ある程度理解したら原書を読めというものだった。ようは、英語を学ぶのはそれ自体が根性の勝負。毎日30分で効率よくなんてない。現代のデュオリンゴ(注:外国語を学べるアプリ)を楽しんでいる人なら、3秒でログアウトする難度である。

『座談会・旧師小泉八雲先生を語る』には「西田先生から大分原書をたたき込まれていた」という証言がある。

つまり『正則文部省英語読本』で基礎を叩き込み、下級生で絵本からナポレオンの伝記まで駆け上がり、上級生になると容赦なく原書講読に移行する。これが当時の英語教育の実態だったのだろう。

しかし、ここに一つ大きな問題があった。

どれだけ原書を読み込んでも、それだけでは「生きた英語」にはならなかった、という点である。

八雲は、英語を“使う力”を叩きこんだ

教室で扱われるのは、欧米の寓話、歴史物語、科学読み物ばかり。いずれも「書きことば」として整えられた文章である。そこには息づかいも癖も、語気の揺れも、感情の跳ねもない。ましてや、辞書とにらめっこしながら訳していく読解中心の学習では、英語を読む力は育っても、使う力は育たない。

そこで必要とされたのが、英語そのものを「日常の速度で操る」技量を持つ教師であった。松江では八雲がアメリカの文豪らしいと広く知られていた。実際は知る人ぞ知る作家だったが、「アメリカの高名な文筆家の先生が来る」という事実が、期待値を大きく押し上げていた。

では、そんな八雲の授業風景は、どんなものだったか。これも『座談会、旧師小泉八雲先生を語る』を読むと見えてくる。

「唯一記憶に残っておりますのは『お前達は卒業してからどんなものになろうと思うか』こういう題が出まして、代わる代わる答えるのでした。難儀したものでした。どんな事を言ったらよいかと大分考えたものでしたから記憶にのこっております。ヘルンさんが生徒のいった言葉をずっと書いて自分で逐次訂正があった。こういう風な授業の仕方でした」

ラフカディオ・ハーン
ラフカディオ・ハーン(写真=『The life and letters of Lafcadio Hearn』/Flickr-no known copyright restrictions/Wikimedia Commons)
当時の生徒「『宍道湖』という題で英作文したこともある」

これは、当時の日本の英語教育を知る者なら誰でも驚く光景だ。

作文の授業で教師が生徒の発言を英語で板書し、その場で構文や語法を直しながら、正しい英語として「仕上げて」いく。これは英作文と英会話と添削の三つが、ひとつの教室で同時に起きているスタイルであり、まさに八雲の即興性と語感に支えられた授業法であった。

コンポジションにおいては、今日とはまったく違いまして、今日では和文英訳ですが、その頃は自由作文でした。色々な題がありまして、それで文章を作るというような具合でアリマス。どうもコンポジションの題になった者を覚えませんが「宍道湖」という題で作ったこともあります。

つまり当時の八雲の作文授業は、「日本語を英語に直せ」という訓練ではない。自分で考えて、英語で書け。それが八雲の方針だった。題材もまた、地元の湖や風景といった身近なテーマを扱っているのが興味深い。辞書と格闘しながら宍道湖を英語で表現する。これは、文法中心の日本式英語教育とは対極の、英語で世界を見る訓練にほかならなかった。

“ハイレベルすぎる”が、丁寧な授業だった

さらに忘れてはならないのは、明治期には録音機器が存在しないという事実である。

現代のように英語音声を何度でも聞き返すことはできず、教室で発せられた外国語は「その瞬間に聞き取れなければ永遠に消える」種類のものだった。

生徒にとって、八雲の発する英語は、松江で唯一触れられる生きた英語の音だった。英語を本気で学びたい生徒にはこの上なくありがたい授業だが、現代の中学・高校の英語授業からするとハイレベル過ぎる。これで授業は1コマあたり7人から多くても18人。予習復習を完璧にこなして準備しなければ対応できない授業だったことが想像できる。

しかも厳しいばかりでなく、生徒がわからないといった顔をしていると身振り手振りも使って驚くほど丁寧に説明をしてくれる(さすがにすべて英語では無理なのか、授業には日本人教師が補助に入っていたようだ)。ある生徒は当時の授業をこう振り返っている。


会話の時には生徒を一人一人お呼びになって先生から話しかけられます。生徒はそれにお答えをするのです。優秀な方が誰も立派にお答えをなさるが、多くは「アイ、カンノット、アンダースタンド」で御辞儀です。そして先生との会話はそっちのけでお互い同士が話を始めます。いつしか教場が騒々しくなります。

すると先生はポケットからジャックナイフのような眼鏡を取り出しそれをピント直角に起こして眼にあてて、教場を一瞥せられ鉛筆の端で卓をコツコツと打って“Boys, boys, don’t talk so much”とおしかりになります。そして、よく出来た生徒には一方のポケットから訳した桃太郎やかちかち山の美しい絵入りの小冊子をご恵贈になりました。

妻の節子と長男の一雄と共に写るラフカディオ・ハーン
妻の節子と長男の一雄と共に写るラフカディオ・ハーン(写真=市田左右太/小泉節子『思い出の記』:毎日がエドガー・ケイシー日和/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
「君たちの文化は、英語で語るに値する」というメッセージ

この生徒の証言から浮かび上がるのは、八雲の授業が決して堅苦しい「訓練の場」ではなかったということだ。「アイ、カンノット、アンダースタンド」で降参する生徒たち、すぐに私語を始める教室、八雲はそれを頭ごなしに叱らず、折りたたみ眼鏡をわざわざ装着して鉛筆で机をコツコツ叩くという、ユーモラスな所作で注意を促した。

そして何より、よくできた生徒には「桃太郎」や「かちかち山」の英訳絵本を配った。欧米の教材ではなく、日本の昔話を英語で読ませる。それは「君たちの文化は、英語で語るに値する」というメッセージでもあった。

そんな熱心な授業に感激した当時の生徒たちだが、授業外での八雲の交流は驚くほど少ない。前任のタットルが授業は最低だが生徒たちと遊び歩くことは多かったのに対し、八雲はそういうことは殆どなかった。それでも長らく生徒たちの記憶に残っているということは、やはり優れた教師であったことは間違いないだろう。

昼間 たかし(ひるま・たかし)
ルポライター
1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。

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