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「写楽=平賀源内」説はありえない…大河「べらぼう」で描かれない謎の浮世絵師・写楽の想定外な「本業」

  • 2025.11.23

大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」(NHK)で浮世絵師・写楽の誕生秘話が描かれる。歴史研究者の濱田浩一郎さんは「蔦屋重三郎(横浜流星)は役者絵で覇権を取ろうとし、型破りな作風の絵師を探して写楽にたどり着いた」という――。

東洲斎写楽「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」
東洲斎写楽「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」(東京国立博物館蔵)、江戸時代・寛政6年(1794)(出典=ColBase)
わずか1年弱で絵師活動を辞めた「写楽」

東洲斎写楽は江戸時代後期の「謎の浮世絵師」として著名です。浮世絵師としての活動期間は寛政6年(1794)5月からの約10カ月。現存する作品は約140点ですが、前述の活動期間の後、ぱったりと新作を出さなくなり、消息不明となります。

これまで多くの人々が様々な説を述べてきました。それについては後述するとして、全ての写楽作品の版元となったのが、「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」(NHK)の主人公・蔦屋重三郎(横浜流星)です。重三郎と写楽が出会い、重三郎が写楽の画力に注目し、版元になったであろうことは想像がつきますが、両者の出会いが分かるような史料は残念ながら残されていません。しかし蔦屋による写楽の役者絵の初めての出版が前述の寛政6年(1794)5月であることは、2人の出会いについて解き明かす材料になります。

それはどうしてか。役者絵の売り出しには好機というものがあります。いつでも売り出せば良いというものではありません。好機の1つとして歌舞伎の顔見世興行が行われる時が挙げられます。この顔見世は歌舞伎の興行において最も重要な年中行事とされます。

二代目歌川広重・三代目歌川豊国画「江戸自慢三十六経猿若町顔見世」1864年、国立国会図書館所蔵
二代目歌川広重・三代目歌川豊国画「江戸自慢三十六経猿若町顔見世」1864年、国立国会図書館所蔵(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
蔦屋重三郎が仕掛けた役者絵プロジェクト

江戸時代、各劇場は俳優を毎年11月から1年契約で雇っていました。新しく契約した俳優を披露するのが11月より始まる「顔見世」です。顔見世に合わせて役者絵を売り出せば、普段よりも売れるという公算です。役者絵を売り出す次なる好機は、多くの人々で賑わう正月(1月)でした。

ところが前に述べたように写楽の役者絵の出版は5月。蔦屋重三郎はなぜ寛政5年(1793)11月もしくは寛政6年(1794)1月に写楽の役者絵を刊行しなかったのでしょう。推測するに11月と1月に写楽の役者絵を刊行するだけの余裕がなかったのではないでしょうか。そうしたことを踏まえると、重三郎と写楽がおよそいつ頃に出会い、意気投合したのかということが分かってきます。

寛政5年(1793)の年の末か、寛政6年(1794)の春頃に両者は出会ったと推測されるのです。当時、重三郎の関心は役者絵にあったと思われます。喜多川歌麿(「べらぼう」では染谷将太が演じる、以下同)に美人画を描かせた重三郎は、次は役者絵界に進出し、その覇権を握ろうとしたのでしょう。

神絵師・葛飾北斎もまだ才能を発揮できず…

とは言え、そのためには重三郎の眼鏡にかなう浮世絵師が必要です。重三郎が欲しかったのは、歌麿のように革新的な作品が描ける浮世絵師でした。江戸時代中期を代表する浮世絵師の勝川かつかわ春章しゅんしょう(前野朋哉)の弟子・勝川春朗しゅんろう(のちの葛飾北斎、演・くっきー!)に、重三郎は黄表紙の挿絵や役者絵を描かせています。

勝川春朗(葛飾北斎)画「三代目瀬川菊之丞の正宗娘おれん」1779年、東京国立博物館所蔵
勝川春朗(葛飾北斎)画「三代目瀬川菊之丞の正宗娘おれん」1779年、東京国立博物館所蔵(出典=ColBase)

しかし、春朗(北斎)の役者絵に重三郎は今ひとつ魅力を感じなかったようです。寛政6年(1794)の初め頃には春朗の作品の出版を止めてしまうと言われているからです。

春朗の弟おとうと弟子に勝川春英がいますが、重三郎は春英にも役者絵を描かせています(1793年頃)。春英の役者絵には例えば「三世市川高麗蔵、三世坂田半五郎、中山富三郎」がありますが、これは3人の役者の顔を一枚の画面に大写しにしたものです。

いわゆる「大首絵」(浮世絵版画の一形式で半身像または顔を主に描いたもの)です。役者の大首絵と言えば写楽が有名ですが、春英の役者絵も「次の写楽に連なる新要素をそこに含んでいる」と評されています。が、春英の役者絵も重三郎の期待に添うものではなかったようです。春朗や春英の役者絵は「伝統的役者絵」の型におさまっていたからだと思われます。

絵の上手さよりも「型破りな作風」

「役者絵の型を打ち破るような優れた描き手はいないものか」――重三郎は自らの眼鏡にかなう者を求め続けていたのです。そしてついに重三郎は偉大な描き手に出会ったのでした。それが東洲斎写楽だったのです。

では写楽とは何者なのか。彗星のごとく登場し、忽然と姿を消したこの謎の浮世絵師の正体(実像)探しにこれまで多くの人々が熱中してきました。写楽の活動期間が短いということ、写楽に関連する史料は多くはないこと、それが余計に推測を呼ぶことになります。

例えば推理小説界の巨匠・松本清張は写楽の絵の独自性から、写楽に「視神経の狂い」があったのではないか、そこから敷衍ふえんして(言い換えて)写楽は「少々精神異常者ではなかったか」とまで憶測しているのです。しかもそれは写楽が遊郭に出入りし、そこで性病(梅毒)にかかったためではないのかとまで推測するのでした。

正体不明の写楽の素性探しは的外れ?

確かに優れた芸術家には常人にはない感性を持ち、時に常軌を逸した振る舞いをする人(例えばオランダの画家・ゴッホ)もおりますが、だからと言って確証もないのに「精神異常者」と決め付けられてはたまりません。また写楽別人説というものも唱えられ、多くの有名な絵師・戯作者が「実は写楽ではないか」とされてきました。例えば葛飾北斎、喜多川歌麿、山東京伝(古川雄大)などがそうです。

姫路藩主・酒井忠以(1756〜1790年)の弟で琳派の絵師・俳人としても名高い酒井抱一ほういつが写楽ではなかったかという説も唱えられていました(江戸文学研究者の向井信夫氏の説)。

「自分の道楽のために相当大きな金が自由に使える身分のもの」「浮世絵の画技に習熟したもの」「芝居者と関係を持つもの」「蔦屋重三郎と親しいもの」「自分の名前や身分を隠さなければならない立場にあるもの」――こうした観点から向井氏は写楽=抱一同一人物説を主張したのです。たいへん興味深い説ではありますが、それを裏付けるような史料が残っているわけではありません。

「べらぼう」では平賀源内生存説まで…

「べらぼう」では平賀源内(安田顕)が写楽ではないかとの噂も立てられますが、源内=写楽という説は成り立たないでしょう。源内は獄死せずに田沼意次(渡辺謙)の領地・遠州相良にかくまわれたとの説もありますが、これは俗説であります。

東洲斎写楽「市川鰕蔵の竹村定之進」
東洲斎写楽「市川鰕蔵の竹村定之進」(東京国立博物館蔵)、江戸時代・寛政6年(1794)(出典=ColBase)

源内は安永8年(1780)11月、人を殺した罪により投獄され、その年の12月に病により獄死しているからです。また遺体も引き渡されています。源内は確かに安永8年に亡くなっているので、寛政6年(1794)に活動している写楽と同一人物であるはずはありません。

たしかに源内は戯作やエレキテルの制作の他にも、西洋画を習得し、油絵で西洋婦人の肖像を描いたとされていますが、それだけで写楽に結びつけるのは強引というものです。

中丸精十郎画「平賀源内肖像」1886年
中丸精十郎画「平賀源内肖像」1886年(写真=早稲田大学図書館収蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

また「べらぼう」においては写楽という人物は実在せず、複数の絵師による合作説を採用して描いています。写楽の作品は途中で画力が衰えるため、写楽複数人説も唱えられていますが、写楽自身が画風を変えたということも十分考えられるでしょう。写楽複数人説もしっかりした根拠がないように感じます。

写楽とは誰なのか。現時点で最も有力なのが、斎藤十郎兵衛(阿波徳島藩主・蜂須賀家お抱えの能役者)=写楽説です。

近年の研究でほぼ確定した「写楽の正体」

江戸後期の考証家・斎藤月岑(1804〜1878)の著作『増補・浮世絵類考』(1843年成立)の写楽の項目に「俗称斎藤十郎兵衛、八丁堀に住す。阿州侯の能役者」と記述されているからです。ちなみに『浮世絵類考』は浮世絵師の伝記・経歴を考証したものであり、天明期を代表する文人・大田南畝なんぽ(1749〜1823年、演・桐谷健太)の編纂に成ります。

それを後に山東京伝・式亭三馬・斎藤月岑らが補訂・増補していったのでした。斎藤十郎兵衛の名は能役者の公式名簿『猿楽分限帖』や能役者の伝記『重修猿楽伝記』にも記載されています。江戸在住の文化人を地域別に掲げた人名録『諸家人名 江戸方角分』にも江戸の八丁堀の項目に「号写楽斎 地蔵橋」と記されており、八丁堀地蔵橋に「写楽斎」という人物が住んでいたことが窺えます(『江戸方角分』を偽書とする説もあり)。

瀬川富三郎編『江戸方角分』、文政1年(1818)写し
瀬川富三郎編『江戸方角分』、文政1年(1818)写し(「国立国会図書館デジタルコレクション」より加工して作成)
瀬川富三郎編『江戸方角分』、八丁堀のページに「写楽斎」と書き込まれた部分
瀬川富三郎編『江戸方角分』、八丁堀のページに「写楽斎」と書き込まれた部分(「国立国会図書館デジタルコレクション」より加工して作成)

以上のような理由もあって、研究者の間では写楽は能役者・斎藤十郎兵衛であるということで「ほぼ一致」しているのです(浅野秀剛「写楽はいつ、どこで描いたか」『季刊 美のたより』)。

能役者なら非番期間に絵師の仕事もできる

江戸時代の能役者には当番と非番があり、1年もしくは半年で交代し、本国に帰ることが許されていました。5月から10月まで任務につくことを「半年詰番」、11月から翌年4月まで非番になることを「半年非番」と言ったのです(5月から翌年4月まで当番につくことを一年詰番と呼んだ)。

よって能役者には非番の時には、自国に帰る余裕もあったり、趣味に打ち込むこともできたのでした。斎藤十郎兵衛(写楽)には浮世絵を描く時間がそれなりにあったのです。写楽が限定された期間(約10カ月)で活動しているのも彼が能役者であったからとも推測されます。写楽の「正体」についてはほぼ結論は出ているのですが、それでもこれからも写楽の「正体」について様々な議論が交わされていくことでしょう。

参考文献
・謎の天才絵師の正体編集部『写楽を探せ 謎の天才絵師の正体』(翔泳社、1995年)
・松木寛『蔦屋重三郎』(講談社、2002年)
・中野三敏『写楽 江戸人としての実像』(中央公論新社、2007年)

濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
歴史研究者
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師・大阪観光大学観光学研究所客員研究員を経て、現在は武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。歴史研究機構代表取締役。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。

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