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35年前、日本中を魅了した“自作自演の大ヒット曲” テレビとCMから広がった“爽快アンセム”の記憶

  • 2025.8.25

「35年前のあの頃、テレビから流れてきた一曲で、気分が一気に晴れた経験はないだろうか。」

1990年、バブルの華やかさは街に残りながらも、未来への不安も少しずつ忍び寄っていた。渋谷や新宿のネオンはまだギラつきを失っていなかったが、その奥に漂う空気はどこか不透明だった。

そんな空気を切り裂くように、軽やかで透明感あふれるポップソングが、ラジオやテレビから流れ、聴いた人々の心を一瞬で虹色に染めていった。

高野寛『虹の都へ』(作詞・作曲:高野寛)——1990年2月7日発売。

 

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※Google Geminiにて作成(イメージ)

高野寛、決定的なブレイクの瞬間

『虹の都へ』は高野寛にとって4枚目のシングル。1988年10月7日、高橋幸宏プロデュースの『See You Again』でデビューして以来、彼はじわじわと評価を高めていたが、この曲で一気に大衆の耳をさらった。

初登場からチャート2位を記録し、高野自身の最大のヒット曲となった。この曲の成功で確実に“時代の声”を持つアーティストとして認知されるようになった。

自作自演に宿るポップセンス

このシングルの大きな特徴は、作詞・作曲、そして編曲まですべてを高野自身が担ったことだ。若きアーティストが自らの手で音楽を完結させる姿勢は、当時としても際立っていた。

そこに加わったのが、アメリカの名プロデューサー、トッド・ラングレン。世界的に評価される彼のセンスが加わり、国際的な響きを帯びた仕上がりになった。

イントロから広がるのは、軽やかに跳ねるリズムと、ギターを中心にした明るいコードの響き。その上に乗る高野のボーカルは、力強さで押し切るのではなく、自然体で伸びやかに広がっていく透明感が際立っている。聴く人を包み込むこの開放感こそが、『虹の都へ』が今なお色褪せない理由なのだ。

テレビとCMが後押しした大ヒット

『虹の都へ』が強烈に人々の耳に刻まれたのは、楽曲の良さに加えて、テレビを通じた強力な露出もあった。

スポーツブランドMIZUNOのCMソングに起用され、リリース前からフジテレビ系の人気恋愛バラエティ『ねるとん紅鯨団』の放送枠で繰り返し流されていた。数々の流行語を生み出した同番組の存在感は絶大で、毎週放送を見ていた視聴者の耳に、このフレーズが自然と刷り込まれていった。

CMと番組タイアップによって、発売前からすでに曲を口ずさめる人がいたほどで、その認知度の高さが発売直後のチャート2位という快挙につながったのである。

時代の風景と重なるポップソング

1990年といえば、まだ音楽シーンには“バンドブーム”の熱が残りつつ、シンガーソングライターの新しい潮流が芽吹き始めた時代。その中で『虹の都へ』は、派手なアレンジや歌唱に頼らず、シンプルで爽やかなポップを届けたことが逆に新鮮に響いた。

大声で「頑張れ」と言うのではなく、自然体で「一緒に行こう」と寄り添うような歌。それこそが、当時のリスナーが求めていた“未来へのささやかな希望”と重なったのだろう。

高野の声が持つ普遍的な響き。どこか穏やかで、聴く側の日常に違和感なく溶け込み、何度でも聴き返したくなる温度を持っていた。

時代を超える余韻

『虹の都へ』を改めて聴き返すと、あの時代の街の風景が鮮明に蘇る。週末の夜にテレビから流れたサビ、スポーツブランドのCM映像とともに耳に残ったフレーズ、駅の売店で流れていたラジオから聞こえてきたイントロ。日常のあらゆる場面に寄り添いながら、人々を未来へと導く音楽だった。

そして今なお、この楽曲は世代を超えて愛され続けている。決して大げさではなく、自然体で、虹のように一瞬の輝きを添える。そのさりげなさこそが、35年経った今でも色褪せない理由なのだ。

35年前、日本中を駆け抜けた『虹の都へ』は、時代の移ろいを超えて今もなお、私たちを優しい未来へと誘い続けている。


※この記事は執筆時点の情報に基づいています。