1. トップ
  2. 恋愛
  3. 死体にわいたウジ虫すら食べた…「飢餓の島・ガダルカナル」の日本兵を救った名参謀の"鶴の一声"

死体にわいたウジ虫すら食べた…「飢餓の島・ガダルカナル」の日本兵を救った名参謀の"鶴の一声"

  • 2025.7.10

第二次世界大戦中、日本軍が進軍したガダルカナル島では、十分な武器・食料が補給されず多くの兵士が悲惨な死を遂げた。追い詰められた軍中枢部はどうしたのか。共同通信社社会部編『沈黙のファイル 「瀬島龍三」とは何だったのか』(朝日文庫)より、一部を紹介する――。(第2回/全4回)

「人間の肉体の限界まできたらしい」

「12月27日 今朝もまた数名が昇天する。ゴロゴロ転がっている屍体に蠅がぶんぶんたかっている。どうやら俺たちは人間の肉体の限界にまできたらしい。生き残ったものは全員顔が土色で、頭の毛は赤子の産毛のように薄くぼやぼやになってきた。黒髪が、ウブ毛にいつ変ったのだろう。体内にはもうウブ毛しか生える力が、養分がなくなったらしい。髪の毛が、ボーボーと生え……などという小説を読んだこともあるが、この体力では髪の毛が生える力もないらしい。やせる型の人間は骨までやせ、肥る型の人間はブヨブヨにふくらむだけ。歯でさえも金冠や充塡物が外れてしまったのを見ると、ボロボロに腐ってきたらしい。歯も生きていることを初めて知った」(元陸軍中尉小尾靖夫の手記『人間の限界 陣中日誌』)

東西150キロ、南北48キロの島ガダルカナル。密林に潜む日本兵たちの間に不思議な生命判断がはやりだしたのは1942年末のことだ。小尾靖夫は「限界に近づいた肉体の生命の日数を、統計の結果から、次のようにわけたのである。この非科学的であり、非人道的である生命判断は決して外れなかった」と記している。

「立つことのできる人間は……寿命三十日間。身体を起して坐れる人間は……三週間。寝たきり起きられない人間は……一週間。寝たまま小便をする者は……三日間。もの言わなくなった者は……二日間。またたきしなくなった者は……明日。ああ、人生わずか五十年という言葉があるのに、俺は齢わずかに二十二歳で終るのであろうか」

2万人が「飢餓の島」に取り残された

太平洋戦争の開戦後、日本の勢力圏は東南アジアから南太平洋まで急速に膨らんだ。だが42年夏、反攻に出た米軍はガダルカナルを奇襲。海軍が建設したばかりの飛行場を奪った。

1942年8月7日、攻撃兵員輸送艦バーネットと攻撃貨物輸送艦フォーマルホートからガダルカナル島に上陸したアメリカ第1海兵師団
1942年8月7日、攻撃兵員輸送艦バーネットと攻撃貨物輸送艦フォーマルホートからガダルカナル島に上陸したアメリカ第1海兵師団(写真=U.S. Marine Corps/PD US Marines/Wikimedia Commons)

8月から10月にかけ、陸軍部隊が相次ぎ奪回のため上陸したが、攻撃に失敗した。米軍包囲の中、約2万人(11月末時点)の日本兵が取り残された。

補給が途絶え、骨と皮にやせ細った兵隊をマラリアや赤痢が侵した。元陸軍中尉の大友浄洲(81)が言う。

「食べられる物は草とトカゲぐらいだった。トカゲが目の前をちょろちょろすると、塹壕にへたり込んだ兵隊の目がカッと開く。竹の杖でたたくんだが、体が弱ってるから当たらない。逃げられると恨めしげな顔してね。今もその光景が忘れられない」

30歳の参謀に「ガ島奪回」の命令が下る

密林のあちこちで兵隊が行き倒れ、死臭が漂う。死体はウジに食われ、1週間で白骨になった。飢えが極限に達し、死体のウジを食べる兵隊も現れた。

「不思議なんだよね。死は友を呼ぶというか、死にかけた兵隊は白骨のそばに寝る。何もそんな所に寝なくてもと思うが、なぜか固まってしまう。やはりみんな一人で死んでいきたくないんだね」

この年11月末の旧陸軍参謀本部作戦課長室。課長の服部卓四郎が瀬島龍三に宣告した。

「明日から南東方面の担当だ」

南東方面とはガダルカナルやニューギニアを指す。事実上対米戦の作戦主任に抜擢するという意味だ。「飢餓の島」奪回の至上命令が30歳の瀬島に下った。

ソロモン諸島
※写真はイメージです
米軍の猛攻撃で「窓の外は地獄のよう」

ラバウルの海はコバルトブルーに輝いていた。その水面に作戦課の派遣参謀、山本筑郎の乗った飛行艇が舞い降りたのは1942年9月18日だった。約1000キロ南東のガダルカナルで日米の攻防が始まって1カ月余りがたっていた。

岸壁から歩いて数分。ガダルカナル部隊を指揮するラバウルの軍司令部は南洋特有の高床式建物にあった。

「えらいことになったよ。東京はどう考えてるのかね」

司令部の参謀長、二見秋三郎が深刻な表情で、着任挨拶に訪れた山本に言った。

戦況は想像以上に悪化していた。米軍に奪われた飛行場を取り戻すため8月中旬、約1000人の部隊が上陸したが、米軍の機銃掃射や戦車まで繰り出した猛攻で全滅。続く9月の総攻撃も惨敗した。

「ラバウル到着4日目には、もうガ島戦はいくらやっても負けると思った。夜明け前、米軍のB17重爆撃機が数十機襲いかかってきた。サイレンの音で飛び起きると、窓の外は地獄のようだった」と83歳の山本筑郎が当時を振り返る。

爆弾が絶え間なく降り注いだ。はらわたをえぐる轟音。司令部の窓ガラスが吹き飛び、あちこちで火柱が上がった。辛うじて飛び立った戦闘機は次々に撃ち落とされた。30分後、一機の損害もなく悠々と引き揚げていくB17機群を山本は呆然と見送った。

「ラバウルですらこうなのに、敵の制空権下にあるガ島の奪回は不可能だった。東京の大本営が奪回にこだわっている間に、ガ島では飢えで日に100人以上も死んでいった」

だれも「撤退」を言い出せない状態

10月の総攻撃には新たに約1万8000人が投入された。だが空襲で輸送船6隻中3隻が沈み、失敗。約2万人が補給のない島に孤立した。

1942年11月、ガダルカナル島に待機している軍第164歩兵連隊の兵士
1942年11月、ガダルカナル島で休んでいる軍第164歩兵連隊の兵士(写真=アメリカ合衆国海軍/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

「これだけ犠牲を払っても現地の軍司令部からは口が裂けても『撤退させて』とは言えなかった。陸軍の伝統は陛下の命令に命を懸けるということ。その陛下の奪回命令には絶対に背けないんだ」

天皇の命令「大本営命令」は作戦課が原案を作成する。作戦部長、参謀総長らの決裁を経て、最終的に天皇の裁可で発令される。「統帥権(軍の最高指揮権)独立」の建前から内閣や議会は直接関与できず、天皇が参謀本部の原案を拒否することもまずない。

「しかし参謀総長にしてみれば、自分が上奏して陛下の裁可をもらったガ島の奪回作戦だからね。後に引けない苦しみがあった。陛下の方も下から撤退を言ってこない限り、自分から言えない。おかしなことだが、当時はだれも撤退を言い出せない仕組みになっていた」

大本営命令の重圧で撤退が遅れ、飢餓地獄となったガダルカナル。作戦課からラバウルの司令部に派遣されていた元参謀の井本熊男が言う。

「大本営は、生きていることさえ困難な現地の惨状を知らず、東京の机の上から一方的に指令を出すことが少なくなかった。勝つことしか頭になく、勝てない原因の冷静な分析を欠いたまま一線の尻をたたいていた」

「奪回攻撃する」と豪語した作戦課長

12月16日未明。大本営の作戦主任、瀬島龍三らを乗せた飛行艇が横浜沖を飛び立った。行く先はラバウルの司令部。ガダルカナルの約2万人の運命を決める旅だった。

選択肢は三つ。攻撃続行か、撤退か、それとも見殺しにするか……。

「ガ島は依然、奪回攻撃する方針である」

参謀本部の作戦課長に就任したばかりの真田穣一郎の言葉に、井本熊男は激しい憤りを感じた。

1942年12月20日、ニューブリテン島ラバウルの司令部で開かれた幕僚会議。作戦主任の瀬島龍三とともにラバウル入りした真田は、既定方針通り近くガダルカナル総攻撃を行うと強調した。

「だが、大本営から真田課長らが来た本当の目的はそんなことじゃない。ガ島現地軍を撤退させるか、全滅するまで戦わせるかの判断資料を握りに来たんだ。それが見え透いてるのに表向き奪回を言う姑息さに腹が立った」と井本は言う。

残された選択肢は、撤退か玉砕か

本音と逆の強硬論が語られる奇妙な幕僚会議。大本営命令に縛られた軍司令部から撤退を主張する声はなかった。

元大本営参謀種村佐孝著『大本営機密日誌』によると、この会議より2週間前の6日深夜、東京・永田町の首相官邸の日本間で作戦部長田中新一が、和服姿の首相兼陸相、東条英機を怒鳴りつけた。

「このバカ野郎」

田中は東条に、ガダルカナル奪回のため大量の輸送船の調達を迫っていた。だが「民需用船舶が減り、国力が低下する」と拒否され、激高した。

田中の暴言に東条はすっと立ち上がって言った。

「何事を言いますか」

冷たく静かな声だった。

田中は翌日更迭された。田中とコンビを組んできた服部卓四郎も作戦課長を辞めた。

井本が言う。

「強硬なガ島奪回論者の2人の交代は、大本営が奪回をあきらめたことを意味していた。残るは撤退か玉砕かの選択。この重要な問題を真田課長の一行は会議で腹を割って話さず、参謀たちをこっそり個別に宿舎に呼んだりして意見を聞いた」

「できるだけの人々を救出できるように」

瀬島は陸軍大学校時代の教官だった参謀の加藤道雄から話を聞いた。加藤の答えは真田が残した日誌に記されている。

共同通信社社会部『沈黙のファイル 「瀬島龍三」とは何だったのか』(朝日文庫)
共同通信社社会部編『沈黙のファイル 「瀬島龍三」とは何だったのか』(朝日文庫)
元記事で読む
の記事をもっとみる