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3年間、拾った財布の持ち主からの「財布、まだ持っています」。頼んだ理由を、私は伝えていません

  • 2026.10.1
ハウコレ

角がすり切れたと書かれた月、私は受付をやめるときに持ち帰った糸の巻きを取り出しました。見せに来る話は、まだ出ていません。

座席の下から拾い上げた財布を開いて、私は持ち主の名前より先に、内側の角の縫い目を見ていました。

見覚えのある糸

バスの終点で降りるとき、前の席の下に黒い財布が落ちていました。名前を確かめるために開くと、角の内側に、太い糸で補強した縫い目がありました。糸の端を内側で2度結んで切る、私のやり方です。私は百貨店の修理の受付に長くいて、財布や鞄の角の補強を10年以上直してきました。受付は5年前になくなり、私はいま近所の店でレジに立っています。直したものがそのあとどうなったか、受付にいたころは一度も知ることがありませんでした。直った品を渡したあと、同じ客が同じ品を持って戻ってくることは、まずないからです。

財布は営業所へ届け、連絡先を知らせてよいかという欄に印をつけました。

お礼のかわりに

持ち主から文が届いたのは翌日でした。

「財布を拾っていただいた者です。無事に戻りました。お礼をさせてください」

「お礼はいりません」

そう返してから、私は次の文を打ちかけては消しました。角を直したのは私だと書けば、拾ったのではなく、自分の仕事を確かめるために財布を開けたように読まれます。頼めるのは、1つだけでした。

「代わりに、1つお願いがあります。月に一度、『財布、まだ持っています』とだけ送ってください」

「それだけで、いいんですか」

「それだけで、いいんです」

まだ持っています、は、私には、あの角がまだ持っています、と同じ文です。修理の受付では聞けなかった答えを、私は月に一度、もらうことにしました。

すり切れてきた角

届く文は、3年変わりませんでした。

「財布、まだ持っています」

私はそのたびに「ありがとうございます」と返しました。持っていてくれることへの礼です。持ち主がそれをどう読んでいたかは、分かりません。

3年目に入ったころ、決まりの文が崩れました。

「角がすり切れてきました。買い替えようか迷っています」

私はその文を2度読んでから、引き出しを開けました。受付をやめるときに持ち帰った、糸が、まだ残っています。

「その角は直せます。捨てる前に、一度見せてください」

返事はつきませんでした。既読の印だけが、その日のうちにつきました。

そして...

次の月の初めに、いつもの1行が届きました。買い替えたなら、この文はもう来ないはずです。糸は引き出しに入れたままで、見せに来る話は、まだ出ていません。あの角を縫ったのが私だということは、伝えていません。伝えれば、持ち主は3年、私の仕事の様子を知らせるために書かされていたと知ることになります。私は今月も「ありがとうございます」とだけ返して、糸を引き出しの手前へ寄せました。

(60代女性・パート)

本記事は、ハウコレ読者への独自アンケートに寄せられた実体験をもとに制作していますが、個人が特定されないよう、一部設定を変更しています。

(ハウコレ編集部)

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