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舌打ちした客を叱らなかったが、老人だけに声をかけた理由

  • 2026.9.26
ハウコレ

口を開く前に、思い出した顔がありました。運転士になって間もない頃、私の言葉のあとで頭を下げたのは、急かした人ではなかったのです。あの日から、決めていることがあります。

ミラーの中で、両替機の前に立つ男性の後ろに、鞄を持ち直す姿が映りました。私はブレーキを踏んだまま、運賃箱の脇の手すりを目で確かめました。マイクのスイッチに指を置くまでに、少しだけためらいがありました。

早く着いていた便

その停留所には、決められた時刻より少し早く着いていました。先を急いでも、ここで調整のために止まらなければならない便でした。白髪の男性は千円札を両替し、出てきた硬貨を数えては小銭入れに戻していました。その後ろで降車を待つスーツの男性は定期入れを運賃箱の上にかまえ、舌打ちを2度、私にも聞こえる大きさでしました。前の男性は振り返らず、私のほうへ頭を下げました。

「ごめんなさいね、時間かかっちゃって」

思い出した顔

口を開く前に、私には思い出す顔がありました。運転士になって間もない頃、同じように両替に時間のかかる乗客の後ろで、身体を揺らして待っている人がいました。私はマイクで、「お急ぎの方は少しお待ちください」と言いました。急かしている人に向けたつもりでした。

ところが頭を下げたのは、両替をしていた年配の女性のほうでした。

硬貨を入れ終えると、その方は車内に向かって何度も謝りながら降りていきました。それから私が同じ便を担当した日には、その方を見かけなくなりました。別の時間に乗るようになっただけかもしれません。それでも、あの言葉まで自分への注意だと受け取らせてしまったのではないか。そのことが、ずっと残りました。

急かす人には何も言わなかった

それからは、舌打ちを聞いても、その人には話しかけないようにしています。声をかけるのは、手が止まっている人だけです。マイクのスイッチを入れました。

「お客様、ゆっくりで大丈夫です。お気になさらず」

叱るつもりはありませんでした。舌打ちした人ではなく、目の前で謝っている男性にだけ「急がなくていい」と伝えました。男性は硬貨を1枚ずつ入れ、最後の1枚を拾ってから、もう一度頭を下げました。

「ありがとうございました。足元、お気をつけて」

男性が降りきるまでドアは閉めませんでした。続いてスーツの男性がカードをかざし、何も言わずにステップを降りていくのが、ミラーの中に見えました。その人が何を思ったのかは、私には分かりません。分かるのは、今度は手が止まっていた人だけに「急がなくていい」と伝えられたことです。

そして...

今も運賃箱の前で手が止まる人がいれば、同じように声をかけています。急かしている人に注意するためではありません。待っている人の反応を変えるより、目の前で困っている人に「大丈夫です」と伝えるほうを選ぶようになりました。あの日以来、急かした人へ向けた言葉は、マイクに乗せていません。

(50代男性・バス運転士)

本記事は、読者アンケートに寄せられた実体験をもとにした本人視点の記事を参考に、相手側の心情を想定して制作しています。実際の相手本人への取材ではなく、編集部による解釈を含みます。

(ハウコレ編集部)

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