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古畑だけじゃない。子どもに振り回されるほど、魅力が増した田村正和…教師から「パパ」へ続く3作品

  • 2026.9.4
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1995年11月、フジテレビドラマ『古畑任三郎』制作発表に出席した田村正和(C)SANKEI

田村正和ほど、子どもに振り回される姿が絵になる俳優も珍しい。端正な顔立ち、静かな物腰、自分の流儀を崩さない佇まい。大人だけの世界なら隙がないのに、相手が子どもになると、その完成された二枚目に思いがけない可笑しさが生まれた。

1984年の『うちの子にかぎって…』で演じたのは、父親ではなく小学校教師である。まず田村は、大人の理屈が通じない子どもたちの前に立った。やがて1987年の『パパはニュースキャスター』では、突然3人の娘に父と呼ばれる男に。そして1991年の『パパとなっちゃん』では、育てた娘を送り出す父になった。

子どもに調子を崩される教師から、父になる準備のない男、すでに父として生きてきた男へ。田村は二枚目を捨てたのではない。その崩れない輪郭のまま子どもとの距離を変え、笑いから責任、そして別れの寂しさまでを映した。3作品でたどるのは、パパ役が生まれる前史と、そこから深まっていった二つの父親像である。

子どもに通じない教師の威厳が二枚目を笑いへ変えた

1984年の『うちの子にかぎって…』で、田村正和は小学校教師として子どもたちの前に立った。田村が子どもを相手にコメディーへ挑んだ作品だが、そこで起きたのは二枚目からの転身ではない。端正さも、気取りも、大人としての体面も保ったまま、子どもたちによってその立ち位置をずらされたのである。

教師は本来、教室の秩序を担う側だ。ところが子どもたちは、大人が用意した筋書きの中に収まらない。田村の持つ隙のない輪郭が、彼らの予測不能な言動とぶつかるほど、狼狽や空回りが鮮やかになる。最初からくだけた人物なら、ここまでの落差は生まれない。

重要なのは、威厳が消えたことではなく、威厳が通じない場所へ置かれたことだ。田村はここで、子どもに振り回される大人を笑いにしながら、体面の奥にある不器用さを見せた。この配置が、後の「パパ役」を受け止める土台になったのだ。

3人の「愛」が完成された独身生活に父親の責任を持ち込む

1987年の『パパはニュースキャスター』では、子どもとの距離が一段近づく。独身ニュースキャスターの鏡竜太郎のもとへ、全員「愛」と書いて「めぐみ」と読む3人の娘が現れる。相手は教室の児童ではない。自宅に入り込み、自分を父と呼ぶ存在である。

ニュースキャスターは、整えられた言葉と表情で物事を伝える仕事だ。鏡もまた、自分の見せ方を知り、独身生活を自分の流儀で完成させている。そこへ3人の娘が押し寄せることで、公の顔と私生活の落差がむき出しになる。田村の洗練は崩される前の飾りではなく、崩されたときの衝撃を大きくするために効いている。

鏡には、父になる準備も、日々を子どもに明け渡す覚悟もない。それでも娘たちは待ってくれない。父親らしさを身につけてから関係が始まるのではなく、関係から逃げきれない時間の中で父へ近づいていく。その順序の逆転こそ、この作品の面白さである。

田村正和の洗練が父になる抵抗と受容を同時に映し出す

『うちの子にかぎって…』の大人は、子どもに調子を崩される。『パパはニュースキャスター』の男は、突然父と呼ばれ、生活そのものを揺さぶられる。2作を通じて変化したのは、子どもとの距離だけではない。田村が演じる男の責任が、場面ごとの対処から、関係を引き受けることへ移っている。

ここで田村正和の二枚目ぶりが生きる。感情を大きく露出しなくても、沈黙や間に「思いどおりにならない」という戸惑いがにじむ。格好よく振る舞おうとするほど、子どもへの情が隠しきれなくなる。その矛盾が、単なるドタバタを父親の物語へ押し広げた。

つまり田村のパパ役は、急に庶民的になったことで成立したのではない。自分の形を崩したくない男が、それでも他者の人生に巻き込まれてしまう。その抵抗と受容を同時に見せられたからこそ、父になる過程が濃く映ったのである。

育て上げた五郎に残る最後の役目は夏実を手放すこと

1991年の『パパとなっちゃん』で、田村の父親像はさらに深い場所へ進む。志村五郎は、10年前に妻を亡くし、一人娘の夏実を育ててきた父だ。物語は小泉今日子が演じる娘・夏実の結婚までを描く。ここには、突然父にされる男の混乱はない。五郎はすでに、長い時間を父として生きている。

だからこそ、この作品で突きつけられる課題は重い。娘を守り、育てることなら、五郎は続けてきた。しかし娘の成長は、父が積み重ねた時間から娘自身が離れていくことでもある。愛情を注いだ年月が長いほど、結婚は単なる祝福では済まない。五郎は、父である自分の役目と、娘を自分のそばに置いておきたい思いの間に立たされる。

ここでも田村の端正さは失われない。むしろ感情を抑え、平静を保とうとする姿の内側に、父の寂しさが集まっていく。大声で引き留めるより、いつもの輪郭を崩さないまま揺れるほうが、手放す痛みは深く見える。

『パパはニュースキャスター』が、準備のない男に父としての日常を受け入れさせる物語なら、『パパとなっちゃん』は、父として完成したつもりの男に、その立場の終わり方を考えさせる物語だ。田村のパパ役はここで、子どもに振り回される笑いから、娘の未来を認める覚悟へ到達した。

変わらない輪郭が教室から娘を送り出す家まで父性を深める

3作を貫くのは、二枚目を捨てた田村正和ではない。同じ端正さ、同じ気取り、同じ不器用な輪郭が、教室、突然始まった父娘生活、娘を送り出す家へと置かれていく。その場所が変わるたび、輪郭の内側から別の父性が現れた。

子どもに調子を崩され、父になる準備のないまま関係を背負い、最後には育てた娘を手放す。田村正和のパパ役の系譜とは、父親らしさの完成を見せるものではない。愛する相手の成長によって、自分の立ち位置を変えざるを得ない男の時間を見せるものだったのだ。


※記事は執筆時点の情報です

(文・野方希望)

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