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村上春樹のホラーとも読める『騎士団長殺し』。絵の中から飛び出してきた身長六十センチの「騎士団長」が表す怪異以上の本当の恐怖とは?【書評】

  • 2026.8.10
騎士団長殺し 村上春樹/新潮社
騎士団長殺し 村上春樹/新潮社

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絵の中にいるはずの人物が、ある夜、目の前に現れる。身長はわずか六十センチ。古風な口調で話すその人物は、どこか愛嬌さえある。だが、彼が現れたときから、静かな日常は、少しずつ現実とは違う方向へズレ始める。

そんな物語が、『騎士団長殺し』(村上春樹/新潮社)。この作品は、村上春樹が描く“極上のホラー”と言っても過言ではない。派手に脅かされるわけではないのに、ページを開けば、日常が気づかぬうちに異界へ侵食されていく。「難しいのにスルスル読める」「よくわからないのに怖い」――そんな不思議な読書体験を味わえる一作だ。

派手に脅かさない。だからこそ怖い

妻から突然、別れを告げられた肖像画家の「私」は、一人暮らしを始めた山中の家で一枚の絵を見つける。その絵の名は、「騎士団長殺し」。その発見を境に、不可思議な出来事が次々と起こり始める。だが、見るからに恐ろしい怪物が登場するわけでも、派手な流血シーンがあるわけでもない。絵の中から現れる騎士団長も、むしろコミカル。なぜか「私」に向かって「諸君」と呼びかけ、「~ではあらない」と結ぶ独特な口調で話す。自らを「イデア」と名乗るその姿は、かわいらしくさえある。

それなのにどうしてだろう、読めば読むほど、底冷えしてくるのは。夜中に聞こえる鈴。誰が何のためにつくったのかわからない石室。山の向こうの白い邸宅に暮らす、謎めいた富豪・免色。「私」がかつて旅先で出会い、どうしても顔を思い出せない男……。一つひとつの異変は、日常に紛れ込みそうなほど静かで、だからこそ、気づいたときには後戻りできない場所まで連れていかれている。いったいいつから、現実は歪み始めていたのか。現実と異界の境目が見えない恐怖に、私たちもいつの間にかのみ込まれていく。

これまでの村上春樹作品のモチーフが、新たな恐怖へ変わる

この物語にはこれまでの村上春樹作品のモチーフがギュッと詰め込まれている。森の中に口を開けた深い穴に、『ノルウェイの森』で直子が語る、死の気配を帯びた井戸や、『ねじまき鳥クロニクル』で主人公が実際に降りていく井戸を思い出す人もいるだろう。また、妻に去られた男が、説明のつかない存在に導かれ、奇妙な探索へ踏み出す展開には、『羊をめぐる冒険』に通じるものがある。さらに、現実とは異なる世界がすぐ隣に存在する感覚は、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』や『海辺のカフカ』にも通じる。そして、絵から抜け出してきた小さな騎士団長には、『1Q84』のリトル・ピープルも重なる。

ただし、おなじみのモチーフが、そのまま繰り返されているわけではない。本作では、穴も異界も小さな騎士団長も、主人公が封じ込めてきた喪失や恐怖を、現実へ引き出すものとして描かれている。過去作のモチーフが、絵をめぐる新たなホラーへと変奏されていることも、この作品を読む大きな楽しみのひとつだ。

絵を見ていたはずが、絵に見つめ返されている

だが、この物語で本当に恐ろしいのは、騎士団長や暗い穴ではないのかもしれない。

肖像画家である主人公は、モデルの外見を写すだけでなく、その人自身も気づいていない何かを、肖像画の中へ描き出すことができる。完璧に見える富豪・免色は何を隠しているのか。肖像画のモデルになる少女・秋川まりえは何を抱えているのか。そして「私」は、妻との別れや、幼くして亡くした妹の記憶に、本当に向き合えているのか。

こちらが絵を見ているつもりでも、いつしか絵のほうから見つめ返され、封じ込めていた記憶や孤独を引きずり出されている。忘れたつもりだったこと。見ないふりをしてきた傷。言葉にできない感情。それらが騎士団長や穴、顔を思い出せない男という奇妙な姿を借り、現実へ入り込んでくる。怪異から逃げることはできても、自分の内側にあるものからは逃げられない。この物語の最も深い怖さは、そこにあるのではないだろうか。

村上春樹の世界へ、ホラーという入り口から

怖い。奇妙。難解。けれど、続きが気になって仕方がない。物語の奥へ進むうち、自分の内側に沈んでいた喪失や孤独まで、静かに照らし出されていく。

村上春樹作品を何作も読んできた人にとっては、おなじみのモチーフが新しい姿へ変わる面白さがある。一方、過去作を知らなくても、山荘を舞台に日常が異界へと侵食されていくホラーとして十分に楽しめる。村上春樹を初めて読む人にとっても、その奇妙な世界へ足を踏み入れる入り口になるはずだ。

読み終えたあと、絵を見る目は少し変わっているかもしれない。こちらが絵を見ているのか。それとも、絵のほうがこちらを見ているのか――。そんな問いを静かに残す、不気味な村上春樹の世界に、あなたもぜひのみ込まれてみてほしい。

文=アサトーミナミ

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