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3年前、カンヌの頂点に立った“喋らない男”。12年ぶりに“鬼才”に選ばれた「世界基準の名優」とは

  • 2026.7.7
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2023年6月、日本記者クラブでカンヌ国際映画祭で最優秀男優賞を受賞した喜びを語った役所広司(C)SANKEI

役所広司が画面に立つと、その人物が確かにそこに「在る」と分かる。歩く、止まる、人を見る。地味な動作の積み重ねから、その人物が生きてきた時間が静かに漏れ出してくる。役の大きさが目立つ役でも、目立たない役でも、その温度は変わらない。主演として日本映画の中心に立ち続け、世界の主演として頂点に届き、それでいて助演に回ると作品の重心を内側から引き寄せる。役所広司の立ち姿は、ずっとそういう作りをしている。

主演で重心を作れて、助演でも画面の重力になる男。それが、役所広司という俳優のキャリアを貫く一本の芯なのだ。

海外の群像劇が脇に据えた立ち姿

助演の早い証拠は、海外にある。2006年の映画『バベル』。アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督。モロッコ・メキシコ・アメリカ・日本の4か国を舞台にした群像劇で、役所は東京パートのヤスジローを演じた。耳の聞こえない高校生の娘を抱える父親である。4つのパートのうち最も内省的で、最も台詞の少ない物語を、ひとりで背負う配置だ。

群像劇は、各パートが独立した映画として立つかどうかで全体の重みが決まる。東京パートが弱ければ、4か国の構造そのものが崩れる。世界の名匠が、その一辺を支える脇の柱に役所を据えたのだ。

考えてみれば奇妙な起用だ。日本映画で主演を張れる俳優を、わざわざ全体の構造を保つ位置に置く。主演で立てる男を、画面の中心ではなく外側から物語を持たせる仕事に呼ぶ早い動きは、海外の現場から起きていた。役所広司の助演史は、国内よりも先に、国際的な現場の側から動き始めていたのかもしれない。

性質の違う名匠が同じ年に脇を渡す

その立ち姿が、国内の賞という外側の形で並んだのが2017年だ。第41回日本アカデミー賞。役所はこの一回の授賞式で、是枝裕和監督の映画『三度目の殺人』で最優秀助演男優賞、原田眞人監督の映画『関ヶ原』で優秀助演男優賞を、同時に受けている

『三度目の殺人』で演じたのは、福山雅治演じる弁護士の前で証言を二転三転させる被告だ。穏やかな顔をしたまま、主演の弁護士の信念そのものを内側から揺さぶっていく。是枝裕和の物語は、主演の側の確信が崩れていく瞬間に重さが宿る作品で、その崩しの起点を引き受ける位置に役所が置かれた。台詞の意味ではなく、被告の目線の置き方ひとつで主演の足元が揺らぐ。脇でしかできない仕事である。

一方の『関ヶ原』で引き受けたのは、岡田准一演じる石田三成と対峙する徳川家康だ。歴史の重さを背負う主役を、最終的に飲み込んでいく敵役。こちらは内側から揺さぶる助演ではなく、主役と対峙する重量の助演にあたる。

性質のまったく違う2人の監督が、同じ年に、同じ俳優に、それぞれの主演を支配する側の脇を渡している。主演級の俳優が脇に座って、しかも作品の重心を引き寄せてしまう。その立ち姿が、最高位と次位を一度に取らせたのだ。

動かないまま世界の頂点へ届く

主演としての役所が、国境を越えて頂点に届いたのは2023年だった。映画『PERFECT DAYS』。ヴィム・ヴェンダース監督による日独合作で、役所は東京のトイレ清掃員として暮らす平山という男を主演で演じた。本作では主演に加え、エグゼクティブプロデューサーも兼ねている。

平山は、ほとんど喋らない。朝起きて、車で街に出て、決まったトイレを掃除し、銭湯に行き、古本を読み、眠る。物語らしい起伏はない。同じ日々が、少しずつ違う光のなかで繰り返されていく。台詞で芝居を作る人にはまず務まらない主役だ。歩く、止まる、空を見上げる。動作のひとつひとつだけで、この男が長く積み重ねてきた時間を画面に乗せ続けねばならない。

その仕事で、役所は第76回カンヌ国際映画祭 最優秀男優賞を受けた。日本人男優としては柳楽優弥以来19年ぶりの受賞である。作品自体も第96回米アカデミー賞国際長編映画賞にノミネートされ、翌年の第47回日本アカデミー賞では役所が最優秀主演男優賞を獲得している。

評価の数字を並べたいわけではない。動かないこと、繰り返すこと、地味な動作を厚く積み重ねること。日本映画の主演で30年磨いてきたその立ち姿が、ヴェンダースのカメラの前でそのまま世界の評価に届いたという、その一点に意味がある。海外の脇から始まっていた立ち姿が、十数年を経て、今度は主演として世界の頂点へ運ばれたのだ。

主演の年に連ドラの柱を引き受ける

驚くべきは、まったく同じ2023年に、役所はテレビの助演でも同じ重力をやってのけたことだ。TBS系日曜劇場『VIVANT』。堺雅人主演。役所が引き受けたのは、物語の中心に立つ父であり、主人公と対峙する敵対者でもある男だ。シーズン全編を貫く謎の中心に据えられ、毎週の連続ドラマの重心を引き受ける配役だった。主演ではないのに、視聴者がこの男のために観ていると感じてしまう助演である。

世界の主演として頂点を獲った年に、同じ俳優が連ドラの脇で物語の柱を立てている。映画とテレビ、主演と助演、世界と日本。普通なら別の筋肉を使う仕事と見えるものを、役所は同じ一年のなかで両立させた。

ここで本当に問われていたのは、立ち位置のラベルではなかったのだろう。画面の重心を引き受ける、という一点だけだ。それが主演という形で渡されるか、助演という形で渡されるかは、現場ごとの呼び方の違いに過ぎない。世界基準の主役を生きた身体のまま、地続きで連ドラのキーマンにも回れる。媒体や肩書きを超えた一貫性が、この同年並走で外側からも見える形になったのだ。

主演を任せた監督が脇に呼び戻す

2026年8月に公開される映画『時には懺悔を』で、役所はふたたび中島哲也監督の現場に戻ってくる。2014年の映画『渇き。』で中島組の主演を引き受けてから、12年を挟んだ再合流だ。前回は主演として現場の中心に立った俳優を、今回は西島秀俊が演じる主演の隣に立つ助演として、同じ監督が呼び戻している。

同じ作り手が、同じ俳優に、主演と助演の両方を時を隔てて任せる。これは偶然の再起用ではなく、同じ重心を別の形で使いに来た、というキャスティングである。中島哲也のフィルモグラフィは、主役の感情の振れ幅が世界の温度を決める作品が多い。その温度を作る位置に12年前は役所が立ち、今回は西島が立つ。役所はその西島の温度を、隣から支える役どころに回る。

主演で立てる男が、脇に回ってもなお画面の重力であり続ける。2006年に世界の名匠が東京パートに据えた立ち姿が、20年を経てもなお別の現場の重心を引き受けようとしている。役所広司というキャリアは、主演の年表でも、助演の年表でもない。同じ重心が、主演と助演を行き来しながら更新されていく、その往復そのものなのだ。


※記事は執筆時点の情報です

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