1. トップ
  2. 恋愛
  3. 働けない病人と高齢者は"社会のお荷物"なのか…血液のがんと闘った医大生(24)が母親に遺した言葉

働けない病人と高齢者は"社会のお荷物"なのか…血液のがんと闘った医大生(24)が母親に遺した言葉

  • 2025.11.21

「血液のがん」と呼ばれる悪性リンパ腫で、医大生・齊藤樺嵯斗さん(享年24)が9月16日に息を引き取った。闘病中の齊藤さんはXなどで発信を続け、日本の医療制度の大切さを訴えていた。医療費や社会保険料が問題視され、“コスパ”や“生産性”の物差しで議論されがちな今、彼は何を思い、どんな言葉を遺したのか。ライターの黒島暁生さんが両親に聞いた――。(後編/全2回)

小学生から医師になる夢を抱いていた

本稿の前編(「全額自己負担していたら『月3000万円』かかる…医大生の息子(24)を看取った両親が語る“病気とお金”の現実」)では、2025年9月16日に悪性リンパ腫によってこの世を去った医学生・齊藤樺嵯斗さんとともに闘病を経験した患者家族のリアルな生活について語ってもらった。

両親が「樺嵯斗も、病気を克服したのちに医師として働けるのか、心配していた」と語るように、ひとたび重篤な病気に侵されれば、社会を牽引する側ではいられなくなることが多い。コスパや生産性が重視されがちな社会の風潮について、患者家族としての思いを話してもらった。

樺嵯斗さんは血液内科医になる夢を抱いて学ぶ青年だった。医師を志した源泉には、一貫した「救いたい」がみてとれる。母親は、樺嵯斗さんがほつれたジンベエザメのぬいぐるみを取り出して、「治してあげる」と言った日のことを覚えていた。

「小学校低学年のことだったと思います。家にあった裁縫セットを持ってきて、ぬいぐるみを切り始めました。ワタが少なくペタンコの状態だったので、もとの状態に戻そうとしたんです。ジンベエザメのお腹に入れた切れ目にワタを詰めると、縫い付けていました。そのころから、『治したい』が彼の中にあるように感じます。また、主人は介護士なのですが、職場体験をしたときには『お父さんみたいに人を助ける仕事がいい』ということを口にしていました」

“常に誰かのために”動く息子だった

治す対象、助ける対象は人間だけではない。動物好きだった樺嵯斗さんは、獣医師に憧れたこともあったという。高校1年生のときには、父親と一緒に県外の獣医学部を有する大学まで出かけている。

樺嵯斗さん 高校1年生
樺嵯斗さん 高校1年生

常に誰かのために――母親が話すエピソードから、柔和な人柄がわかる。

「ありがたいことに、友人がたくさんいました。幼い頃も、ご近所の方から『うちの子が樺嵯斗くんと仲良くなりたいと言ってて、一緒の習い事しない?』と誘われたり、本当に周囲の人には恵まれているなといつも感じていました」

誰にでも優しく、慕われやすい。一方で、家庭内では、兄として自律的な面を家族に見せることも多かった。

「末の娘と樺嵯斗は年齢が離れているのですが、彼女に対しても甘やかさず、お父さんや指導者みたいに接していました。ある意味で、父親よりも父親らしかったかもしれません。いつも妹を気にかけていて、自分ががんになったときも、『妹がなっていたら耐えられなかった。自分で良かった』と話していました。面倒見がよく可愛がるため、娘にとっては永遠に“自慢の兄”なんです」(母親)

樺嵯斗さんの母親
樺嵯斗さんの母親
“病人や高齢者を切り捨てよ”という論調が支持を集める

医師は人を救うが、ある意味では社会制度もまた人を救う。樺嵯斗さんが社会制度に救われたことは前編でも触れた。“持ちつ持たれつ”の関係を社会全体で構築し、体現したのが高額療養費制度だろう。だがこうした医療制度が非難の的になる場面もある。

2024年度、病気やけがなどで医療機関に支払われた日本の医療費(概算)は過去最高の48兆円に到達した(厚生労働省「令和6年度 医療費の動向」)。

よく用いられる比較として、日本の名目GDP(国内総生産)と医療費の増加率がある。厚労省がまとめている「国民医療費の概況」の最新発表分に基づくと、1975年から2023年までのGDPは3.9倍にとどまるのに対して、医療費は7.42倍と圧倒的な増加を見せる。医療費がここまで膨れ上がったことの要因には高齢化があるとされ、65歳以上の高齢者の医療費が全体の6割を占めている。

医療費の膨張が報じられると、一部SNSを中心に、高額療養費制度の廃止や高齢者の自己負担割合の見直し、さらには「延命治療は自腹にせよ」といった、病人などの社会的弱者を“切り捨てるのもやむなし”という論調が一定の支持を集める。

樺嵯斗さんはやり玉にあげられがちな高齢者ではないものの、こうした議論についてどのように感じるのか、率直に意見を聞いた。「前提として、私は専門家ではないのですが」としたうえで、父親が口を開く。

樺嵯斗さんの父親
樺嵯斗さんの父親
樺嵯斗さん「病気になるかならないかは、運だ」

「私は介護の現場で働いています。樺嵯斗のような若者が亡くなる場合と、高齢者が亡くなる場合では、どうしても世間が受け止める不条理感が異なることは知っています。ただ私は、年齢が何歳であれ、あるいはどんな職業や生き方であれ、生命は1つしかないものであって、平等なものだと思っています。したがって、誰もが安心して適切な医療を受けられる制度を堅持していくことは、大切なことだと考えています」

一方で、弱者切り捨ての議論に与する人々について、こんな見解を示す。

「おそらく、日本の財政状況が取り沙汰されるなかで、若者世代を中心に高齢者に対する不満が醸成され、対立していってしまうのだと思います。しかし、もしも自分の大好きな祖父母が切り捨てられる側の人間になってしまうとしたら、やはり悲しいのではないでしょうか。健康で生きられれば、いずれ誰もが高齢者になりますから、特定の集団を敵視するのではなくて、もっとゆったりと温かい目で社会を見られたらいいのかなと思います」(父親)

また母親は、樺嵯斗さんが病室で語った一言が忘れられないという。

「樺嵯斗が言っていたのは、『病気になるかならないかは、運だ』ということでした。誰かが悪いわけではなく、一定の割合で病気の札を引いてしまう。つまり誰もが深刻な病気にかかる可能性があると思うんです。誰しもが病気になりたいと思って生きていません。また病気を発症すれば、さまざまなことに悩み苦しむでしょう。そうした状況にある人を少しでも救おうとできる社会がこれからも続いていけばいいなと、患者家族を経験した人間の立場から思います」

樺嵯斗さん 病室
樺嵯斗さん 病室
寛解後は、誰よりも生死に過敏だった

齊藤さん家族にとって、闘病の記憶は克明だ。

樺嵯斗さんが身体に異変を感じ始めたのは、2023年5月。医学部5年生のときだった。「このシコリ、川崎病? 悪性リンパ腫だったら最悪だな」。同じく医学生の弟とともにそんな会話をしているのを、母親は聞いていた。

病院で精密検査を受けると、診断は「Tリンパ芽球性リンパ腫/急性リンパ性白血病発症」。想定しうるかぎりの「最悪」を引き当ててしまった。だが樺嵯斗さんはめげずに治療と向き合い、同年9月にハプロ移植を受ける。移植後の合併症が懸念されたが、幸い順調に寛解に至った。とはいえ、心配は尽きない。

「2023年12月に寛解と言われたのですが、毎日が嬉しかったですね。樺嵯斗もまた嬉しそうにしていました。ただ、きっと樺嵯斗自身は、私たちよりも再発を恐れていたのではないかと思います」(父親)

このころの樺嵯斗さんが誰よりも生死に過敏だったことを、母親はふとした瞬間に知る。

「病気とは無関係な文脈で、話題がお墓に至ったときです。長男なので、『将来は樺嵯斗に墓守をしてもらわなきゃ』という趣旨のことを口走ると、彼が『俺より寿命が長い母さんにそう言われても……』と言ったんです。自分が長く生きられるのか、不安でいっぱいだったのだと思います」

両親「神社にお祈りにいく、くらいしかできない」

大学への復学も叶い、月日は流れた。病気を徐々に記憶の彼方に押し流そうとしていた2024年6月、悪い知らせが届いた。その日は家族全員でゲームに興じていた。

「家族でリビングでゲームをしていると、突然、樺嵯斗のスマホが鳴って……液晶に映し出された病院の電話番号を見て彼が『うわ』と嫌そうな声を出しました。スマホで話す顔がどんどん白くなっていくのをみました」

リビング
リビング

それは家族が恐れていた、再発を告げる電話だった。精密検査の結果は、樺嵯斗さんだけ一足先に病院で聞いていたという。駆けつけた両親に対して、なんでもないかのように「俺はもう聞いてきたから、2人とも聞いてきな」と気丈に促した。

「あとでSNSに綴られた文章を読んだら、診察室で再発を告げられたあと、病院のトイレで思いきり泣いて、区切りをつけてから私たちに会ったようでした。きっと、弱気な自分をみせて心配をかけたくなかったのだと思います」

2024年8月に再移植。移植の合併症はすぐに現れず、数日は平静だったものの、9月第一週には医師から「今夜が山場です」と言われるまで状態は落ち込んだ。肝機能や腎機能の異常値が続き、息も絶え絶えトイレに行く様子を両親ともに目撃している。家族といえど面会可能な時間はごくわずか。「可能な限りLINEのテレビ電話をつなげて、直接会えないときは神社にお祈りに行くくらいしか私たちにはできませんでした」と両親は口を揃える。

「こんなんじゃ死んじゃうわ、でも……生きたい」

このころ、最初の病気発覚時にはやらなかったSNSを、母親の言葉を借りれば「取り憑かれたように」樺嵯斗さんはやり始めた。目的は、「同じく苦しい思いをしている人たちを勇気づけること」。2025年1月に寛解状態にあると言われ、喜んだのもつかの間、検査をするたびに代わる代わるさまざまな数値が異常を示し、「これが治ったら退院だね」と先延ばしが続いた。

肌の発疹が治らず、血尿も止まらない。血の塊が尿から排出され、お腹からドレーンを挿入しておこなう膀胱洗浄の激痛にも耐えた。ステロイド糖尿病にもなり、ふらつきがおさまらず、長期間の入院生活で別人のように筋力は落ちた。ふらつきの原因は脳のCTを撮ってもついぞわからなかった。

病気と闘い、どんなに辛い状況にあっても、樺嵯斗さんは一度たりとも両親にあたったり、声を荒らげることはなかった。SNSで毎日届く、同じような病に苦しむ若者のコメントに対してエールを返し続けた。死後、母親が樺嵯斗さんのスマホのやり取りから見つけたのは、同じく不安を抱える人に「大丈夫ですよ」と励ました痕跡だった。

樺嵯斗さんが不安を感じなかったわけではない。闘病生活中、ほとんど弱音を吐かなかった彼のつぶやきを、父親は耳にしていた。「こんなんじゃ死んじゃうわ、でも……生きたい」。オンラインで多くの人から頼られ、等身大の自分を発信し続けてきた彼の、紛うことなき本音に、父親は思った。

樺嵯斗さんのSNSに、誹謗中傷する声は届かなかった

「樺嵯斗自身も精神的に非常に落ち込んでいるのがわかりました。私たち家族がいる間は、彼が少しだけ元気になると医師から聞いたんです。2024年7月中旬から、私は仕事を休職して彼のそばにいたいと考えました。ほぼ24時間、家族の誰かしらが病室に泊まれるようにしていただきました。SNSで発信していたとおり、最期のほうは自力でスマホをいじることもできず、私が代筆していました。衰弱していく樺嵯斗を見るのはもちろん辛かったですが、『とにかく近くにいたい』という思いでした」

樺嵯斗さん 病室
樺嵯斗さん 病室

2025年9月16日に永眠した樺嵯斗さんのSNSには、多くの悼む声が寄せられた。両親が心底から「人に恵まれた」と話すのには理由がある。現実世界ではもちろん、SNSにおいても、樺嵯斗さんを誹謗中傷する声は届かなかったのだ。

「医療従事者の方、同じような病気に苦しむ方、ご家族を亡くされた方、とだいたい3つの背景を持った方からメッセージをいただくのですが、いずれも優しい言葉にあふれていて、親として感謝する思いです。正直、いろいろな声があるのではないかと恐れていた部分もありましたが、今はSNSでさまざまな方とつながることができて、樺嵯斗にとっても私たちにとってもよかったと考えています」

「齊藤樺嵯斗 血液内科医を目指すがんサバイバー」のアカウントは、現在、樺嵯斗さんの父親が管理を行っている。

表舞台に出たがらない母親を、最後まで気遣った

樺嵯斗さんが残したものは多い。

「樺嵯斗の投稿にコメントしてくださった方で、心に残ったものがあります。『よいSNSの使い方ですね』という一言です。どうしても負の感情を吐露してしまいがちなSNSで、樺嵯斗が死の直前まで建設的な投稿を続け、人々を励ましながら自分も勇気をもらったこと、その生き方を私は誇りに思います」(母親)

樺嵯斗さんのSNSに母親がほとんど出てこないのは、「樺嵯斗の気遣いなんです」(父親)。

樺嵯斗さんの父親
樺嵯斗さんの父親

表舞台にあまり出たがらない母親の性格を知って、注目を集める自分とあえて遠くに置いた。病室に通う父親はもちろん、ほかのきょうだいたちの生活を母親はひたすら支え続けた。学校で風邪が蔓延する季節、感染を気にして母親が病室を訪れない日々が続くと、樺嵯斗さんは「来ないんだ」と拗ねたという。SNSでは見せない彼の、あどけなさに触れた気がした。

社会保障制度の根本には“優しさ”がある

樺嵯斗さんがわずか24年の生涯で示した、「救いたい」という他者への慈愛。一方で、「病気は運だ」という冷徹な現実もまた、可視化された。誰しもたちまち社会的弱者に転じる可能性がある。

社会においてコスパや生産性が重視され、病人や老いたる者を“お荷物”として切り捨てようとする動きがあるとすれば、これまでその人が生きてきた道程を無視し、コストという数字でしか捉えない、一種の思考停止ではないか。

樺嵯斗さんはその生き様で私たちに“優しさ”の本質を提示した。社会保障制度は体温を持たない無機質なものに思われがちだが、制度が根本に持つ“優しさ”によって、彼は死までを自分らしく生きられた。そのことがどれほど樺嵯斗さん本人や家族を救ったかしれない。表面的なコストの多寡だけに着目して無駄だと唾棄してしまえば、それらしい自己責任論や排外主義が容易に頭をもたげる。ひとりの青年の人生は、私たちに建設的な社会構築のあり方を問いかける。

父親は“樺嵯斗”と命名した意図についてこう語る。「爽やかな風を想起させる“カザト”の音を最初に思いつき、華やかさのなかにも根を張ってほしいという願いを込めて“樺”をつけました。自然豊かといわれる嵯峨野の“嵯”、男らしさを感じさせる“斗”を入れました」。

名は体を表す。その言葉どおり、樺嵯斗さんは生命のありったけを生き抜いてみせた。

樺嵯斗さん
樺嵯斗さん

黒島 暁生(くろしま・あき)
ライター、エッセイスト
可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。

元記事で読む
の記事をもっとみる