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シャネルのアーティスティック ディレクターになるということ──マチュー・ブレイジーが示す、メゾンの行き先

  • 2025.10.17

Portraits by Annie Leibovitz. Fashion Photographs by Rafael Pavarotti.

ファッションは変化なくしては成り立たない。だが、中にはシーズンを超えて、いつまでも周りに影響を及ぼす変化がある。

昨年、シャネルCHANEL)のアーティスティック ディレクターが不在であることが発表されたとき、業界全体に緊張が走り、誰もがメゾンに注目した。約40年間、シャネルはカール・ラガーフェルドというひとりの男のビジョンを表現してきた。2019年にラガーフェルドが死去した後は、長年彼の右腕だったヴィルジニー・ヴィアールが後を引き継いだが、彼女も昨年メゾンを去った。これにより、ファッション界で指折りの栄位あるポジションのひとつが空くことになったが、同時にシャネルの方向性が思いもよらぬ方へ変わる可能性も示していた。

比較的若く、ボッテガ・ヴェネタBOTTEGA VENETA)では意外性に満ちたレザーの用い方で名をあげたデザイナーのマチュー・ブレイジーは、有力の後任候補ではなかった。そんな彼を、昨年12月にシャネルはアーティスティック ディレクターに任命することを発表。デザイナーとしての能力がほぼ未知数だったブレイジーは、いかにして偉大な前任者たちの影から抜け出すのかだけではなく、メゾンの行く末を示さなければならず、すべては10月のデビューショーに懸かっていた。

そのデビューショーの日、セーヌ川のほとりにあるボザール様式の名建築、グラン・パレの吹き抜けのバックステージの空気は震えていた。人々は準備に追われ、薄いグレーのフェルトで覆われた床には、モデルたちがランウェイを歩く順番を示すテープが貼られている。ローブに身を包み、ヘアクリップをつけたモデルたちが辺りを慌ただしくうろつく。午後8時のショータイムの40分前、ブレイジーが緊張した面持ちで現れた。「正直なところ、ちょっと落ち着かないんです。タバコでも吸ってきます」と言って、また急いで出て行った。

ブレイジーはボッテガ・ヴェネタで20年近く縁の下の力持ちとしてキャリアを積み、メゾンの秘密兵器のような存在だった。だが、その実力は次第に知れ渡った。新卒で入社したラフ シモンズRAF SIMONS)ではパターンメイキングに複雑さを取り入れ、メゾン マルジェラMAISON MARGIELA)ではブランドの象徴のひとつとなった、クリスタルを散りばめたマスクをデザイン。そしてボッテガ・ヴェネタでは、クラフトに対する深い理解と、一見矛盾するアイデアを驚くほど人間味あふれる形にまとめ上げる能力で、特徴的なデザインの数々を手がけた。

「強さと柔らかさ、しっかりとした構造としなやかさが融合しています」と、シャネルのアンバサダーとしてショーに出席したアイオウ・エディバリーは言う。「それでいて、彼はあらゆるタイプの女性を捉えています。私自身、とてもゴージャスなドレスを着ているときは自分らしくいられる気がしますが、着る人によってはセクシーにもなり、慎み深くもなります」。長年、シャネルと親交のあるニコール・キッドマンはこう語る。「マチューに会った瞬間から、彼が何事にも一途に取り組む姿に心を打たれました」

グラン・パレの中、レッドカーペットに到着するゲストたち、会場を囲むゲートの前の歩道に群がる人たち。バックステージの片側に設置された4つのスクリーンには、外の様子が映し出されている。ゲストたちの映像はふたつの画角から捉えられ、ゲート前の映像はドローンによるものだ。誰もがブレイジーを探している。モデルたちは順番通りに整列し、音響と映像を担当するスタッフはインカムにつぶやく。

ようやく姿を現したブレイジーはきびきびと動き回り、同僚たちに大きく笑いかけると、再び殻に閉じこもり、緊張し始めた。これといって心配事があるわけではないが、すべてが心配だと彼は言う。「母曰く、初日に子どもを学校に送り出したときに感じるストレスみたいだと。心配することは何もないのに、それでも漠然とした不安を感じるんです」と言い、自分で自分を抱き締め、並んでいるモデルたちの人数確認の様子を眺めた。彼はスクリーンからモデルたちに目をやる。そして慎重に、満足感を漂わせながらこう付け加えた。「大きな一歩を踏み出している感じです」

ショーの何週間か前。7月のある暖かい水曜日の晩、私はパリ最古の教会サンジェルマン・デ・プレ教会の階段でブレイジーに会った。「デ・プレ」、「草原にある」。その名の通り、この教会はかつて草原に囲まれていた。昔は郊外だった場所に建てられた建造物が長い年月を経て、風景の一部と化していくのではなく、辺り一帯を特徴づける最大の魅力となる。今日のサンジェルマン・デ・プレ教会はそんな中心的な存在となり、不変性の証となった。

ブレイジーにとってここは故郷でもある。「ここからそう遠くないところに住んでいます」と言い、しゃがみ姿勢から立ち上がり、私を出迎えた。「父が近くにギャラリーを構えていたので、子どものころはいつもこの辺りにいました」。平均的な身長のブレイジーはこの日、シグネチャーであるロゴなしの白いTシャツを着ていた。ナチュラルカラーのセーターを肩にかけ、リラックスしたフィット感の色あせたブルージーンズを身に着け、自身がデザインした絶妙なシワ加工の黒いラムスキンローファーを履いている。

数年前にボッテガ・ヴェネタで出会ったころの彼は、洗練された美しさに若々しさを吹き込み、それを日常を賛美するデザインに変えることで知られていた。ボッテガ・ヴェネタのクリエイティブ・ディレクターに就任してまだ間もないころに参加したある宴会で、当時37歳だったブレイジーがイタリアの有力者たちを前に、照れくさそうに挨拶をしたことを覚えている。立って挨拶をする彼は親しみやすく、“クリエイティブ・ディレクター”という役職がまだ板についていないように感じた。

はぜる色彩を纏って<br /> 全身シャネルのピースを纏った、モデルのアベニー・ニアルとアワー・オディアン。
全身シャネルのピースを纏った、モデルのアベニー・ニアルとアワー・オディアン。

あれからわずか3年しか経っていないが、41歳になり、シャネルのアーティスティック ディレクターという栄誉あるタイトルを授与されたブレイジーは、荒波に揉まれた人が持つ、より毅然とした雰囲気を漂わせている。明るいブラウンの髪は刈り上げられ、白髪混じりだ。顔からはあどけなさが一層抜け、あごのラインは引き締まり、それが自信に満ちた印象を与え、目からはある種の気忙しさを感じる。しかし、かつて「ずっと学びに貪欲な、学生らしい初々しさを残したデザイナー」と評されたブレイジーには、今も相変わらず思いやりと謙虚さがあり、あらゆることに積極的に関わっていこうとする姿勢も変わっていない。

「クリエイティブには、常に周りを引っ張っていないと気が済まないタイプと、一歩下がって、周囲の声に耳を傾け、自分の頭を使い、コネクションを駆使し、自分の意図や何を創造しようとしているのかを伝えようとしてくれるタイプがいます」と、アーティストのシアスター・ゲイツは言う。ブレイジーがボッテガ・ヴェネタに在籍していたころに、彼はブレイジーとコラボレーションで、森美術館での個展のためにレザーに覆われた陶芸作品を制作した。プレッシャーが多い業界において、ブレイジーは自由な芸術的表現を、意外にも売れるものに転換させることで高く評価されている。そんな成功を収めながら、シモンズが言うように「今まで会った人の中で、一番感じの良い人のひとり」であり続けている。

ブレイジーは私をアベイ通りにある、この辺りでは一見、最も魅力に欠くビストロに案内してくれた。オフィスから解放され、一杯飲みに出かける人たちで賑わうこの時間帯の6区で、内も外も緑色の箱のようなトレリスで覆われ、窓辺には人工芝のように見えるものが敷かれた店は、どう見ても寂れている。「観光客にはあまり人気のないタイプのカフェです」とブレイジーは陽気に言い、空いているテーブルを顎で示した。「フランス人にもあまり人気がないですね」

だが、彼にとってこのビストロは理想的な店だ。細かいことには無頓着な人なら見向きもしないような、独特のディテールに富んでいる。

「『La Santé par L’Alimentation』の看板がすごく好きなんです」と、ドアの上に掲げられているイタリックの文字をブレイジーは指した。「食を通じた健康づくり」──時代を感じさせる言葉だ。籐の椅子と、窓辺に敷かれた例の人工芝も彼は好きだという。一見突飛に見えるものでも、ブレイジーの目にはその本質的な部分が映し出されることが多い。例えばこのビストロは、隅にいるアコーディオン奏者の演奏を聴きながら、キャンドルの灯るテーブルでブッフ・ブルギニョンを食べられるような近くの観光客向けのレストランよりも、よっぽど地に足がついてる。ブレイジーはラベンダーが生けられた小さな花瓶が置かれている外の小さなテーブルに座り、フランス人が“ロゼ・ピシン”と呼ぶ、氷の入ったロゼワインを注文する。

特定の時代と場所に結びつけられ、日常生活に欠かせないものに形作られたディテールに焦点を当てること。それこそが、ブレイジーの考える誠実で手加減のしない物づくりだ。彼はしばしば、服をまだ1着もデザインしていないのに、コレクションは出来上がっていると言う。どういうことかというと、彼はリサーチのチーフであるマリー=ヴァランティーヌ・ジルバルと、ムードボード用の画像や色見本、素材見本を根気強くいくつも集め、ルックごとに仕分け、バインダーに丁寧にまとめる。そしてバインダーを側近のデザイナーたちに渡し、自由にモックアップを作ってもらう。その後、ブレイジーとデザイナーたちは何週間もかけてデザイン案を練る。却下されるものもあれば、改良を加えられるものもあるが、これが大体の1日の流れだ。バインダーに収められているのはデザイナーにとってのインスピレーションであり、ブレイジーの次なるビジョンでもある。

自身がシャネルで掲げるビジョンについて初めて聞かれたとき、ブレイジーは真っ先に頭に浮かんだことを口走っていた。「『シャネルはモダンです』と言ったんです」。愚かに聞こえたかもしれない、と心配になったという。

しかし、それは解釈の問題だ。ラガーフェルドが打ち出したシャネルは、グラス一杯の煌めくシャンパンをそのままファッションに変換したような、華やかでどこまでもシックなものだった。それに対し、ブレイジーはコンセプチュアルなデザイナーで、特徴的な幾何学とアースカラーを好む。ボッテガ・ヴェネタで手がけたコレクションはリッチなブラウン、味わいのあるパープル、鮮やかで独特なグリーンのトーンを中心としていた。

群れを作って移動するオオカバマダラ(別名“王者の蝶”)のように、何人もの取り巻きを従えて飛び回っていたラガーフェルドは何をやるにも過剰で、パリの邸宅の近くに食事をするためだけの別邸を構え、その隅々を本や豪華な戦利品で満たしていた(アンドレ・レオン・タリーはかつて、ラガーフェルドは『ヴェルサイユに対するコンプレックス』を抱いており、ゆえに自宅を豪勢に設えていると述べた)。その一方で、ブレイジーは明らかに控えめに生きている。彼はひとりで、それもしばしば徒歩で移動し、シャンパンよりもビールを好む。ファッション界で最も名誉なポジションに就くためにパリに拠点を移した彼は、とっておきの家具をオフィスに送り、これまた学生よろしく、双子の妹と同居できるアパートを手配した。

「彼自身の人となりも良いですし、それが服に表れています。そういった点で、シャネルにとって彼は素晴らしい人材です」と、2年前にラガーフェルドの壮大な回顧展を企画したメトロポリタン美術館コスチューム・インスティテュートの主任キュレーターであるアンドリュー・ボルトンは言う。「彼のデザインに対するアプローチは非常に風通しが良く、平等です。それは、シャネルにとってとても有益に働きます。昔からカールの作品には、ラグジュアリーを通して叶えられる崇高さがあると感じていました。マチューが生み出すものは同じく崇高ですが、少し落ち着いています。日常における美しさに、しっかりと目を向けているのです」

進化の結晶<br /> ブレイジーのデビューコレクションを方向づけたルックのひとつを纏うアディッツァ・ベルゼニア。
ブレイジーのデビューコレクションを方向づけたルックのひとつを纏うアディッツァ・ベルゼニア。

小雨が降り始めた。ブレイジーは訝しげに空を見上げ、移動したいかと尋ねてくる。だが、細かく降ってくる雨をふたりとも心地良いと感じ、そのまま居座ることにした。彼はマールボロ・ゴールドに火をつけ、ピシンをもう1杯頼んだ。天気のことは気にしない。

シャネルから熱烈なラブコールを受け始めた最初の数週間は、何が起こっているのかわからなかったと彼は言う。ある日、ボッテガ・ヴェネタでミーティングを終えたブレイジーは、リクルーターから電話を受けた。「今電話をかけてくるということは、本当に何か大事な用があるのだと、すぐにピンときました」。彼はリクルーターに矢継ぎ早に質問した。あのブランドのポジションか? それとも別の求人か?「“椅子取りゲーム”が繰り広げられていることは皆知っていました」と彼は説明する。「そしてある時点で、ヤバイぞ、これはもしかするとシャネルの話かもしれない、と思ったんですが、あえて訊こうとは思いませんでした」

ヴェネチアへ向かう列車の中で受けた電話で、自分が候補にあげられているポジションを知った。そして感情が昂ったままの彼をよそに、ミーティングの予定が立てられていった。

「7月のことでした。パリに出向いた日はとても暑かったです。完全に着込みすぎていましたが、スタイリングが台無しになるので、セーターは脱ぎたくなかったんです」。おしゃれのためにうだるような暑さを我慢することにしたブレイジーは、シャネルの幹部と4時間に及ぶミーティングに参加した。「とても温かくて、結束力があって、物腰柔らかそうで、かなり驚きました」と、幹部たちから受けた印象を語る。「ミーティングを終えたとき、思ったんです」。ここで彼は参ったと言わんばかりにため息を吐いた。「この人たちとなら、とてもうまくやっていけそうだと」

彼はロンドンに飛び、ブランドのCEOであるリーナ・ナイールと会った。そしてノルマンディーにも行き、アラン・ヴェルテメール会長を訪ねた。「シャネルについてはほとんど話しませんでした」とブレイジーは振り返る。「『私の前にいるということは、優秀なデザイナーであるはずだ。だから、仕事の話をするのはやめよう』って言われたんです」。ふたりは代わりに子ども時代のこと、家族のこと、芸術への共通の興味について語り合った。面接が残り5分の時点で、ヴェルテメールは話をファッションに戻し、そこでブレイジーは「シャネルはモダン」というあの発言をしたのだ。

「『今のシャネルはモダンだと思うか?』と聞かれたんです。『ブランドを支える柱はまだモダンだと思いますが、もっと突き詰められると思います』と答えました」。その答えを聞いて、ヴェルテメールは笑みを浮かべた。帰りの車の中で、ブレイジーはひとときの満足感を味わった。運転手は窓を開けたまま、フランス語のラップを爆音で流している。「もしかすると、うまくいくかもしれない。あのときそう思ったんです」

シャネルのファッション部門兼SASプレジデントのブルーノ・パブロフスキーは、自身もほか幹部たちも、探し求めているデザイナーに対して非常に明確なイメージを持っていたと話す。「デザイナーによっては、あるブランドから別のブランドへ移っても、自分のビジョンばかりを大切にしたがるのです」と彼は言う。「私たちシャネルは、カメレオンのようなデザイナーが好きなのだということがわかってきました」。カメレオンのようなデザイナー。それはつまるところ、想像力と豊かな才能を発揮して、独自の方法でメゾンに新たな息吹をもたらすようなデザイナーだ。「私たちは、マチューというひとりの人間が好きです。彼にはビジョンがありますが、そのビジョンのすべてをブランドに注ぎ込むのです」

雨が激しくなってきた。今いる緑色をしたビストロから、2、3ブロック先にあるお気に入りのレストランまで歩こうとブレイジーは提案する。カルディナーレ通りとスイス通りを急いでいると、彼は自分の任命が発表されたときのことを振り返る。自分がシャネルで新たに就任するポジションのことは、それまで秘密にしていた。それが世界的なニュースになったのだ。

「パニックになりました。怖かったんです。ミラノにある魚料理のレストランにいて、ウェイターがインスタグラムを見せに僕のところに来たんです。『フィードに流れていますよ!』って。僕がファッション関係の仕事をしていることすら知らない人でした」。どこへ行っても、おそらく知られている。突然のパニックに陥った彼は、周囲の目から逃げたい衝動に駆られ、バッグに荷物を詰めて街を飛び出し、10日間南イタリアに身を隠した。

目指していたレストランにたどり着くと、白いストライプのシャツにグレーのネクタイを締めたウェイターがブレイジーを出迎える。一見したところではサンジェルマン・デ・プレ地区にありそうな、観光客に高い料金を吹っかけるブラッスリーに見えるが、実はパリで現存する最も古いレストランのひとつであることがわかった。オリジナルのアール・ヌーヴォー様式の木造部分があり、最近たまたま見つけた店だとブレイジーは言う。彼はレアのシャトーブリアンステーキにベアルネーズソースとフレンチビーンズを添えたひと皿と、ビールを1パイントと頼む。注文した品が運ばれてくると、彼は料理を見て、私を見て、そしてまた料理を見て、感嘆のジェスチャーをする。

ブレイジーは、この夏に制作したものに満足していると言う。スタジオで良いアイデアが出始めているそうだ。「『ショーを楽しみにしている』とみんなに言われるんです。でも、僕自身もとても楽しみにしています。何に対してワクワクしているのかは、まだよくわからないですが。でも、全体的なアイデアはすでに固まっています」と、自信なさげに肩をすくめた。「あとはそのアイデアを実現させて、人々を魅了するのみです」

未来を見渡す創造者<br /> シャネルのパリ本社の窓に腰掛けるブレイジー。デビューコレクションには満足しているものの、まだ未完成で、制作途中であると断言する。
シャネルのパリ本社の窓に腰掛けるブレイジー。デビューコレクションには満足しているものの、まだ未完成で、制作途中であると断言する。

まずコートから着手するとしよう。洗練された男性らしさを象徴する日常着であるメンズのスポーツジャケット、それもイギリス風のツイード製のものを手に取るとしよう。それを女性に着せる。裾をハサミで切り、腰のあたりでカットし、ラペルを閉じる。ボタンを1、2個付ける。「そうすると不意に、メンズのジャケットからシャネルのジャケットの原型が出来上がるのです」とブレイジーは説明する。なぜそう断定できるのかというと、初日にシャネルのスタジオで制作チームと一緒に、まさにこの作業を行ったからだ。100年以上にわたりメゾンが積み上げてきたものを一旦ゼロに戻し、新鮮な気持ちでインパクトのある新しいものを作ろうという試みだった。

「カールの目から見たシャネルというのは、シャネルの一面でしかなく、彼が見出した特定のイメージです」とブレイジーは説明する。「ガブリエル・シャネルの初期のころまでさかのぼると、まだ語られていない、メゾンのコードの誕生物語がたくさんあります」。パリのアトリエでラガーフェルドが使っていたフィッティングルームを見せられたブレイジーは、その部屋を自分の仕事場にすることは、とてもできないと悟った。「あそこにはレガシーがありすぎて、多大なプレッシャーを感じます」と言う彼は建物の反対側にある、シンプルで、モダンで、陽光に満ちたまっさらな空間にスタジオを設けた。

ラガーフェルドとヴィアールが歩んできた道をそのまま突き進むのではなく、ブレイジーはガブリエル・“ココ”・シャネルが辿った道に立ち戻り、そこから別の創造性を追求し、メゾンを新たな方向へ導いていくことにした。メンズジャケットを用いたデザインの実習は、その変化の訪れを告げている。それと同時に、何もないところからシャネルというメゾンの小さなタネが生まれたという、ブレイジーの理論をほのめかす。

アーティスティック ディレクターとしての新たな仕事を始めるにあたり、ブレイジーはメゾンのアーカイブで時間を過ごしながら、独自にリサーチを行い、シャネルに関する情報を収集。自身の直感に従い、老舗シャツメーカーのシャルべ(CHARVET)を経営するジャン=クロードとアンヌ=マリー・コルバン兄妹に話を聞いた。「僕が知らないことをいろいろ知っていました。例えば、ココはシャルべの店で恋人のためのギフトを買っていた、ということとか」

その恋人とは、イギリス人ポロ選手のアーサー・“ボーイ”・カペルだった。1909年から彼が亡くなる1919年まで、10年もの間、ココが夢中に愛した人だ。そのころの彼女のスタイルと謎に包まれたオーラはどこからともなく生まれ、キャリアも何もない状態から一気に築き上げられていった。ココがシャルベでシャツを注文し、そのフィットしたショルダーや前立てに目を光らせる姿をブレイジーは想像した。そして彼はまた、イギリスの上流階級に属するスポーツマンだったカペルが、ツイードをよく身に着けていたことを知っている。

1910年代初め、ココは男装して仮装パーティーに出席した。ほかの招待客と違い、彼女は翌朝も同じ服を着て、パーティーという非日常的な空間で纏う服をそのまま日常に持ち込んだ。ブレイジーは、そこにはもっと個人的な理由があったと考える。「僕の友人はみんな、ボーイフレンドの服を着ます。僕も恋をしているときは、ボーイフレンドを身近に感じたいので、彼の服を着ます」。シャネルが男性ものの服を借りていたということについてはこれまで語られてきたが、ブレイジーはそれをある種の自由を求めての行動だったと理解している。

「彼女は男性が何でも買い与えてくれるような女性には見られたくなかったんです。馬に乗るのが好きで、いつもあちこち動き回っていました」とブレイジーは言う。そしてシャネルが手がけた服は、合理的な理由から誕生した。メゾンを象徴するベージュカラーは、ジャージ生地のサプライヤーであるロディエ(RODIER)が、ほかの洋服店が嫌うベージュ色の生地の在庫を過剰に抱えており、値引きしていたから生まれた。ハンドバッグの裏地をワインレッドにしたのは、ジュエリーが一番映える色調だったからだ。

ブレイジーにとってココ・シャネルは、どこからともなく現れた革新者というよりは、非常に個人的なニーズに応えるために、スリルに富んだ服を作った女性である。制約、自由、夢中になっているもの。そして何よりボーイ・カペルという存在。日々に彩りをもたらすものに応える服を彼女は作っていった。「私たちが知っているシャネルは、ココがボーイ・カペルという男性に恋をしていなかったら存在しえなかったということが、早い段階でわかります」

日常に根ざしたコンセプチュアリズムを強みとするブレイジーは、シャネルというこれほどまでに優雅なメゾンには相応しくないと切り捨てる人はいる。シャネルが「愛の物語」であるという考え方は、そんな人たちに対するブレイジーの反論だ。確かに、彼はラガーフェルドが創造した贅を尽くしたデザインをなぞらず、さまざまなアイデアで実験している。だが、アイデアも情熱とセンシュアリティを湛えることはでき、着る人の体が覚えていることさえも表現できる。着る人の欲望が染み込んだツイードは、もはや単なるツイードではない。

ココはまた、ハンス・ギュンター・フォン・ディンクラーゲ男爵と恋仲になっていたことでも有名だが、彼は諜報機関のアプヴェーアとつながっていた。そういう意味でも、ボーイ・カペルとの関係に焦点を当てる方が、彼女の物語をより明るい角度から語り直すことになるかもしれない。アンドリュー・ボルトンはまた、こう語る。「マチューが手がけるピースには、シャネルも持ち合わせていた親密さと官能性があります」

ココが状況に応じて服やアクセサリーをデザインしていたことを知ったブレイジーは、新境地を開いた。彼は初期のころのシャネルで積極的に追求されていた、今でいう“グローバル化した文化”という考えに特に共感している。アーティスティック ディレクターが不在で、シャネルにとって空位期間だった昨年、これほどまでにパリらしいメゾンの空気感を捉えることは、フランスの暮らしに精通したデザイナーにしかできないという意見も耳にした。パリ生まれパリ育ちのブレイジーはその主張に反発。「そんなことはないです!僕もベルギーとのハーフですし!」と声を大にして言い、「地域の文化は、世界が成り立っているより大きなグローバル文化の一部である」というフランス初の文化相であったアンドレ・マルローの考えを引き合いに出した。

また、ブレイジーはメゾンのアーキビストであるオディール・プレメルから、ココが制作した初期のコートのひとつがトルクメニスタンのカラフルな柄を用い、モノクロで再解釈していることを教わった。そしてシャネルの熱狂的なコレクターであるアズディン・アライアのアーカイブでは、独特の斜めのストライプが入ったピースをじっくりと観察。異文化を融合させた初期のピースに出会うことは、彼にとってはタリム盆地のミイラを発見するのと同じくらい興奮する瞬間だった。

ヨーロッパにはこういったものを参考にしたデザインはないです!」と彼は言うが、ペルシャ絨毯の作り方に通ずる斜めのラインには見覚えがあった。シャネルの “フランスらしさ”は、昔から決してフランスに限定されているわけではなかったのだ。

ミューズの大集合<br /> <左から>ドルー・キャンベル、アディッツァ・ベルゼニア、アベニー・ニアル、ロン・フェンジャオ、ブーミー、ザヤ・グアラニ、シャーロット・ボジア、アワー・オディアン、ルイザ・ペローテ、アチョル・アヨール。

ほとんどの大手ラグジュアリーブランドと同様に、今日のシャネルはビジネスの大部分を中東とアジアで行っている。しかし、むやみやたらにビジネスチャンスに飛びつくことはなく、慎重な姿勢で事業を展開し続けるあたりは今どき珍しい。これまでシャネルはメンズコレクションも、キッズコレクションも出したことがなく、今後はオンライン・ショッピングが主流になると言われる中、ブティックを倍増させた。「決めた目標にひたすらフォーカスを当てるのみです。すべてに手を出して、ベストを尽くすことはできません」と、パブロフスキーはシャネルの方針について話す。その言葉には一理ある。シャネルも他ブランドと同じように、ラグジュアリー市場の停滞を直に感じているが、その落ち込みは他社よりも緩やかだ(市場が急成長した後に落ち込むのは予想の範囲内だ、とパブロフスキーは主張する)。

ブレイジーにとってシャネルはさまざまなものを意味するが、オートクチュールに対する独特なアプローチはとりわけ重要視している。 「シャネル特有の軽やかさには、僕が本当に探求したい何かがあります。クチュールは重たくなくても、壮大でなくてもいいんです。制作過程そのものと、着たときの感じが大事なんです」。そう語るブレイジーはハサミを片手にベルギー流に、あらゆる角度から見ながら服を仕上げていくのが好きだ。

「以前はカールがデザインし、アトリエがそれを形に落とし込むというやり方で、ピースは完成した瞬間から神聖なものになり、カール以外は誰も手を加えることはありませんでした。僕はというとスーツを作り始めたのに、1日の終わりにはドレスが出来上がっていたりします。作ったピースに初めてハサミを入れたとき、みんな衝撃を受けたというよりは、意表を突かれていました」

ブレイジーは今、アクセサリーデザイナーのクシシュトフ・J・ルカシクと、主任リサーチャーであり右腕でもあるマリー=ヴァランティーヌ・ジルバルと一緒にアトリエに立っている。彼はジルバルとは言葉を交わさずにコミュニケーションをとり、判断に迷ったときは彼女の方をよく見る。「ある時点で、息がぴったり合うようになったのです」と説明するジルバル。彼女は目配せで、自分が思っていることをブレイジーに伝える。

ラガーフェルドの取り巻きは男性モデルや世慣れた人たちだったのに対し、ブレイジーがボッテガ・ヴェネタから引き連れてきたトップの補佐たちは、のんびりとしたミレニアル世代のデザインオタクが多い。ファッション界屈指の大手グローバルブランドのコレクションをデザインするためにここに集められていなかったら、どこかの地下フロアのオフィスで、気鋭なファッション誌でも発行していそうな集団だ。「こういったタイプの人たちに囲まれるのは心地が良いです」と、デザイン・ディレクターのアルトゥール・ダフチャンは言う。ブレイジーを長年支えてきた彼は、ブレイジーのもうひとりの右腕だ。「自分たちが良いと思うスタイルや見た目の話だけでなく、コレクションを軸にコンセプトを構築するにはどうしたらいいか、という会話もできるんです」

ジャズが流れてきた。ジルバルとルカシクはバッグの試作品を検討している。コレクションの制作を始めたとき、ブレイジーはなぜだかアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの小説『星の王子さま』(1943)を連想させるものを思い描いた。そこでチームは地球儀のような形をした“宇宙”バッグを試作。エナメルが2層塗装された金属製のバッグで、星を表現したストーンが散りばめられている。ブレイジーはそれを見て、子どものころに訪れたプラネタリウムを思い起こした。そして試作品の留め金を外し、中を覗き込む。

「おお!」と感嘆の声をあげた彼はジルバルをちらっと見る。「どう思う?」

「良いですね」とジルバル。

「できればこれを自分のオフィスに置きたいんだけど」と、球体型のバッグを真剣に見つめながらブレイジーは言う。

また新たなグループが色や素材見本を確認するためにスタジオに入ってきた。ラガーフェルド時代から在籍している30年来の調達のベテランが、かつてシャネルで大成功を収めた茄子色の小さなスパンコールがきらめくイブニングバッグを制作してはどうかと提案する。ブレイジーは抵抗した。紫色は好きではないし、小さなスパンコールは我慢ならない。「個人的なトラウマです」と彼は言う。

「私たちがここ1年間で手がけたこのスタイルのバッグのストーリーボードをご覧になってみませんか?」と、提案した本人は聞く。

ブレイジーは微笑む。「なぜトラウマなのか話しますよ」と彼は言い、スパンコールを嫌うきっかけとなった出来事について語り始めた。「ニューヨークに住んでいて、カルバン・クラインCALVIN KLEIN)で働いていたころのことです。あるハロウィン、初めて女装をすることにして、小さなスパンコールで覆われたドレスを身に着けたんです。そしていざ出かけようとしたら、エレベーターに2時間閉じ込められて、結局、消防士の足の上を這って脱出する羽目になりました。まるで晒し者で、挙げ句の果てにホテルを出たら、タクシーが拾えませんでした」と彼は笑みを浮かべ、首を横に振った。「なので、小さなスパンコールは絶対になしです」

ミーティングとミーティングの合間の数分間を、ブレイジーはスタジオの外で過ごすのが好きだ。次のミーティングのために部屋を準備する時間を与えるためでもあるが、ともに制作しているデザイナーたちに、自分抜きで準備や話し合い、愚痴をこぼす機会を与えるためでもある。

彼はバルコニーに出て、タバコを吸う。こういったときに、トップの座に就く人たち特有の孤独感を肌で感じる。先ほどのスパンコールのやり取りは、自分がトップとして決断を下さなければならないときによくとる方法だという。「私たちはアイデアや色について議論しているわけで、好みは人それぞれです。だから、何事も相手に敬意を払いながら進めなければいけません。もちろん、間違った答えなどないですし」。エレベーターに閉じ込められたときのユーモラスなエピソードは、彼の親しみやすくも、毅然とした態度で相手と掛け合う姿勢を象徴している。「良い外交官になれたと思います」

ディナーをともにしてから数日後、私はパリの南端にあるモンスリ公園の一角でブレイジーと会い、カフェ・クレームを飲んだ。よく晴れた朝で、吹いてくる風は心地良く、辺りからは芳香が漂ってくる。アカシアの花粉が塊になってアレジア通りの坂を流れ、近所の人たちはそれぞれ朝の用事をこなす。ここはブレイジーの青春を彩った風景だ。彼はここからそう遠くないところで育ち、子どものころ、この地区に住む友人をひとりで訪ねてきたこともある。その友人とはティーンエイジャーのころ、近くの大学で行われるパーティーによく押しかけていた。「ここは僕が初めて自由と楽しさを覚えた場所です。パリの雰囲気はありますが、絵葉書として映えるように整備されたエリアではないです」

冴えない学生だった若き日のブレイジーは、フランス南部のアルデーシュ県の森林地帯にあるマリスト派の寄宿学校に送られ、その後イギリスの陸軍士官学校に入った。そしてベルギーの芸術学校ラ・カンブルに進み、音楽や美術と並行してデザインを学んだ。新卒で入ったラフ シモンズでは、ギャラリー巡りに駆り出されたという。目の肥えたコレクターであるブレイジーは今でもファッションと同じくらいアートに興味を持ち、慎重に作品を収集しているが、最近は市場に出回らないアートに一番心を惹かれているそうだ。

モンスリ公園で会った同じ日の午後、彼はコラボレーションを計画している82歳の舞台美術家、リチャード・ペドゥッツィと会う予定だった。「マリー=ヴァランティーヌが、彼が出演したポッドキャストを送ってくれたんです」とブレイジーは説明する。「とても繊細な人だと思い、話に共感を覚えました。会ってすぐに打ち解けられる人ってときどきいますよね。最後にファッション以外の分野で活躍するクリエイティブな人とそんな感じで意気投合したのは、ガエタノ・ペッシェです」

ブレイジーと昨年死去したペッシェは、2022年にボッテガ・ヴェネタのショーのセットでコラボレーションした。樹脂系の塗床材を床に注ぎ、固めて作る特殊のフローリングを取り入れたセットにすることになり、床のサンプル版を制作してもらうために、ブレイジーはペッシェのスタッフにボッテガ・ヴェネタのスタジオへ出向いてもらった。

やって来たのは、ペッシェの右腕であるステファノという男性だった。彼が作業しているところにスタジオに足を踏み入れたブレイジーは、「心臓が止まった」と言う。スタジオの床をサンプル制作のために使用していたからではない。ブレイジーが最後に付き合った相手は、アライアALAÏA)のクリエイティブ・ディレクターであるピーター・ミュリエで、ふたりは17年間交際した。ブレイジーは意中の相手にアプローチをする方法が、わからなくなっていたのだ。

「時間はかなりかかりました」と彼は笑う。「あと、手紙を何通か送りました」。数カ月後、ふたりは結ばれ、ブレイジーは全く話せなかったイタリア語を習得した。「プライベートに関しては、今いい感じです。もちろんプレッシャーはありますが、恋をしているので気になりません。彼との関係はあまり公にしないようにしています。そうすることで、自分が守られているような気がするんです」

流麗に描く、クラッシックなライン<br /> 20世紀初頭に誕生したメゾンの原点に立ち返った、ブレイジーによるドレスを着こなすアワー・オディアン。
20世紀初頭に誕生したメゾンの原点に立ち返った、ブレイジーによるドレスを着こなすアワー・オディアン。

ブレイジーは私を美しいスクエア・モンスリ通りに案内してくれた。バラのつるが生い茂る狭い家々の表門を通り過ぎ、石畳の坂道を登っていく。ル・コルビュジエが設計した白いモダニズム建築のアパルトマンを眺めるために、私たちは突き当たりで立ち止まった。

「アール・ヌーヴォー様式や、1880年代に建てられた田舎風のブルジョワの家が立ち並んでいるのに、突き当たりに差し掛かるといきなりドーンと、ル・コルビュジエの建物が現れるんです」と彼は感嘆する。「ファッションの仕事から退いたら、街歩きのツアーでもやりますかね」

数ブロック先の小道にはまた別のモダニズム建築がある。朝陽を受けて輝くその建物を、ブレイジーは通りがかりに眺める。そして振り返り、遠くから見つめた。

「ついこの前、この家を買ったんです」と、彼は恥ずかしそうに教えてくれた。

パリで買った、ふたつ目の大きな物件だ。まだボッテガ・ヴェネタで働いていたころ、ブレイジーは子どものころに住んでいた家の近くにある一軒家を購入した。それは4年前に死去した彫刻家のヴァランティーヌ・シュレーゲルが長い間所有していた物件だ。彼はシュレーゲルに特別な思い入れがあり、彼女がかつて所有していたその家をシェアアートスペースとして使用するために、現在修復している。

だが、今回は違う。シャネルのオフィス内にあるスタジオ以外には自分の仕事場を設けていないブレイジーは、小道にあるこの家を週末に使う個人用のスタジオにするつもりだ。プレッシャーを感じず、伸び伸びと創作に打ち込める場所に。「息抜きをするためです。マリー=ヴァランティーヌにも自由に使ってもらえますし、お客さんも呼べます。自宅に人を招くのが苦手なんです。あまりにもプライベートな空間なので」。妹と同居しているのも、人を家に呼ぶのに抵抗がある理由のひとつだろう。「こういった仕事をしていると、人をもてなさなければならないこともあるんです」と、彼はきまり悪そうに付け加えた。

私たちは足早に家を通り過ぎた。ブレイジーは家の方を振り返る。「ここも僕の空間だと思うと、とても不思議な感じがします」。一瞬、目の前にある家のことを言っているのか、シャネルというメゾンのことを言っているのかわからなかった。彼は微笑む。「かつての僕にとっては、夢のまた夢です」

10月のショーの招待状には、ミニチュアの家のような形をしたチャームペンダントが添えられていた。ファサードの小さなレンズからチャームの中を覗き込むと、内側にショーの日付と場所が刻まれているのがわかる。物事はよく観察する。そういったメッセージであると同時に、ブレイジーの創作と、彼が惹きつけられたシャネルのアットホームなムードに通ずる、平凡な親密さを表していた。

「フランス語では『house(物理的な家)』も『home(住まい)』も、『メゾン』なんです。それがすごく素敵だと思いました」とブレイジー。「このメゾンは家族経営のメゾンです。そこがほかとは違います。経営者たちの間には一体感があって、部門間の風通しも良いです。これを私たちは『bienveillance』と呼んでいます。一種の優しさと思いやりです」。思いやりのある、家のように居心地の良い場所となったシャネルは、紛れもなくマチュー・ブレイジーのメゾンだ。

ショーの前日、ブレイジーはオフィスの一室の奥にある小さなテーブルに座っていた。彼のもとに、花が次々と届いている。そこにはラフ・シモンズからの巨大な花束もあった。ブレイジーはこのところあまり眠っていないが、クリエイティブな大仕事を成し遂げた達成感に満ちあふれている。ここ数日で、ピース、ルック、ショーの詳細が確定した。「とても満足しています」と彼は言う。哀歌調の音楽が流れている。レイ・チャールズとダイアナ・クラールが歌う「You Don't Know Me 」だ。

「現時点では、77のルックを用意しています。多すぎる気もしますが、ちょうどいい気もします。ここから絞らなくていいのかって? これはシャネルです。盛大なショーです。その必要はありません」

ブレイジーからすると、ショーはそれ自体がひとつのアクションだ。「いろいろな方向性を追求したものになりそうです。あらゆるアイデアを試さないといけないですし、僕は失敗することにも前向きです。完璧である必要はありません。これはまだ最初のショーですし、僕からの提案なのですから」

夏以降、彼はショーの主要なテーマにフォーカスを当ててきた。「ガブリエル・シャネルは完全なパラドックスでした。自分自身を男性と同等の存在に仕立て上げるのと同時に、夜は異性を誘惑する女性でした」。ブレイジーは私をルックの方へと案内する。「ショーの最初のパートは、まさにこのパラドックスがテーマです」

ショーのフィナーレを飾るドレスを着たモデルが部屋に入ってくる。上はシンプルな白いTシャツで、スカート部分はラフィアで編まれた色とりどりの羽根と花で覆われている。何百時間もかけて、職人たちが手作業で仕上げた1着だ。「フランドルの絵画のような、喜びに満ちあふれたものにしたかったんです。花が爆発したみたいですよね。僕にはそう見えるんですが、制作チームはピニャ・コラーダのカクテルみたいだと言っています」と彼はニヤリと笑った。

ブレイジーはショー当日まで、側近の制作チームにすらランウェイのセットを決して見せない。その方が、当日新鮮な気持ちで会場を見てもらえるからだ。そして迎えた月曜の夜、ショー本番の日。グラン・パレに流れ込んできたゲストたちは、まず上を見上げる。天井からは15個の巨大な惑星が吊るされており、床にも半分沈んだ惑星がいくつか置かれている。誕生間もない宇宙、原始的な空、『星の王子さま』の有名な背景、遠い過去の未来的なビジョン。そしてブレイジーが子どものころに訪れたプラネタリウム。そのすべてが表現されていた。

次にゲストたちは下を見る。グラン・パレの床は、黒に色を散らした樹脂で完全に作り直されている。まるで既知の宇宙の銀河のようだ。床は滑らかで艶を帯びており、宙に浮かぶ惑星たちを反射する。ところどころに砂が撒かれているため、表面は荒い。それが刻まれてきた時を感じさせる。そして宇宙のように際限なく続いていくかのようだ。

床はブレイジーの恋人であるステファノが手がけた。夏の間、ブレイジーとステファノはともにさまざまな色や形を試しながら改良を重ねた。今ゲストたちが歩き、後ほどモデルたちのランウェイと化すこの見事な床は、愛し合うふたりの手によって作られたものだ。それはブレイジーが打ち出すシャネルの根底にあるコンセプトに合致しているのは言うまでもない。

テクスチャーとコードの競演<br /> <左から>ドルー・キャンベル、アチョル・アヨール、アベニー・ニアル。
<左から>ドルー・キャンベル、アチョル・アヨール、アベニー・ニアル。

午後7時59分、何かを叩き打つけるようなけたたましい音とハープのグリッサンドを合図に、全員が席に着く。その数分後、弦楽器によるドビュッシー風のマイナーナインスコードが聞こえてきた。そのところどころに、宇宙から聞こえてくるような不気味な笛のパッセージが散りばめられている。

照明が落ち、最初のルックがフロアを横切る。ブレイジーはグレーのメンズコートのシルエットからふたつボタンのシャネルのジャケットを作り、それをプレスされたパンツに合わせた。初日にスタジオで裁断したルックを再解釈したものだ。モデルが左手から提げているのは、クラシックな「2.55」ハンドバッグのアレンジ版。フラップには曲げやすい金属が通されており、丸めたり、折り曲げたりと、使い込まれた風合いのフォルムにバッグの形を自由に変えられるようになっている。「ジョン・チェンバレン(の作品)に似ていますし、衝突事故に遭った車にも見えます。大切に使い込まれてきたバッグなんです」とブレイジーは言う。モデルの耳には、シャネルのカメリアを彼流に解釈した、とがった白いイヤリングがついていた。

3人目のモデルは、ココ・シャネルがバッグの裏地に使ったワインレッドのブラウスを着ている。4人目はブラウスにシンプルなシルクのラップスカートという装い。「自由」と「動き」を表現したルックで、歩くと脚が一層露わになる。「全身を覆っているのに、動くと肌が露わになる女性のルックはとても面白いですし、センシュアルです」とブレイジー。だが、このパラドックスのような官能さが、女性に主導権を握らせたままにすると彼は考える。ブレイジーはショーを3つの章に分け、「Un Paradoxe(パラドックス)」と題されたこの最初の章では、力強さと誘惑的な魅力を掛け合わせた。

赤いスパンコールのフラッパー風ツーピースドレスが登場する。あしらわれているスパンコールは小さい。「気が変わったんです」と、ブレイジーはニヤリと笑う。ココ・シャネルのクラシックなリトルブラックドレスをアレンジした1着に身を包んだモデルは、卵の形をしたクラッチバッグを抱えている。「卵は始まりを意味するから好きなんです」

そして突然、イブニングスカートにメンズの白いシャツを合わせたルックが披露された。ブレイジー曰く「究極のパラドックス」だ。シャツはシャルベ(CHARVET)の生地と技術を用いて作られたもので、シンプルかつエレガント。ココ・シャネルの愛の証のようなものだ。

第2章は「Le Jour(昼)」というタイトルで、日常と日々の営みを表している。「ここでシルエットはすでによりフェミニンになってきています」とブレイジーは説明。「より体に沿ったシルエットです」。しかし、彼は革新的な生地使いと構造を徹底的に追求した。一見クラシックなシャネルのスーツに見えるルックは、実際はセーターの裾から直接スカートを吊り下げたドレスのようなもので、モデルが歩くとヒップのあたりで布が揺れて踊る。ブレイジーは、自分はシャネルというメゾンと“結婚”したと言う。それを表現した白いドレスを数着ランウェイに送り出した。「何か古いもの、何か新しいもの、何か借りたもの、何か青いもの。この決まったパターンが好きです」

次に、メンズウェアのパターンにインスパイアされたスーツが登場した。襟はメンズシャツのもので、スーツにはデグラデ加工が施され、ウィメンズのドレスのように平たく仕上げられている。パラドックスの対立する面を集約した1着だ。ココ・シャネルは好んで裾をほつれさせていた。そこにブレイジーは着目し、ほつれた縁から細いビーズの糸が垂れ下がる大胆なデザインとして展開。まるでビーズの糸が布を徐々に侵食しているようで、ほつれ具合を強調するような仕上げになっている。「『何もかも、もうどうでもいい』。着心地が良いからと同じ服を繰り返し着る、上流階級の人たちの身のこなしを表しています。ほつれているわけではなく、大切に着られて、大事にされているだけなんです」

また、この章では“案山子”のルックも披露された。その正体はジャガイモ袋に似せて織られた上質なコットンのアンサンブルと、小麦のように束ねられたラフィアを取り入れたブラウスだ。「知っている人は知っていますが、ココ・シャネルは貧しい家庭の出でした」と俳優のペドロ・パスカルは言う。客席からショーを観覧していた彼は、“案山子”のルックにしきりに感嘆していた。「ココ・シャネルは労働者の服、つまり動ける服を上流階級の人々に向けて展開しました。それが現代のワードローブになったんです。でも、それは機能的で貧しいものから生まれたのものです」とブレイジーは説明する。黒塗りの車から降りてきた人々であふれる会場で、彼は日常に根ざしたファッションの影響力を主張したのだ。

最後の章「L'Universel(普遍性)」は、シャネルのグローバルなルーツと多元的な現在へのオマージュだ。柄はツイードを拡大したもので、世界中から集められたさまざまな柄のよう。使用されている色は白、グレー、鮮やかなオレンジレッドと多様で、シャネルのアーカイブから直接抜き取られた。

シルクで織られた服が宙を舞うように軽やかに登場すると、音楽がフランス語のラップに変わる。スーツ、鮮やかなラフィアの花が刺繍されたクラシックなドレス、シースルーのツイード、フラッパーガール風のジュエリーをいくつも重ねた、ブレイジーが“ビジュー・レディ”と呼ぶルックが送り出された。そして最後に、制作チームがピニャ・コラーダみたいだと言った花のドレスが登場。着用していたのはモデルのアワー・オディアンで、彼女がランウェイから捌けるかなり前から拍手が沸き起こる。フィナーレでオディアンは満面の笑みを浮かべ、両手を上げてフロアの中央で勢いよくターンした。「本物の愛」──ニコール・キッドマンはコレクションのムードをそう評す。

ようやく、ブレイジーが階段の吹き抜けから姿を現す。グラン・パレに集った人々は総立ちで歓声を送る。ブレイジーはオディアンと長いハグを交わし、ランウェイを小走りで一周すると、笑顔で出口に向かって去っていった。「今夜は遠回りして家に帰ります」。彼にはやっとそれができる時間ができたのだ。

For Annie Leibovitz portraits

Hair: Duffy Makeup: Kana Nagashima Set Design: Mary Howard Produced by: AL Studio

For Rafael Pavarotti fashion photographs

Hair: Karim Belghiran Makeup: Ammy Drammeh Manicure: Dawn Sterling Tailor: Cléo Lacroix Produced by Ragi Dholakia Productions

Text: Nathan Heller Adaptation: Anzu Kawano

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