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40年前、40万枚超を売り上げた“情熱的なのに冷たい”あいまいソング 孤高の歌姫が放った“異国情緒の旋律”

  • 2025.10.24

「40年前、あなたはどんな風景の中でこの曲を聴いてた?」

1985年。都会の夜にはネオンがまたたき、街には新しいファッションが溢れていた。けれどその喧騒の裏側に、どこか遠い異国の風が吹いていたのを覚えている人も多いだろう。その風の正体こそが――中森明菜の一曲だった。

中森明菜『SAND BEIGE -砂漠へ-』(作詞:許瑛子・作曲:都志見隆)――1985年6月19日発売

砂漠に咲いた“孤高のアイドル像”

当時、明菜は“トップアイドル”としての地位を完全に確立していた。そんな中、『SAND BEIGE -砂漠へ-』は、彼女のアーティストとしてのさらなる深化を印象づけた作品である。

作曲を手がけたのは都志見隆。異国情緒を漂わせる旋律に、作詞家・許瑛子が砂漠を舞台にした恋の終焉を描いた。

それを井上鑑がアレンジで仕立て上げる。ドラムのリズムは一筋縄ではいかず、様々な音が複雑に絡み合い、ひとつの幻想世界を作り出している。単なる“歌謡曲”の枠を超え、まるで映像作品のように音が風景を描くのだ

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1985年、第27回日本レコード大賞でレコード大賞を受賞した中森明菜 (C)SANKEI

声が描く“温度のない情熱”

『SAND BEIGE』の最大の魅力は、中森明菜という表現者の温度のコントロールにある。

情熱的な歌詞を、あえて冷たく、静かに歌い上げる。それはまるで、灼熱の砂漠に吹く冷たい風のようで、聴く者を不思議な感覚に包み込む。この“情熱と静寂の共存”こそ、彼女が時代の中で唯一無二の存在となった理由だろう。

歌声は決して前へ出すぎず、音の隙間に溶ける。それでもその一音一音が、確かに聴く者の胸を締めつける。「叫ばないのに心が揺れる」――それが、明菜の真骨頂だった。

アレンジが生んだ“異国のリアリズム”

編曲の井上鑑は、当時からポップスの実験的アレンジに定評があった。

Aメロのドラムは一定のリズムに収まらず、拍子を微妙にずらすことで“揺らぎ”を生み出している。さらに、様々な音が多層的に重なり、まるで砂の粒子が空気を舞うような空間をつくり出す。「日本の歌謡曲」でありながら、「アラビアン・ポップ」のようでもある――その曖昧さが、当時の聴き手には衝撃的だった。

背景に漂うのは、1980年代半ばという時代の「成熟への欲望」。明菜の作品群は、単なる恋愛の物語を超えて“生き方の物語”を提示し始めていた。『SAND BEIGE』もまた、女性の内面の強さと孤独を、音で描き出した一曲と言える。

都志見隆と許瑛子が導いた“詩と旋律の融合”

この曲のもうひとつの特徴は、作詞・作曲の緻密な呼応だ。

都志見隆による旋律は、決して派手ではない。むしろ音域の抑えられたメロディが続く。だが、その中に「言葉の間」を活かす余地があり、許瑛子の詞が生きる。

“砂漠”という比喩的空間が、リスナーに想像を委ねる形で広がっていく。この詩と旋律の呼吸が、楽曲全体を静謐でありながら官能的なものへと昇華させている。

“表現者・中森明菜”が到達した頂

売上は40万枚を超え、テレビでも幾度となく披露されたが、そのたびにステージの空気が変わった。派手な照明の中でも、彼女だけが“異国”に立っているように見えた。あのとき、誰もが「砂漠へ」と誘われたのだ。

永遠に乾かない“砂の記憶”

今、あらためて聴くと、『SAND BEIGE -砂漠へ-』は1980年代の象徴というよりも、「時代の温度を超越したアート」として響く。音の密度、呼吸の余白、そして明菜の声が持つ陰影――それらが一体となり、聴くたびに新しい風景を見せてくれる。

燃えるような熱と、凍るような静けさ。

この矛盾を同時に描けたのは、彼女だけだったのかもしれない。そしてその砂漠の風は、今もなお、静かに私たちの胸を吹き抜けている。


※この記事は執筆時点の情報に基づいています。