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最初の夫は貧乏がイヤで1年で逃亡…朝ドラ「ばけばけ」のモデル・小泉セツと外国人男性が結ばれた不思議な縁

  • 2025.9.29

NHK連続テレビ小説「ばけばけ」で高石あかりさん演じるヒロインのモデルとなった小泉セツとはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「松江藩家老の血を引くが、士族の没落により11歳から働いて家を支えた。そんな彼女には幼少期の忘れられない思い出があった」という――。

上海国際映画祭の会場で撮影に応じる、映画『夏の砂の上』に出演した(左から)オダギリジョーさんと高石あかりさん、右は玉田真也監督=2025年6月21日、中国上海市
上海国際映画祭の会場で撮影に応じる、映画『夏の砂の上』に出演した(左から)オダギリジョーさんと高石あかりさん、右は玉田真也監督=2025年6月21日、中国上海市
朝ドラのヒロインは松江藩の名物家老の孫娘

松江城北側の堀に沿って続く500メートルほどの通りは「塩見縄手」と呼ばれる。堀尾吉晴が慶長12年(1607)から同16年(1611)にかけて松江城を築いた際、城地に選んだ亀田山とその北側の赤山のあいだを掘削し、内堀とそれに並行する道路を敷設。道路沿いに屋敷地を造成したのにはじまる。

「縄手」とは縄のように一筋に延びた道のことで、それに沿って家中屋敷(大名に仕える家臣と家族が住む屋敷)が並んでいた。いまも昔ながらの板塀が続く。縄手の堀側には、造成当時に植えられた松の巨木がいまも枝を垂れる。ここは昭和48年(1973)に松江市伝統美観保存地区に指定され、同62年(1987)には建設省による「日本の道100選」にも選ばれた。

塩見縄手にて
塩見縄手にて(写真=663ハイランド/CC-BY-2.5/Wikimedia Commons)

ところで、「塩見縄手」という名の由来である。縄手に沿って続く板塀のあいだに建つ長屋門の奥には、江戸中期に建てられた武家屋敷がいまも残り、公開されている。江戸時代には500石から1000石の武士が住み、ときどき屋敷替えが行われたので、特定の武士の屋敷とはいえないが、一時は塩見小兵衛という武士が住み、その人物が異例の昇進を遂げたために、讃えて塩見縄手と呼ばれるようになった。

この塩見家は松江藩の家老で、幕末にはここより南方、松江城二の丸および三の丸と堀を挟んで向かい側に屋敷があった。そして、上に記した小兵衛が塩見家5代目で、6代目の増右衛門は、NHK連続テレビ小説「ばけばけ」のヒロイン、松野トキのモデルとなった小泉セツの祖父だった。

セツはあるエピソードをたびたび聞かされ、祖父のことを誇らしく思っていたのだという。

藩主に対して祖父が行ったすごい行動

セツは自筆の「オヂイ様の話」にこう書いている。

「私の子供の時にお友達の家へ行くとそこの老人からよく御祖父様の話を聞かされました。あなたのお祖父様は忠義なえらい方で御座いました。私はそう聞くと自らがほめられた様にほこりを感じてなんとなく愉快でした。母方の御祖父さん塩見増右エ門様は役のついてゐる家老で禄高は千何百石召使は三十人近く、屋敷は殿町二の丸のお堀の前でした」

どのように「忠義なえらい方」だったかだが、セツの原稿には続いて、忠義の具体的な内容が概ね次のように記されている。

ある日、江戸で大事件が発生し、「増右エ門様俄に病死」という早打ちが松江に届けられたという。なにが起きたのか――。9代藩主の松平出羽守(斉貴)はわがままで贅沢や放蕩をきわめ、酒と女と乱暴についての逸話が残るほどだった。増右衛門はこれを見逃すことができず、御前で諌めたが聞き入れられない。ふたたび諫言したがダメ。そこで覚悟のうえで3度目の諫言をしたという。

その際、増右衛門がただならぬ様子だったので、出羽守は家臣に、家老詰所まで様子を見に行かせた。すると、閉ざされた襖の向こうで、増右衛門はすでに息絶えていたという。じつは、増右衛門はこっそり腹を切ったうえで、傷に白木綿を固く巻きつけて出羽守の御前に出向き、死をもって諫言していたのだ。さすがの出羽守も藩主を退き、頭を剃って謹慎したという。

セツが「オジョ」と呼ばれたワケ

セツの実母の小泉チエは、この塩見増右衛門の一人娘で、500石の御番頭であった小泉弥右衛門湊のもとに嫁いだ。この湊がセツの実父だが、わざわざ「実母」「実父」と表記するのには理由がある。

セツの養父母は100石の組士を務める並藩士、稲垣金十郎とトミ夫妻だった。セツの実母は稲垣家と、今度子供が生まれたら養子にあたえるという約束を交わしており、セツは生まれてわずか8日目に、稲垣家にもらわれていったのである。並藩士の家が、家老の孫娘かつ上級武士の娘を養女にもらったので、セツのことを、お嬢を意味する「オジョ」と呼び、いつくしんで育てたという。

セツ自身が「幼少の頃の思い出」に、次のように書いている。

「小泉の実母は藩中で有名な美しいお嬢様で音楽の天才で草双紙の精通者であった。稲垣家で小泉家を尊敬すること非常なもので、また稲垣家で私を大切にする事も格別であった」

だが、セツが生まれたのは、すでに戊辰戦争勃発後の慶応4年(1868)2月4日。その後は士族が没落し、苦しい生活を強いられる時代だった。

家を支えるために学業を断念し働く

そういう状況下で生き抜くに当たっては、藩主を戒めて腹を切った祖父を誇りに思うような矜持が、セツの力になったように思われる。

以下、小泉八雲記念館発行の『小泉セツ ラフカディオ・ハーンの妻として生きて』を参照に、幼少時からしばらくのセツの暮らしを追ってみる。

セツは松江城がある亀田山の北西にあった稲垣家から、近くの内中原小学校に通い、読み方、書き方、算術のほか裁縫の授業を受け、学業に熱心に取り組んだという。だが、稲垣家は没落士族として厳しい生活を強いられていた。11歳にして上級学校への進学をあきらめなければならず、いく晩も泣き明かしたという。

松江城
※写真はイメージです

その後は家計を助けるために、織子として働いた。実父の小泉湊が機織会社を興し、士族の子女を集めて機を織らせたので、セツもその一人に加わった。ところが、最初は調子がよかったその会社も、結局は士族の商法だったからか、次第に傾いて倒産してしまう。それでもセツだけは、その後も一人で機織りを続け、稲垣家を支え続けたという。

最初の夫は1年で出奔

そんな厳しい暮らしから抜け出るために、セツが18歳のときに因幡国(鳥取県東部)の士族の前田家との縁談がまとまり、稲垣家は前田家の為二を婿養子として迎えることになった。ところが、多額の負債をかかえた稲垣家の貧しすぎる暮らしに耐えかねた為二は、しばらくしてセツを捨てて出奔してしまう。

セツは為二の居場所を突き止め、大阪まで出向いて直接説得したものの、為二は帰って来なかった。21歳のセツはやむなく松江に戻ると、為二との婚姻関係を解消し、さらに稲垣家から小泉家に復籍することになった。明治23年(1890)1月13日のことだった。

復籍とはいうものの、過去に小泉家の籍に入っていたのは、生まれてわずか8日間にすぎなかったのだが。

しかし、運命とはおもしろいもので、まさにセツが離縁し復籍した同じ年の8月30日、ギリシアで生まれアイルランドで育ったラフカディオ・ハーンがアメリカから来日し、英語教師になるために松江にやってきたのである。

ハーンは宍道湖と中海をつなぐ大橋川に面した富田旅館に2カ月半ほど滞在したのち、11月中ごろ、宍道湖畔の借家に住まいを移した。そして、翌明治24年(1891)2月初旬ころ、セツはその借家に住み込みで働くようになり、2人は出会ったものと思われる。

ラフカディオ・ハーンと妻の節子さん(熊本)
ラフカディオ・ハーンと妻の節子さん(熊本)(写真=富重利平/PD US/Wikimedia Commons)
幼少期に出会った「唐人」という因縁

この当時、多くの日本女性は白人男性を受け入れるのに抵抗があったと思われる。だが、セツは違った。その理由について、セツ自身が「幼少の頃の思い出」に、おもしろいエピソードを記している。

「多分五つ六つ位であった様に思われるが其頃ワレットといふ唐人(仏人であったそう)が来て調練という事が始まったある日、私は親類の人々と一緒にその調練と唐人を見に行った。(中略)その時にその唐人が何だか言って笑って私の髪を撫でた。私はやはり唐人の顔を見ていた。そうすると大きなその人の手が私の手に来て何だか持たせた」

「(中略)私のもらったのは小さい虫眼鏡であった。私はその虫眼鏡は日本にはない非常に良いものだという事をお父さんやお母さんが話合った。(中略)私はその眼鏡を喜びまたその眼鏡を呉れた唐人は非常に良い人だと思った。ワレットは出雲に来た初めての異国人であったであろう。其人から小さい私は特に見出されて進物を受け、私が西洋人に対して深い厚意を持つ因縁に成ったのは不思議であったと今も思われる」

そして、こう続くのだ。

「私が若しもワレットから小サイ虫眼鏡をもらってゐ無かったら後年ラフカヂオヘルンと夫婦に成る事も或ハむづかしかったかも知れぬ」

セツ自身も「因縁」という言葉を使うが、まさに「因縁」ということを思うほかない出会いであったと思われる。

香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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