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41年前、日本中がアツくなった“アゲアゲソング” 年末のテレビをジャックした伝説の名曲

  • 2025.7.29

「41年前の年末、テレビから何が流れていたか覚えてる?」

1984年、テレビは家族の団欒の中心にあり、歌番組は週に何本も放送され、誰もが“お茶の間”で歌と向き合っていた時代だ。そんな中、ある一曲がテレビ越しに日本中へ熱を送り込み、視聴者の魂を燃え上がらせた。

北島三郎『まつり』(作詞:なかにし礼・作曲:原譲二)――1984年11月21日リリース。

まるで祝祭そのもののようなこの楽曲は、北島三郎という芸道の極みにあった男の「決定打」となり、紅白歌合戦での“伝説の演出”を通じて、世代と時代を超える記憶となった。

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(C)SANKEI

“歌謡界の豪傑”が放った、問答無用のエネルギー

『まつり』は演歌の枠を超えたスケール感で、以降、彼の代表曲として“年末の風物詩”になるほどの存在感を誇ることになる。

イントロからすでに熱量が違う。勇壮なホーン、ダイナミックなリズム、そして掛け声のような「まつりだ、まつりだ、まつりだ〜!」の咆哮。聞いた瞬間に体温が上がる、というレベルではなく、全身の血が逆流しそうな迫力がある。

作曲を手がけたのは、北島自身の別名義・原譲二。彼の魂が音として噴き出したような鈴木操によるアレンジは、“演歌”というジャンルの中で、完全に異質だった。

なぜ『まつり』は国民的ソングになったのか?

当時の演歌シーンは、アイドル全盛の中でやや押され気味だった。だが、『まつり』はそんな潮流に対して「こっちは命懸けで歌っとるんじゃ」と正面から突きつけるような迫力を持っていた。

歌詞に描かれるのは五穀豊穣を願うものたちの魂の叫び、そして「生きていることそのものが祭りである」と語りかけてくるようなメッセージ。なかにし礼の骨太な言葉と、北島の圧倒的な声量が融合したことで、これは単なる楽曲ではなく、一種の“儀式”のような体験へと昇華された。

また、この曲はテレビ演出によってさらに神格化されていく。

紅白歌合戦での『まつり』といえば、巨大な神輿、揃いの法被、大量のスタッフが運び込まれ、ステージ上にまさに“リアル祭り”が再現された名物パフォーマンス。視聴者は年の瀬に、テレビ越しで一斉に“何かに参加させられる感覚”を味わったのだ。その記憶のインパクトは強烈だった。

41年経っても、“元気が出る曲”として愛される理由

『まつり』は今もなお、多くの場面で歌われ続けている。カラオケの定番、応援ソング、地域の祭りでの定番曲。

その背景には、「明るく生きる」「汗をかいて働く」「自分を信じて進む」といった極めてシンプルで、誰にでも通じる価値観がある。

演歌を知らなくても、好きでなくても、この曲だけは“歌いたくなる”。

それが『まつり』のすごさだ。

また、北島三郎という存在が放つ“職人芸”の重みも大きい。音程やテンポを守るといった次元ではなく、魂でぶつかるような歌唱。そこには流行り廃りとは関係のない、圧倒的な“熱”がある。

今の音楽シーンではなかなか見かけない、“情念”や“全力”をぶつけるタイプの楽曲。その最たるものが、まさにこの『まつり』なのだ。

“平成も令和も超えて”歌い継がれる、生命力のシンボル

時代が変わり、音楽の形も聴き方も変わった。けれど、『まつり』だけは、今もなお「聴けば元気になる曲」として支持されている。

自分の中に眠っていた“何か”を無理やり起こされるようなエネルギー

普段は心の奥にしまってある“やるしかねえ”という感情を揺り起こす力

それこそが、『まつり』という楽曲が41年経っても決して古びない理由だろう。

北島三郎が放ったこの1曲は、もはや“音楽”というより、日本人の魂に刻まれた「叫び」に近い。

だからこそ、これからもきっと、年末のどこかであの声が聞こえてくるのだ――

「まつりだ、まつりだ、まつりだ〜〜!!!」


※この記事は執筆時点の情報に基づいています。