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32年前、フィギュア史を塗り替えた“氷の結晶のような一曲” 「記録より記憶に残る」名曲

  • 2026.3.15

1994年の春。日本の音楽シーンは、ある種の「過剰さ」の中にあった。テレビをつければ派手な演出の歌番組が溢れ、街のCDショップにはミリオンセラーを予感させる新譜が所狭しと並んでいた。そんな喧騒をすり抜けるようにして、不意に耳へ飛び込んできた一筋の歌声がある。それは、春の陽光に透ける氷の結晶のように冷たく、それでいて胸の奥をじわりと温めるような、不思議な質感を持っていた。

宇徳敬子『愛さずにはいられない』(作詞:宇徳敬子/作曲:多々納好夫)ーー1994年3月16日発売

当時、ユニット活動を経てソロアーティストとしての道を歩み始めていた彼女が放った3枚目のシングル。それは、当時の音楽トレンドであった性急なビートや煽情的なフレーズとは一線を画す、圧倒的な「佇まいの美しさ」を湛えた作品であった。

宿命の氷上で響いた、時代を刻む「二つの奇跡」

1994年3月、千葉・幕張。日本中の視線は、そこにある銀盤の上に注がれていた。世界フィギュアスケート選手権大会。自国開催という重圧の中、私たちは日本のフィギュアスケート史が大きく塗り替えられる瞬間を目の当たりにする。

その中心にいたのが、佐藤有香だった。氷の上で精緻な芸術を紡ぎ出した彼女は、伊藤みどり以来、日本人として2人目となる世界女王の座に輝いた。その凛とした滑りと、リンクに降り注ぐ歓喜の喝采。その背景で流れていたメロディこそが、この楽曲である。彼女の流麗なスケーティングと、宇徳敬子の透明な歌声が見事にシンクロし、会場の空気はまるで魔法にかかったかのような静謐な興奮に包まれていた。

さらに、この大会はもう一つの「物語」の終着点でもあった。ミラノ・コルティナ五輪で男子シングル銀メダルに輝いた鍵山優真の父であり、当時の日本男子を牽引していた鍵山正和が、自己最高位となる6位入賞を果たしたのである。端正な技術と情熱を氷に刻みつけ、彼はその大会を最後に現役引退を表明した。一つの時代が結実し、新たな伝説へとバトンを渡す瞬間の、あの切なくも誇らしい空気。宇徳敬子の歌声は、そんなアスリートたちの「人生の転換点」に、あまりにも優しく、そして厳かに寄り添っていたのだ。

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2026年2月、ミラノ・コルティナ五輪、フィギュアスケート男子フリーで満面の笑みを浮かべる鍵山優真(右)と父親でコーチの鍵山正和(C)SANKEI

音の積層が描く、迷いなき美学という名の風景

この楽曲の凄みは、編曲を手がけた池田大輔による緻密な音像設計にもある。1990年代がよりデジタルで硬質な方向へとシフトしていく中で、この曲にはどこかアナログ的な温かみと、洗練された都会的な情緒が共存している。ストリングスの使い方も、ギターの音も、すべては「歌声の透明度」を損なわないために計算し尽くされているのだ。

そして、作曲の多々納好夫が紡いだメロディラインは、極めて上品でありながら、一度聴いたら忘れられないフックを持っている。サビに向かってなだらかに上昇し、頂点で一気に視界が開けるような開放感。それは、冬から春へと移り変わる季節のダイナミズムそのものであり、聴き手の心に眠る「何かを強く想う気持ち」を優しく、かつ鋭く揺さぶってくる。

そして、そこに宇徳自身が手がけた歌詞が重なる。誰かを愛するという行為が持つ、綺麗事だけではない重み。言葉にできないもどかしさ。それらを、彼女は普遍的な物語へと昇華させた。その才能が、彼女を単なる「歌の上手いシンガー」から「唯一無二の表現者」へと押し上げた要因だったと言える。

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1991年、第33回日本レコード大賞、Mi-Keのメンバーとして最優秀新人賞を受賞した宇徳敬子(C)SANKEI

凛とした「孤独」の気高さ

宇徳の歌声は、しばしば「クリスタル・ボイス」と形容される。しかし、この楽曲で聴ける声は、単に綺麗なだけではない。そこには、自らの表現を信じ抜く者の「覚悟」が宿っている。

彼女はもともと、コーラスワークにおいても卓越した技術を持っており、自身の楽曲でも多重録音による緻密なハーモニーを構成することが多い。この『愛さずにはいられない』でも、メインボーカルを支えるバックコーラスの厚みが、楽曲に奥行きと神聖な響きを与えている。

当時、この曲が流れるテレビ画面を見つめながら、私たちは何を思っていただろうか。世界を制した佐藤有香の笑顔と、現役最後の舞台を全力で駆け抜けた鍵山正和の背中。そうしたドラマの裏側にある、血の滲むような努力と、人知れず流した涙。そのすべてを浄化するように流れるこの旋律は、単なるテーマソングとしての枠を超え、物語を完結させるための最後の欠片として機能していた。

記録としての数字だけでは推し量ることのできない、人々の記憶の深層に刻み込まれる力。それこそが、時代を超えて残り続ける名曲の条件である。

余白に灯る希望が、今も誰かの背中を支えている

あれから32年の月日が流れた。音楽を取り巻く環境は激変し、情報の奔流の中で新しい曲が現れては消えていく。しかし、深夜の静寂の中で、あるいは不意に訪れた孤独な時間の中で、この楽曲を再生すると、あの1994年の澄んだ空気が一瞬にして蘇る。

彼女が紡いだ透明なメロディは、今この瞬間も、どこかで誰かの心に寄り添っているはずだ。かつての銀盤の上で舞った選手たちがそうであったように、私たちもまた、自分自身の人生というリンクの上で、届くかどうかわからない想いを抱えて滑り続けている。そのかたわらで、この曲は静かに、しかし力強く、その軌跡を祝福し続けてくれるのだ。


※この記事は執筆時点の情報に基づいています。