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子どもは小さな大人?──私たちはいつ子どもから大人になったのか【TAIRAのノンバイナリーな世界 vol.8】

  • 2025.5.15

Tairaの臨床モデル学 / Taira's Gender Studiesで、モデルの視点から社会を多角的に考察してきたTairaによる新連載「TAIRAのノンバイナリーな世界」では、日頃から何気なく成り立っている身の回りの「組み分け」にスポットライトを当てる。

曖昧なことやラベルを持たないことに不安を抱きがちで、なにかと白黒つけたがる私たち(と世間)だけど、こんなにも多彩な個性や価値観が共生する世界を、ゼロか100かで測れるのか。日常に潜む多くの「組み分け」を仕分けるものさしを改めて観察し直してみると、新しい世界や価値観に気づけるかもしれない。

モデルでライターのTairaが物事の二項対立的(バイナリー)な見方を取り払い、さまざまなトピックを「ノンバイナリー」に捉え直していく。

vol.8 大人/子ども

Q1. “大人”って何だろう?

この言葉で思い描く印象は、ライフステージによって変わっていくように思う。たとえば自分が中高生の頃、周囲の20代以上の人たちはみな等しく「大人」に見えていたし、塾にいた大学生のチューターさんも、当時の私にとっては立派な「大人」として映っていた。今あらためて振り返れば、かつて小中学校でお世話になった先生たちのなかには、現在の自分より年下の人もいたわけだけど(それは恐ろしくも感じる……)、それでも彼/彼女らははるか遠い存在に感じられていた。

実際に「大人」と呼ばれる年齢を迎えた今、正直なところ、あの頃憧れていた大人像に到達した実感はあまりない。そんな現在の私が思い浮かべる「大人」は、おおよそ40代後半から60代あたり。身近にいる上の世代の方々の言葉や佇まいからは、時間の重なりが織りなす奥行きや軌跡を通して築かれてきた深く芯のある魅力が感じられ、その姿に「自分もいつか、こんなふうに歳を重ねられたら」と静かな敬意と憧れを抱いたりする。

また私たちは一般的に、セルフイメージと周囲から見られるイメージのあいだに、一定のズレを抱えて生きているのではないだろうか。私について言えば、ティーンエイジャーだった頃の自分と比べて今は着実に成長したと感じる部分もあるけれど(というかしていて欲しい)、それでも本音では未熟で「大人」になりきれていない自分を感じることのほうが多い。一方でかつての私がそうだったように、今の自分と出会う中高生たちには、そんな私でさえも「立派な大人」に映っているのかなと思うと、なんだか不思議な気持ち。これからどんなに歳を重ねていっても、「ああ、私は大人になったな」と心から実感できる日が果たして来るのか、疑問に思う。たぶんずっと周囲からの目と手応えとのあいだには相違があり続けて、自分をどこか未熟だと感じながら生きていくのかもしれない。

Q2. “子ども”って何だろう?

個人的に「子ども」と聞いてパッと連想したのは、幼稚園から中学生くらいまでの子どもたち。けれど改めて考えてみると、「子ども」という言葉が指し示す対象もその文脈によってフレキシブルに変化する気がする。現在、日本の民法では18歳で成人を迎えるとされ、飲酒や喫煙は20歳で解禁される。司法上の取り決めに則って考えると、18歳や20歳といった年齢を一つの境目として「子ども」という存在を捉えることができるだろう。同時にはっきりとした取り決めがなく、施設や企業の裁量で判断される「子ども料金」などについては、広く「小学生まで」とされているようで、中学生は扱いがまちまちだ。

日常のさまざまな場面で使われる「子ども」という言葉は、一見するとなんとなく定義があるようだけど、実際は文脈ごとに流動的に使われている。「親にとっては、いくつになっても子どもは子ども」という旨の話も度々見聞きするけれど、やはり「子ども」という概念も「大人」と同様に、個人のライフステージや視点によって振り幅のある言葉といえるかもしれない。

ここで、「子ども」に関連して想起した個人的なエピソードを紹介したい。初対面のモデル数名が集まる現場で、21歳のモデルが18歳のモデルに「Omg you are a baby!(あなたはまだ赤ちゃんじゃん!)」と声をかけている場面に遭遇した。正直私から見れば、18歳も21歳も多少の差はあれどちらも「子ども」に見えてしまう。「2人ともbabyだよ!」と心のなかで微笑ましく突っ込みつつ、法的に成人とされる21歳の彼女にとってまだ10代のモデルは「子ども」であり、わずか数年の差であっても成人しているか否かという区切りや、ティーンエイジャーという肩書きがもたらす印象の違いは想像以上に大きいのかもしれない。

モデルの仕事をしていると、ほかのクリエイターたちに比べて私たちの平均年齢は一段と低い。だからこそ、ふとした局面で周囲のスタッフから子ども扱いされていると感じる場面も少なくない。またアジア人である自分は、欧州では一段と実年齢より下に見られる。仕事現場では私も若いモデルたちとともに“Girls(女の子たち)”と一括りにされ、「子ども」として接される場面も……。特にニューフェイスのモデルたちが集うファッションウィークのバックステージでは、なんとなく高校時代を抜け出せていないような、「自分はもういい大人なはずなのにな」と、なんとも言えない不思議な気持ちにさせられたりもする。

Tairaがモデルデビューをする以前。「子ども」と呼ばれる時期かもしれない。
Tairaがモデルデビューをする以前。「子ども」と呼ばれる時期かもしれない。

Q3. その2つはどうやって仕分けられてるの?

Q1・2で考察してきたように、「大人」と「子ども」にはっきりとした境界線はなく、コンテクストごとに曖昧な線引きが用いられているように思う。2022年に日本の成人年齢が18歳に引き下げられたことは記憶に新しいが、その背景にはアメリカやイギリスなど多くの国での成人年齢が18歳とされていることから、日本も国際的な基準に合わせたという事情もあるらしい。とはいえ、そもそも「18歳」を区切りとする国際的スタンダードにも、絶対的な根拠があるというわけではなさそう。また飲酒や喫煙は依然として20歳以上と制限されていて、これには健康リスクが影響しているようだけど、こうした年齢設定はいずれも伝統や国際的な慣習に科学的知見を折り合わせた、ある種で恣意的な線引きと言える。その恣意性は、成人年齢が18歳に引き下げられた今もなお、「大人」としての門出を祝う式典である成人式が、多くの自治体で「20歳を祝う式典」として続いていることからも垣間見れる。

Netflix発の新たなヒット作として最近話題になっているドラマ「アドレセンス」も、まさにそんな「大人」と「子ども」のあやふやな境目が1つの大きなテーマとなっている。心も身体も急激に成長し、思春期を経験する「ティーンエイジャー」は大人と子どもの間に立つ存在。肉体的にも成熟し力も強くなるため、さまざまな社会活動に参加できるようになる一方で、身体の変化に伴う心の戸惑いが生まれたり、価値観も大きく揺れ動く時期であるため、アイデンティティの不安定さに悩まされることも多い。作中では主人公のジェイミーをはじめ、今を生きるティーンエイジャーたちが直面する葛藤や衝動の複雑さがリアルに描かれた。「大人」になることの意味を視聴者に対しても多角的に問いかける作品であると思う。

他方でそんなティーンエイジャーは、社会的にグラマライズされている側面があるのではないだろうか。映画アニメ、漫画などのメディアで「青春」が題材にされ、そこに登場するティーンエイジャーたちはキラキラした存在として神格化すらされている。もしかすると、ファッションブランドが描くファンタジーが具現化されるファッションショーの舞台で、若いモデルが多く起用される背景にもそうした事情が影響しているのかもしれない。

Q4. そんな組み分けは必要?

突き詰めれば、大人も子どももみな等しく「人間」である。では、仮に現在の社会から「大人」と「子ども」の線引きを完全に撤廃し、すべての個人を年齢や成熟度に関係なく一様に扱ったとしたら、何が起こるだろう。あらゆる人間が同一の権利と責任のもとに置かれ、ある意味で自由の度合いは大きく広がるかもしれない。それは同時に労働や刑事責任、契約といった重い判断が「自己責任」のもとで課されることになり、相対的に弱い立場にある存在(特に幼い子ども)が過剰な負担を強いられ、深刻な被害を被る可能性がある。

“区別”がなくなれば自由も広がるけれど、そのぶんリスクや格差が剥き出しになってしまい、必ずしも社会全体にとっての幸福や安全を保証するわけではないという点は慎重に見極める必要がある。そう考えると「大人」と「子ども」の間に線が引かれているのは、単に習慣や制度としてだけでなく社会の安定を保つために必要な仕組みなのかもしれない。

歴史的に見ると、「子どもは特別に守られるべき存在だ」という概念は割と近代になって生まれたコンセプトらしい。昔は子どもも“小さな大人”とみなされ、すぐにでも労働に駆り出されるのが一般的だった。現代の「子ども」という概念は、近代の哲学や教育思想、産業革命などを経て形作られてきたとのこと。自分もそうした現代社会に生まれ育っている身だからか、やはり基本的に子どもは社会全体で保護され、支援されるべき存在であると考える。国民の三大義務の一つに「子どもに教育を受けさせる義務」があるように、よりよい社会を築き上げていくためには教育が重要であると常々感じている。一方で、“洗脳”と“教育”の棲み分けというのも、すごく難しい問題ではないだろうか……。

最近は家族や友人を含め、身近な人の子どもと触れ合う機会も増えてきた。私は「大人」として「子ども」にどのように接するべきなのか、その責任と義務について考えさせられる。

Photos: Courtesy of Taira Text: Taira Editor: Nanami Kobayashi

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