広島市の中心部で「おむすび行商」を営む27歳の女性がいる。東果穂さんは契約社員として携帯電話販売代理店で働いていたが、仕事をやめ、2024年3月にリヤカーを引いておむすびを売り歩く“行商”になった。なぜ行商を始めたのか。東さんの素顔にインタビューライターの池田アユリさんが取材した――。
2坪弱の厨房で、毎日70合のご飯を炊く
広島駅から路面電車で20分、そこから少し歩くと中区富士見町のビル1階にあるシェア型クラウドキッチン「ホーミーズキッチン」の看板が見える。この場所が、東果穂ひがし・かほさん(27)の仕事場だ。昨年3月に8つある厨房のうちの1つを借り、おむすび屋台「That's rice」の店主としておむすびを販売している。
1月末の平日の朝、私が訪れると、2坪弱ほどの厨房内で髪を一つにまとめてエプロン姿の彼女が忙しそうに動き回っていた。
「今日は何合炊いたんですか?」と聞くと、「70合くらいです」と果穂さん。
「70合⁉」と、思わず聞き返してしまった。
果穂さんの仕込みは、夜中の3時から始まる。業務用炊飯器2台と雑穀米用の炊飯器1台を稼働させて、約18種類のおむすびとサイドメニューの調理と包装、そして販売を1人でこなす。そのため、仕込みに6時間以上かけるという。週末は家族連れや観光客らで1日170個ほど売れるため、深夜から作り始めることもあるそうだ。
営業時間が近づくと、両手で抱えるほど大きな木箱2つに、具がぎっしり詰まったおむすびが並ぶ。人気のメニューは「だし巻き明太子(380円)」と「シャケ(330円)」。冬季限定で予約販売の「牡蠣バターのおむすび(700円)」もオススメだという。
「常連さんが味に飽きないようにしたいって思っていたら、種類がどんどん増えちゃいました」と果穂さんは言う。
約150キロのリヤカーを引いて歩く
果穂さんは店舗を持たず、厨房を借りている。そうした厨房はシェア型クラウドキッチンと呼ばれ、コロナ禍以降に広がった。これは「複数の店舗が集まり、設備が整った厨房でデリバリーやテイクアウトに特化した料理を作る施設」のことで、店をいきなり構えるよりも開業資金が少なく済む。そのため初めて起業する20代、30代の出店者が多いそうだ。ただ、彼女の販売方法は独特だった。
広島の繁華街やオフィス街を、リヤカーで売り歩く――。まさに「行商」スタイルなのだ。しかも、そのリヤカーは約150キロの重量があるという。女性が運ぶにはあまりにも重い、と感じた。
午前11時、リヤカーにおむすびを乗せて、果穂さんは営業を開始した。真冬の寒空の中、果穂さんはどんどんと進む。販売する時は「なるべく目立つように」と白い服を着る。けれど、過度なおしゃれはしない。「リヤカーを見つけた人から好感を持ってもらうには?」を考えてのことだという。
リヤカーが坂道や段差を通ると、看板にくくられた鈴がチリリンと鳴る。懐かしい音色だ。路面電車が行き交う広島の町に、おむすびが描かれた暖簾を付けたリヤカーがやってくる。そう考えるだけで、なんだかワクワクした。
リヤカーが出発してすぐ、「初めて買う」と言う男性がおむすびを2個買っていった。その後、果穂さんが広島本通商店街の脇道に到着すると、次々と客が訪れた。
「姉さん、今日のオススメあるかい?」
「果穂ちゃん、がんばってね」
「ラッキー! 会えたから買おう」
男女年齢問わずさまざまな客がリヤカーに集まる。広島市内で、彼女を知る人は想像以上に多かった。
新聞やテレビで取り上げられ、広島の「時の人」になった果穂さんだが、昨年3月に開業した当初は、1日に3個しか売れなかったという。リヤカーを引くと好奇の目を向けられ、内気な性格も相まって、公園の片隅で小声で売ることしかできなかったという。
なぜ「おむすび行商」を始めたのか。そして、なぜここまで変われたのか。今日までの道のりには、果穂さんの反骨精神と、厳しくてやさしい“両親の言葉”があった――。
厳しく育てられた4人姉弟の長女
果穂さんは1997年、瀬戸内海沿いに位置する広島県呉市の田舎町で生まれた。鉄板焼き屋を営む両親の影響で、中学生になると率先してお店を手伝うようになる。
「父はめっちゃ厳しい人で、甘やかされた記憶がないくらい」と彼女が言うように、父からは「人のせいにする人間になるな」と言われ続けてきたという。とはいえ、友達と遊ぶよりも両親や3人の弟たちと過ごすことが好きだった果穂さんは、「ずっと家で暮らしたい」と思っていた。
青天の霹靂だったのは、中学1年生の時。父から「10代のうちに家を出なさい」と言われたことだ。果穂さんは「なんでじゃ」と驚き、目に涙を溜めながら父を睨んだ。
もっとも、父には「自分らが死んだ時、誰かに依存したままおったらどうするんや」という思いがあった。だが、その気持ちをまだ理解できなかった果穂さんは、あまり父と口を利かなくなった。
地元の高校を卒業後、東広島にキャンパスがある近畿大学に合格したことをきっかけに、嫌々ながらも18歳で一人暮らしを始める。絵を描くことやインテリアが好きだった果穂さんは建築学科へ進学した。
だが、同級生らは建築士の資格を取るために入学しており、「なんとなく好きだから」で入った彼女とは温度差があった。課題で出された模型を一緒に作る仲間はできたが、遊びに行くような友達はできなかった。果穂さんは「弟がいて賑やかだった分、誰もいない部屋で食事をしている時が余計に心細かったです」と振り返る。
家族がいる呉市に戻りたかったが、両親には甘えられない。果穂さんは学ぶ意欲を失い、休学。21歳で大学を中退した。その後、果穂さんは人間関係で悩むことになる。
既定路線への疑問…見つけた「リヤカー販売」という希望
大学を辞めた後、契約社員として広島市にある携帯電話を販売するイベント会社に派遣され、自立の道を模索した。催事で携帯電話を売る仕事は楽しかったが、一つの店舗に常駐する仕事は苦痛で仕方がなかったという。
「全員が付けているインカム越しに上司から嫌味を言われたり、些細なことで怒鳴られたりしたこともありました。売り上げに貢献すれば喜ばれると思ったんですけど、逆に白い目で見られてしまって。『頑張っても意味ないや』って思っちゃったんです」
接客で笑顔を作ることさえ辛く感じたある日、ふと、母から言われたことを思い出した。
「あなたは自分で仕事をする方が向いているよ」
彼女も以前から「誰もしていないことに挑戦したい」「両親のように飲食店をしてみたい」と思っていた。会社員という既定路線への疑問、人間関係への苛立ち……。彼女は母の言葉を信じた。
上司に「うまくいくはずがない」と笑われた
ただ、「1人でできる仕事」は思ったよりも少なかった。悶々としながらSNSを眺めていると、福岡県でわらび餅をリヤカーで販売する投稿を見つけた。
「これなら、1人でできるかも!」
さっそく果穂さんは、リヤカーでわらび餅を販売する構想を練る。「どこで売るか?」と考えた時、頭に思い浮かんだのは地元・広島だった。
2012年頃、観光PRとして話題を集めた「おしい! 広島」というキャッチコピーがある。「原爆ドーム」「お好み焼き」「もみじまんしゅう」など観光資源が豊富な広島だが、それ以外はあまり知られていないことを自虐的に表したフレーズだ。果穂さんは、地元の人間として「惜しいって、なんだかな」とモヤモヤを感じていた。
「リヤカーを引いて歩いたら、広島が活気づくかもしれない……」
そう思った彼女は、A4サイズのノートに起業に向けての情報を書き留めていった。
2023年の12月、契約社員として勤務していた会社を退職。「リヤカーで飲食販売をするので辞めます」と伝えると、上司に「うまくいくはずがない」と笑われた。果穂さんは心の中で「絶対成功するぞ」と、一層決意を固めた。
クラウドキッチンに着目
果穂さんが社会に出てモヤモヤを抱えていた2020年頃、広島市中区富士見町にシェア型クラウドキッチン「ホーミーズキッチン」が立ち上がっていた。同社の代表・小南慶次郎さんは「コロナ禍の情勢を受けてのことでした」と語る。
「その頃、アメリカでキッチンをシェアして運営するゴーストレストランがあると知りました。広島ではまだクラウドキッチンがなく、Wolt(デリバリーサービスのアプリ)が導入されるニュースも流れていて、『これはもうやるしかない!』って思ったんです」
ビルの1階に位置するホーミーズキッチンは、大通りに面しているものの、広島駅から離れており、飲食店をするには不向きな場所といえる。だがデリバリーの拠点なら、さほど大きな問題はない。また、初期費用はお店を構えるより安価なことから、「出店したい」という希望者からの問い合わせが増えていた。
果穂さんは、かねてからこのホーミーズキッチンに注目していた。起業に向けての下調べをするなかで、お店を構え、厨房機器をイチから揃えると1千万円近くかかる。けれど、クラウドキッチンに出店するならば、貯金内で開業できると思ったのだ。
会社を辞めた後、果穂さんは起業への準備を始めた。開業資金100万円を貯金から捻出し、ホーミーズキッチンの厨房の1つを借りた。
祖父が手作りしたリヤカー
当初、果穂さんはわらび餅店をしようと考えていた。とすると、簡素なリヤカーでは真夏の気温に耐えられない。いくら器用な果穂さんでも自作するのは難しい。すると、ものづくりを生業にしていた彼女の祖父が、リヤカーの製作を引き受けてくれた。
カートの土台はステンレス製の断熱材で囲み、天井には波板の屋根を設置した。食べ物が痛まないような工夫が施された作りで、果穂さんはリヤカーの出来映えに驚いたという。製作には材料費と加工費を含めて約40万円を要した。食材や備品などの出費で元手がなかった果穂さんは、祖父に「経営が軌道に乗ったら、返させてほしい」と頭を下げた。
ところで、リヤカーを利用した飲食店経営は、「行商」という枠組みになる。自治体で行われる食品衛生責任者の養成講習会を受け、保健所に申請すれば販売が可能だ。
ただ、リヤカーの場合でも調理工程が必要な場合は「移動販売」扱いになる。果穂さんはリヤカー内でわらび餅にきな粉を足そうと考えていたが、行商は営業許可の取れた調理場でパッケージし、移動中に調理を施さないものに限る。また、移動販売だと、販売する場所で駐車するための許可が必要になってしまうことがわかった。
そこで、果穂さんは事前に調理を済ますことができるおむすびに方向転換。幸い、祖父の作ったリヤカーの断熱性がしっかりしていたため、夏も冬も外気の影響を受けにくかった。
だが、装備がしっかりしているため、リヤカーの重さは150キロを超えていた。果穂さんは「平坦はいいんですけど、坂道だとすごく重いんです」と笑みをこぼす。
1日3個…公園でひっそり売る日々
それまでおむすびについての知識がなかった果穂さんだが、お米の炊き方や具材の組み合わせ、握り方などを手探りで研究した。お米は地元にある米農家から仕入れ、具材は惜しみなく使うことにこだわった。「これだ!」と思うものに辿り着くまで、半年を要した。
2024年3月23日、屋号をおむすび屋台「That's rice」と名付け、プレオープン。まずは広島市内にある本通りや大手町、平和公園辺りを周って販売しようと計画。だが、その日は3個しか売れず、さらには移動中にリヤカーが壊れるというハプニングにも見舞われた。
※編註:初出時、プレオープンを2023年3月としていましたが、2024年3月の誤りでした。訂正します。(2025年3月22日13時50分追記)
取材の日、ホーミーズキッチンに来ていた果穂さんの母が、その日のことを教えてくれた。
「どんなもんかなと思って、後をついて行ったんです。そしたら、リヤカーの取っ手が外れて横転してて……。周りの人にすごく見られて、本人も恥ずかしいっていうのがあったんでしょうね。車で迎えに行くと、助手席で泣いていました。でもね、私も夫も、『続けることが大事だよ』って伝えました。『商売っていうのは、すぐにうまくいくもんじゃない。何カ月も、もしかしたら何年も苦労することが当たり前だよ』って」
両親から背中を押されたものの、果穂さんはしばらく自信が持てず、公園の片隅でひっそりと売った。
食材の原価や賃料、水道光熱費などがかさみ、気が付けば200万円の赤字。売り上げも少なく、自由に使えるお金もない。考えたくなくても、前職で否定的な言葉を投げかけられた記憶がフラッシュバックしてしまう……。惨めな気持ちを抱えながら、修理したリヤカーでおむすびを売り続けた。
転機となったYouTube
2024年11月、飲食店を撮影しているYouTubeチャンネルに取り上げられた。その動画が2カ月で450万回以上の再生数を記録。それをきっかけに多数のメディアから取材を受けるようになり、果穂さんは地元のみならず“話題の人”になった。
※編註:初出時、YouTubeチャンネルに取り上げられた時期を2023年11月としていましたが、2024年11月の誤りでした。訂正します。(2025年3月22日13時50分追記)
ここから果穂さんの環境は一気に好転する。900人ほどだったSNSのフォロワーは10倍に。おむすびの販売数は1日120個を超えた。3個しか売れなかった頃が嘘のようだった。
忙しくなったからといって、提供する商品の品質を下げたくない。以前は朝7時頃からおむすびを仕込んでいたが、どんどん時間が早まり、太陽が昇る前から始めるようになった。「もっと効率的にしなくちゃとは思うんですけどね。でも最近、おむすびを作る速度が上がりました」と果穂さんは言う。
「いったい、いつ休んでいるのだろう?」と心配になるが、現在は月・火曜を定休日に。休日を具材の仕込みに充てる日はあるものの、1週間のうち1日はしっかり休むようにしているという。
おむすびについて語る彼女は、経営者の顔だ。
「原価率は、なるべく4割に収めるようにしてて。だし巻き明太子のような人気メニューは利益が出にくいけど、あえて出します。逆に利益が出やすい梅のおむすびはコンビニでも買えるし、出す意味あるんじゃろうかと思ったけど、さっぱり系のものとがっつり系のものを合わせて買うお客さんが多いから、どちらも出す意味があるんです」
若さや見た目に注目するコメントが怖かった
果穂さんの事業は上り調子となったが、反響ゆえの代償もあった。
自分を知ってもらうきっかけを作ってくれたメディアをありがたいと思う反面、「おにぎり美人」と紹介されることに戸惑うこともあった。
「ネットでの書き込みのほとんどが応援のメッセージだけど、『若いから注目されてる』みたいなネガティブなコメントもあって、正直怖いって思いました」
通りすがりにひどい言葉を受けることもあった。男性2人組がやって来て、「どうせ宗教の勧誘をするために、若い女の子が雇われているんでしょ?」と言われた時は、果穂さんは悲しさと悔しさが一気にこみ上げたという。
彼女は常連客に現在地を伝えるため、販売をしているところをInstagramでライブ配信しているのだが、「実は、自衛の意味もあるんです」と教えてくれた。
以前、買う気がない男性に追いかけられることがあった。リヤカーに三脚を付けてライブ配信をしていることに気が付くと、その人は何も言わずに去っていったそうだ。
「食べてもらえば、きっとわかってもらえる」
見知らぬ人たちから心無い言葉を投げつけられるストレスは、計り知れない。だが、果穂さんは「辞めよう」とは思わなかった。
「ネットで『3年後はどうなるかわかんないね』みたいなことが書いてあったり、道行く人に『かわいそうにね』って言われたりすることもあって、悔しかったです。そういう意見もあるから、『やってやる!』って思います」
「内向的だった」という果穂さんは、かつての彼女ではなかった。「ホーミーズキッチンの先輩たちや、応援してくれる常連さんたちがいてくれたからです」と果穂さんは言う。
「最初の頃は、フォローしてくれたら割引するとか、SNSに広告を出すとかした方がいいのかなって思ったんです。でも、クラウドキッチンの出店経験がある経営者さんに相談した時、『それよりも、どれだけ美味しいものを作るか、いかにお客さんを楽しませるかが大事だよ。払いたいって思ってくれる本当のお客さんを増やさなくちゃ』って言われて。自分の考えを改めるきっかけになりました」
広島市で美容サロンを営む30代の女性は、彼女のおむすびを気に入り、たくさん買っては周りの人に配って紹介してくれた。その人から「美味しいからまた買うね」と言われたことが、果穂さんは心の底から嬉しかったという。
また、批判的な言葉をかけてきた客から、「失礼な態度を取ってごめんなさい。すごく美味しかったです」とダイレクトメッセージ(DM)が来たこともあった。
「認めてもらえるようなおむすびを作って、接客を大切にしていれば、きっとわかってもらえる」
彼女はそう思い、暑い日も寒い日もリヤカーでおむすびを売り続けてきたのだ。
キッチンに集う若き経営者たち
ホーミーズキッチンには経理担当が在籍しており、出店者の売り上げをまとめている。手数料として毎月の売り上げから3%を引いた金額が出店者の手元に戻るという。駆け出しの起業家にとって、事務作業に追われずに済むのはありがたいことだろう。
ただ、クラウドキッチン側の利益が3%というのは、少ないように感じた。ホーミーズキッチンの代表・小南さんはこう答えた。
「出店者さんが成功していくことが理想なので、そこで利益を出そうと思っていないんです。その人が倒れてしまっては元も子もないですし、そんな商売は長続きしないと思っています。その人たちがどんどん育って、経営者が増える方がいいじゃないですか」
また、果穂さんが一気に注目を集め、てんてこ舞いになっているのを知った小南さんは、ホーミーズキッチンで出店している各店舗への問い合わせを、代わりに対応することにした。そのおかげで、果穂さんを含む出店者は、取材や問い合わせの対応に追われることなく事業に集中できるようになった。
もっと自分を出していい
「この1年間の中で、一番大きな変化はなんでしたか?」と聞くと、果穂さんは少し考えてこう答えた。
「今までと生活が変わったことで、もともとの性格とは別というか……外向的になったのが私的に1番印象深いです」
開業から10カ月経った昨年11月、果穂さんは初めて黒字化を達成。翌12月は売り上げが100万円になった。とはいえ、経費を差し引くと手元に残る金額はほんの僅か。まだまだ店は綱渡りの状態であることに変わりはない。
だが、彼女は次なる目標を見据えている。
「スタッフを雇って、大きくなくてもいいから2、3店舗くらい出したいです。今まで誰かに仕事をお願いしたり、指示を出したりしたことはないけど、やれるようにならなきゃ。やるしかないって思います」
果穂さんは10代の頃に父から「家を出るように」と言われ、少なからず恨んだことがあった。そこから気持ちの変化はあったのだろうか。
果穂さんは「今は、一人暮らしの方がいいです」と笑う。また、「実は、(経営や接客については)父からのアドバイスを実践してるんです」とも教えてくれた。
「若い時って守りに入ってしまって、恥ずかしいことはしたくないって思いがちだと思うんです。私も実際、リヤカーで歩くのは恥ずかしいって思ってました。でも、父から『失敗したことはどんどん表に出せばいい。もっと自分を出した方がいいよ』って。それからは売れなかった時や厨房でミスした時も隠さなくなりました。私の性格を一番知るのは、やっぱり親なので」
池田 アユリ(いけだ・あゆり)
インタビューライター
愛知県出身。大手ブライダル企業に4年勤め、学生時代に始めた社交ダンスで2013年にプロデビュー。2020年からライターとして執筆活動を展開。現在は奈良県で社交ダンスの講師をしながら、誰かを勇気づける文章を目指して取材を行う。『大阪の生活史』(筑摩書房)にて聞き手を担当。4人姉妹の長女で1児の母。