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夫は自害という説も……。離縁させられたあさひだけではない!政略に翻弄された戦国の姫たちと秀吉の母・なか

  • 2026.10.24

*TOP画像/あさひ(倉沢杏菜) 大河ドラマ『豊臣兄弟!』40話(10月18日放送)より(C)NHK

 

『豊臣兄弟!』(NHK総合ほか)ファンのみなさんが本作をより深く理解し、楽しめるように、40代50代働く女性の目線で毎話、作品の背景を深掘り解説していきます。今回は戦国時代において「政略のために離縁させられた姫たち」について見ていきましょう。

 

 

▶あさひの離縁は家康と秀吉、どちらのたくらみか

あさひは無理やり離縁させられ、家康の妻に……。秀吉と家康は義兄弟に

豊臣秀吉は関白に就任すると、徳川家康を家臣として服従させようと必死になります。そして、家康に上洛をうながすため、家康のもとに使いを出しました。

 

家康は秀吉の思惑を鋭く察し、上洛をためらっていました。そこで、秀吉は一手を打ちます。妹のあさひを家康の妻に迎えるよう、縁談を持ちかけたのです。このとき、家康は正室・築山御前をすでに失っており、正室はいませんでした。一方、あさひにはすでに秀吉の家臣・佐治日向守という夫がいましたが、秀吉は二人を強引に離縁させ、あさひを家康のもとに送りました。

 

なお、いくつかの諸説があるものの、あさひと日向守が愛し合っていたのは確かで、日向守は秀吉の強引なやり方に納得できず、“自殺した” “行方不明になった”という説もあります。秀吉は「あさひと離縁したら、5万石やるぞ!」と、あさひと日向守に配慮したものの、それでも納得できるものではなかったのです。一方、あさひが日向守との離縁をどう思ったかは想像の域を出ませんが、当時においては家の方針に静かに従うのが一般的でした。

 

あさひと家康は表向きは結婚でしたが、あさひは実質的には“人質”でした。秀吉はあさひを家康に預けることで、“大坂に来ても身の安全は保証する”というメッセージを暗に送ったのです。

 

二人の結婚時、あさひは44歳、家康は45歳。武士の平均寿命が40代ともいわれる時代にあって、高齢ともいえる年齢での政略結婚でした。家康があさひに惚れ、迎えたわけではありません。秀吉から“押しつけられた縁談”に、政治的に応じざるを得なかったというのが実情です。それでも、家康はあさひに対して冷たく接することはなく、優しく接していたと伝わっています。

 

▶実質的に‶人質‶だったあさひ。さらに……

70歳前後のなかも人質に!?老いた母ちゃんを人質に出した秀吉

家康はあさひを正室に迎え入れても上洛しなかったため、体調を崩したあさひの“見舞い”という建前で、秀吉は母・なかを家康に人質として出しました。

 

本来、人質とは、立場の下の者が上の者に対して差し出すものです。秀吉の方が家康より上位にありながら、妹に続き、母まで送るという行為は、周囲をおどろかせました。

 

我が家に敵意を抱く相手のもとへ、70歳前後の母親を人質として送り出すなど、常識では考えられません。秀吉に勝算があったとはいえ、身の危険はありますし、大坂と岡崎(愛知県)の行き来は、当時の移動手段などを考慮すると、老体に堪えます。

 

家康が大坂の秀吉のもとに出向いている間、なかとあさひの宿所の周囲は薪で囲まれ、家康に万一の事態が起きれば、二人を焼き殺せるよう備えられていたという説も残っています。

 

家康は本意ではなかったものの、大坂城で秀吉と正式に対面し、深々と頭を下げて臣従を誓いました。その後、無事に岡崎へ帰還しました。

 

なかは70代後半まで生きましたが、あさひは豊臣家の中では短命で、48歳にして病によりこの世を去りました。

 

▶戦国時代に離縁させられた女性たち

黒田長政はいとと離婚し、家康の養女を妻にした

蜂須賀正勝の娘であり、秀吉の養女であるいとは、黒田官兵衛の息子である長政の正室でした。それにもかかわらず、関ヶ原の戦いを前にした時期に、長政は徳川家康の養女・えい(家康の異父妹の娘)を正室として迎え入れたのです。このとき、長政といとの間には4歳になる娘・きくがいました。

 

長政はえいと結婚し、家康との関係を強固にするために、いとと離縁したのです。婚姻関係を解消されたいとは阿波の実家に帰され、のちに出家し、「宝珠院」と名乗りました。蜂須賀家と黒田家はしばらく疎遠になったといわれています。

 

戦国時代の女性は自分に妻として落ち度がなかったとしても、“〇〇家との関係を強固にしたくなった” “嫁ぎ先と実家の関係が嫌悪になった”といった理由で、実家に帰されることは多々ありました。

 

豊臣秀吉の死から約2年しか経っておらず、豊臣家から厚い信頼を得ていた大名・正勝の娘であっても、政略結婚の犠牲となり、悲しい運命は避けられませんでした。

 

当時の女性がこうした離縁をどう思ったかは資料がないため分かりかねますが、家(実家)に従うのが一般的で、反抗したという話は聞きません。

 

<参考資料>

入澤宣幸『大判ビジュアル図解大迫力!写真と絵でわかる日本史人物ナンバー2列伝』西東社 2014年

二木 謙一 (監修) 『図解戦国合戦がよくわかる本: 武具・組織・戦術から論功行賞まで』PHP研究所、2013年

楠戸義昭『女直虎が救った井伊家』ベストセラーズ、2016年

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