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「まあ、代わってあげればいいのにね」と小声で言った俺が、あの夫婦の前で慌てた本当の理由

  • 2026.10.21
ハウコレ

通路の向こうで、何度も首を振る若い女性。その姿を見ながら、俺は隣の後輩に顔を寄せていました。自分の席だけは、譲れない理由があったのに。

膝に載せた鞄の中には、出張資料のファイルが入ったままでした。帰りの列車は混み合い、自由席の車両からあふれた人がデッキにも立っていました。あのとき後輩にこぼした小声が、あんな形で返ってくるとは思っていませんでした。

着いたらすぐ得意先へ

窓側に座るのは、同じ出張帰りの後輩。駅に着いたらそのまま得意先に寄って、提案の説明をする予定でした。列車にいる間に資料を見直しておかなければ、間に合いません。

ところが、鞄のファスナーに手をかけたところで、通路の向こうがざわつき始めました。

年配の夫婦が、通路を挟んだ隣の列の前で足を止めています。通路側の席は空いていて、窓側ではイヤホンをした若い女性が外を眺めていました。夫婦に声をかけられた彼女がイヤホンを外して首を横に振ったところへ、連れの女性が戻ってきます。

首を振り続ける窓側の女性

「自由席がいっぱいなんだよ。若いんだから代わってくれてもいいだろう」

「ここは予約して取った席なので、すみません」

同じやりとりが、すぐ横で何度も繰り返されました。ファイルを取り出すタイミングを逃したまま、鞄を膝に載せて聞いているしかありません。

自分は仕事があるから譲れない。でも、旅行中らしい彼女なら、少しくらい立っていても困らないはず。早く譲ってくれれば、この落ち着かない空気も終わる。そんな考えが頭から離れず、気づけば後輩のほうへ顔を寄せていました。

「まあ、代わってあげればいいのにね」

「ですよね」

後輩の軽い相づちに、少しだけほっとしたのを覚えています。

その声が、俺たちのほうを向いた

「こちらの方々が代わってくれるそうですよ!ありがたいですよね」

通路に立っていた連れの女性が、こちらに手のひらを向けていました。周りの乗客が一斉に顔を上げ、夫婦も振り返ります。

「えっ、いや……」

続く言葉を探しているうちに、後輩はスマホの画面に目を落としていました。

夫婦の視線が、まっすぐこちらに向いています。ここで譲れば、得意先での説明は準備不足のまま。譲らなければ、さっきの言葉がそのまま自分に返ってくる。どちらを選んでも、言い逃れはできない状況でした。

膝の上の鞄を抱え直して、早口で言いました。

「すみません、仕事の資料があるので」

予約して取った席を譲れないのは、窓側の彼女も同じだったはずです。

年配の男性は、短く鼻を鳴らしました。

「なんだ、口だけか」

夫婦はそれ以上何も言わず、デッキの扉の向こうへ歩いていきました。

そして...

ようやく席に着いた2人のほうから、小さな話し声が聞こえてきます。そちらへ顔を向けられず、鞄を膝に抱えたまま窓の外を眺めていました。後輩とも、それきり言葉を交わしていません。

自分に譲れない理由があるように、彼女にも理由があった。そんな当たり前のことを、座ったまま見落としていました。頭を下げに行くきっかけを探しているうちに、列車は降りる駅に近づいていきます。

仕事の資料は鞄にしまったまま、ホームに降りました。

(30代男性・営業職)

本記事は、読者アンケートに寄せられた実体験をもとにした本人視点の記事を参考に、相手側の心情を想定して制作しています。実際の相手本人への取材ではなく、編集部による解釈を含みます。

(ハウコレ編集部)

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