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賛否両論の暴露本。ダイアナ元妃の弟が明かした「11の衝撃的な事実」

  • 2026.10.2
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1997年8月31日の悲劇から、2027年で没後30年を迎えるダイアナ元妃。その大きな節目を前に、弟チャールズ・スペンサー伯爵が刊行した回顧録『Swan Song』が世界中で大きな波紋を広げている。

事故死直後のやり取りを巡り王室が異例の声明を発表したことで注目が集まるが、本書で明かされた内容はそれだけにとどまらない。チャールズ国王との結婚生活における葛藤をはじめ、幼少期の複雑な家庭環境、名門スペンサー家と王室の知られざる歴史まで、語られるテーマは多岐にわたる。誰よりも近くで姉を見てきた弟が綴る記憶の中から、知っておきたい要点をまとめる。

Princess Diana Archive / Getty Images

チャールズ皇太子が発した「世間はすぐに彼女を忘れる」という発言

本書における最大の告発といえるのが、1997年8月にダイアナ元妃がパリで事故死した直後、当時のチャールズ皇太子とスペンサー伯爵が交わした2本の電話についての記述だ。

最初の電話について、伯爵は「チャールズは浮かれたように喜んでいた。まるで宝くじに当たったかのようだった」と振り返る。愛していなかった元妻を失った悲しみよりも、この悲劇によって深く愛するカミラとの再婚に道が開かれた可能性を真っ先に考えたに違いない、と伯爵は推測している。

だが、葬儀の手配を巡って交わされた2本目の電話は、さらに衝撃的なものだった。当時15歳と12歳だったウィリアム王子とハリー王子を棺の後ろに歩かせるべきか否かを巡り、2人は激しい口論へと発展する。怒りを一方的にぶちまけ続けたチャールズ皇太子は突然沈黙したのち、低い声でこう言い放ったという。

「安心してください。すぐに彼女のことは忘れますよ!」

Princess Diana Archive / Getty Images

その信じがたい言葉に絶句した伯爵は、数秒の静寂の後、「あなたが今、そんなことを口にするなんて信じられない」と冷ややかに返して電話を切ったと明かしている。

普段は沈黙を貫く英王室だが、今回のこの暴露に関しては異例の対応を見せた。

王室報道官は「兄弟姉妹の死が引き起こす悲しみは理性を曇らせ、判断力に影響を与え、他の人には理解できない形で記憶を歪める可能性がある。そのことを国王は深く認識している」との声明を発表。伯爵の主張を“悲しみによる記憶違い”として事実上退ける姿勢を示した。

これに対し伯爵は、テレビのインタビュー番組で「国王からガスライティング(心理的誘導で正気を疑わせること)されるなんて、滅多にあることではないね」と皮肉を込めて再反論している。

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エリザベス女王による「殿下」称号復活の申し出と辞退

1996年にチャールズ皇太子(当時)との離婚が成立した際、ダイアナ元妃から剥奪された「殿下(HRH)」の敬称。回顧録では、彼女の葬儀当日にエリザベス女王側からこの称号を死後に復活させたいという打診があった事実が明かされている。

ウェストミンスター寺院での国葬を終え、埋葬地であるスペンサー家の私有地オルソープ邸へと向かう王室専用列車の中でのこと。ダイアナの義兄(姉ジェーンの夫)であり、女王の個人秘書官を務めていたロバート・フェローズ卿が、伯爵を車両の隅へと招き入れた。

「女王陛下から電話がありました」とし、彼は「陛下はダイアナ妃に殿下の称号を復活させたいとおっしゃっています」と伝えたという。深い悲しみに包まれていた国民感情への配慮であり、王室からの最大限の歩み寄りの意思表示でもあったという。

だが、伯爵はその申し出をその場で辞退。女王の個人的な厚意には感謝を示しつつも、ダイアナ本人がもうこの世にいない今、死後に称号だけを戻されたところで何の意味があるのか、と考えたからだ。

生前、王室の厳格なしきたりや形式に縛られることなく、一人の人間として自由に生きることを求めたダイアナ元妃。亡くなった後に体裁を繕うような称号を与えられることを彼女自身が決して望まないだろうという、誰よりも近くで見守ってきた弟ならではの判断だと言えよう。

Dave Benett / Getty Images

母の棺の後ろを歩かされた幼い王子たちの葬儀行進と王室との激しい対立

1997年9月に行われた国葬で、母ダイアナ元妃の棺の後ろをうつむきながら歩いた当時のウィリアム王子とヘンリー王子。世界中が涙したあの行進の裏側で、スペンサー伯爵と王室の間に対立があった事実が明かされている。

伯爵は当初から、まだ15歳と12歳と言う幼い甥たちに過酷な精神的負担を強いる行進に強く反対していた。「ダイアナなら、我が子を大衆の好奇の目に晒すような真似は決して許さない」と訴えた伯爵に対し、チャールズ皇太子(当時)は自身が大叔父マウントバッテン卿の葬儀で棺の後ろを歩いた経験を引き合いに出して反論したという。だが伯爵が「ですが、あなたは当時30歳の大人でしたし、彼はあなたの母親ではなかったはずです」と言い返すと、皇太子は激怒したと振り返る。

最終的に伯爵が引き下がったのは、宮殿側から「王子たち自身が歩くことを望んでいる」と説明されたためだった。だが伯爵は、それが自身を納得させるための嘘だったと確信していると告白している。

Anwar Hussein / Getty Images

もしチャールズ皇太子が単独で歩けば、ダイアナ元妃を追悼する群衆から怒りのブーイングを浴びる恐れがあったため、幼い王子たちが批判をかわす“盾”として利用されたのではないか、という強い不信感を綴っている。

祖父フィリップ殿下が孫たちに寄り添って歩いたことで行進は実現したが、後にヘンリー王子は自著『スペア』や過去のインタビューで「どんな状況であれ、子どもにあんなことをさせるべきではなかった」と胸中を明かしている。王室の体裁を保つため、幼い少年たちに背負わせた代償の大きさを改めて浮き彫りにするエピソードだ。

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宮殿の事前チェックを回避。国葬の歴史的スピーチに実弟が込めた「チャールズへの反論」

1997年9月、ウェストミンスター寺院での国葬で世界中に中継されたスペンサー伯爵の弔辞スピーチ。「人々を惹きつけるために、ロイヤルの称号など一切必要としなかった」と語り、王室の堅いルールにとらわれず人々と接したダイアナ元妃の温かな人柄を称えた演説として記憶されている。本書では、この歴史的な言葉を巡る緊迫の舞台裏が明かされている。

当時、王室側はスピーチ原稿を事前に提出するよう求めていた。事前に見せれば強いメッセージ性を削られ、無難な内容に変えられてしまうと考えた伯爵は、寺院でのマイクチェックの際にとっさに「原稿を自宅に忘れてきた」とごまかしてその場を切り抜けたという。

さらに伯爵は、スピーチの結びで放った「ダイアナは私たちの心から決して消え去ることはない」という有名な言葉の真意にも言及している。事故直後の電話でチャールズ皇太子(当時)が口にした「世間はすぐに彼女のことなど忘れる」という冷ややかな言葉に対し、全世界の前で突きつけた直接的な反論であったと告白している。

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ダイアナ元妃が弟に明かした「夫は従者に恋をしている」という疑念

チャールズ皇太子(当時)との離婚が成立する直前、ロンドン・ナイツブリッジにある老舗イタリアン「サン・ロレンツォ」で密かに昼食をとったダイアナ元妃と弟スペンサー伯爵。元妃が私生活でも愛したこの老舗レストランで、元妃は弟に離婚の決意を告げたという。

伯爵は姉の決断を尊重しつつも、「世間はおとぎ話(完璧な結婚生活という幻想)を信じてきたため、その幻想を壊したとしてあなたを不当に責めるかもしれない」と、大衆の過剰な期待による反発を危惧したという。すると元妃は弟を見つめ、静かな声でこう打ち明けたという。「でもカルロス(スペンサー伯爵の愛称)、私の夫は自分の従者と恋に落ちているのよ」

このあまりの告白に、伯爵は「それなら、あなたに選択肢は残されていないね」と答えるのが精一杯だったとか。伯爵は本書の中でその職員の実名を明かさず、なぜそんな信じがたい話を姉が信じるに至ったのかも尋ねなかったと振り返る。「そんな詮索は重要ではなかった。彼女の結婚生活と夢が終わってしまったことこそが重要だった」と記している。

Stan Karczmarz / Getty Images

恋人とアフリカへ、ダイアナ元妃が極秘裏に英国脱出計画を進めていた

1997年3月、ダイアナ元妃は弟スペンサー伯爵が暮らしていた南アフリカ・ケープタウンを訪れた。表向きは甥の誕生日を祝う家族のプライベート旅行だったが、本書によれば、その真の目的は、当時交際していたパキスタン人心臓外科医ハスナット・カーン(写真)との移住を見据えた現地視察だったという。

息子2人が寄宿学校に入り、子育てが一段落しつつあった時期、元妃は過熱する英国メディアの追跡から逃れ、海外に新たな生活拠点を築く道を真剣に探っていたという。その計画は極めて具体的で、心臓移植の世界的権威であるクリスチャン・バーナード医師に自ら接触し、カーン医師が地元の名門病院での外科医としてのポストを得られるよう調査を依頼していたほどだったとか。

しかし、一人現地を訪れていた元妃は、ロンドンに残してきた恋人からの連絡を待ちわびて片時も携帯電話を手放せず、強い不安を募らせていたと伯爵は振り返る。ロイヤルファミリーのしがらみやパパラッチの喧騒を離れ、愛する人と静かに暮らす未来を模索したこの計画は、その後の破局と突然の事故死によって、永遠に幻のまま幕を閉じることとなった。

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ダイアナ元妃の生きづらさを分析。未診断のADHDと批判への過敏さ

スペンサー伯爵は、姉が抱えていた深い生きづらさの背景として、生前に正式な診断を受ける機会はなかったものの、ADHD(注意欠如・多動症)の顕著な特性を示していたと分析している。

幼少期の元妃について伯爵は、学習や集中力の面で明らかに大きな困難を抱えていたと振り返る。しかし当時の英国では発達特性への理解が乏しく、初期から明確な兆候があったにもかかわらず、生涯一度も検査を受ける機会がなかったと指摘する。

さらに伯爵は、自身の神経発達障害の経験を重ね合わせ、元妃が「拒絶過敏性不安症(RSD)」にも苦しんでいたと記述。これは他者からの拒絶や批判に直面した際、激しい感情的苦痛に襲われる症状のことだ。

傍からは全てに恵まれているように見えても、批判に晒された本人の内面には耐え難い絶望や痛みがあったと伯爵は語る。王室という特殊な環境下で、誰にも理解されない悩みを抱えながら孤軍奮闘していた、生身のプリンセスの内面を浮き彫りにする証言である。

Tim Graham / Getty Images

離婚後のダイアナ元妃、生家オルソープへの避難を断られた真相

チャールズ皇太子(当時)との離婚後、連日過熱するパパラッチの執拗な追跡から逃れるため、スペンサー家が誇る広大な領地、オルソープ邸への避難を望んだダイアナ元妃。プライベートな静寂を取り戻そうとした元妃が強く希望したのは、かつて姉ジェーンが子どもたちと暮らしていた敷地奥の「ガーデンハウス」だった。実弟スペンサー伯爵がこの申し出を拒絶したことで、世間から長年「困窮した姉を見捨てた」と非難されてきた騒動の真相が本書で明かされている。

伯爵によれば、居住を断らざるを得なかった理由は身内の不和ではなく、警察当局による安全上の判断だった。地元警察と共に現場を視察した際、ガーデンハウスは敷地内でも外部に露出しすぎており、「ここに入居した場合、同行するウィリアム王子とヘンリー王子の身の安全を守ることは不可能だ」と明確に通告されたという。伯爵は「彼女がそこに暮らすことは現実的な選択肢ではなかった」と語る。
そこで、敷地内にある別の安全な代替物件をすべて提案したものの、その場所に強い愛着を寄せていた元妃の納得は得られなかったという。

「公の場で過酷な重圧に晒されていた姉に対し、もっと何かできる支援があったのではないか」と伯爵は振り返っている。

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ダイアナ元妃の父と若きエリザベス王女の知られざる交際と引き裂かれた過去

本書で明かされた最も意外な過去の1つが、ダイアナ元妃の父である第8代スペンサー伯爵ジョン(愛称ジョニー)・スペンサーと、若き日のエリザベス王女(後のエリザベス女王)との知られざる関係である。ジョージ6世の侍従武官を務め、宮廷内で確固たる地位を築いていたジョンは、未来の女王と親密な恋愛関係にあったと書中で言及されている。しかし、その関係はルイス・マウントバッテン卿の介入によって終わりを迎えたという。

自身の甥であるフィリップ王子(後のフィリップ殿下)のために道を切り開こうとしていたマウントバッテン卿はジョンを呼び出し、「王女の寵愛を得ようとする野望は論外だ」と関係の解消を要求。王室への敬意と軍の規律に従いジョンは身を引いたものの、その後マウントバッテン卿に対して激しい憎しみを抱き続けたと伯爵は記している。 このロマンスと破局は一族の間で極秘とされていたが、1981年にダイアナ元妃とチャールズ皇太子(当時)が結婚する4日前、ジョンの叔母マーガレット・ダグラス=ホーム夫人が彼に宛てて手紙を送っていた。手紙には「このすべてを知っているのは私だけです。あなたの控えめな自己犠牲を心から尊敬します」と記され、かつて身を引いたジョンの娘が女王の息子と結婚するという巡り合わせへの驚きが綴られていたという。歴史の裏に隠されていた英国名門貴族と王室の深い結びつきを浮き彫りにする証言である。

Antony Jones / Getty Images

実父の相談なき再婚に平手打ち&継母レインを階段から突き落とした事件

ダイアナ元妃が内に秘めていた気性の激しさと、スペンサー家の複雑な愛憎劇についても生々しく記されている。

発端は1976年、父ジョン(第8代スペンサー伯爵)が、子どもたちに一切の事前相談もなくダートマス伯爵夫人レイン(写真右)と再婚したことだった。元妃ら姉弟はその事実を新聞報道で知らされ、オルソープ邸と所蔵品目当ての結婚だと警戒していたため失望は深かった。元妃は姉弟を代表して父の頬を平手打ちし、「あなたが私たち全員に与えている苦痛に対する報いだ」と言い放ったという。元妃が生涯で両親に手を上げた唯一の衝突であり、幼少期から抱いていた父親への敬愛は急速に冷え切っていった。

さらに決定的な亀裂が露わになったのは、1989年、弟スペンサー伯爵の結婚式前日のこと。オルソープ邸のお茶会に招かれた実母フランシスを、継母レインが使用人を使って別室へ隔離した。あからさまな冷遇を知った元妃は激怒し、「この人はカルロス(弟スペンサー伯爵の愛称)の母よ。まるで悪い子のように別室へ追いやるなんて!」とレインに詰め寄った。

中央廊下「サロン」で口論が激化する中、レインは冷酷な低い声で「あなたほど愚かな人と結婚したウェールズ公(当時のチャールズ皇太子)には、いつも本当に同情していました」と侮辱。激昂した元妃は足をレインのふくらはぎに絡ませ、階段から突き落としたという。幸いレインに大きな怪我はなく、無言でその場を立ち去った。

「はにかみ屋(Shy Di)」という従順なパブリックイメージの裏で、愛する家族の尊厳を守るためには激しい怒りも露わにしたダイアナ元妃。名門貴族スペンサー家の根深い亀裂と愛憎を象徴する一幕である。

Tim Graham / Getty Images

婚約後の「ぽっちゃり」発言。ダイアナ元妃の急激な減量と実弟の後悔

婚約発表からわずか数日後、チャールズ皇太子(当時)がダイアナ元妃の腰に手を当て、「あら、ちょっとぽっちゃりしているね」と口にしたエピソードも明かされている。この不用意な一言に深く傷ついた元妃は深刻な摂食障害を発症。ウェディングドレスの最初の採寸で29インチ(約74センチ)あったウエストは、挙式当日までに23.5インチ(約60センチ)へと急激に細くなっていったという。

挙式当日の朝、激痩せしたダイアナを見て「なんて美しいの」と無邪気に称賛の言葉をかけてしまったことについて、スペンサー伯爵は深い悔恨を綴っている。その細身のシルエットが健康美などではなく不健康な状態によるものであり、背景に「愛する男性から愛されていない」という絶望があったことを、当時の自分はまったく理解できていなかったと告白している。

華やかなロイヤルウエディングの裏で、家族ですら気付けなかったダイアナ元妃の痛切なSOSを浮き彫りにする証言である。

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