1. トップ
  2. エンタメ
  3. 斉藤壮馬の「ただいま、ゼロ年代。」第52回 堀江敏幸『雪沼とその周辺』

斉藤壮馬の「ただいま、ゼロ年代。」第52回 堀江敏幸『雪沼とその周辺』

  • 2026.9.21
斉藤壮馬の「ただいま、ゼロ年代。」アイキャッチ

堀江敏幸『雪沼とその周辺』

堀江智之『雪沼とその周辺』

最初に読んだのは高校生のころだったはずだ。何かの模試で一部の抜粋を目にし、問題を解かなければと思うのだが、その端正かつ滋味深い文章の虜となってしまった。

『雪沼とその周辺』。堀江敏幸さんによる、雪沼という土地を舞台にした静謐な連作短篇集について今回は語りたい。

2003年に単行本が、2007年に文庫が刊行されていて、ぼくが購入したのは後者だった。雪を思わせるくすんだ白い背景に、ぽつんと家が佇んでいる。寂しいようでいて、けれど不思議と落ち着く気もする装丁にも心を奪われた。

地方の小さな町・雪沼を中心に、そこで暮らす人々のささやかな生活を描く連作短篇集だ。まず冒頭の「スタンス・ドット」からして絶品である。

廃業当日の古いボウリング場に現れた若いカップル。トイレを貸してくれと言う彼らに、店主はラストゲームをプレゼントしようと思い立つのだが……。

斉藤壮馬

あらすじだけをまとめてしまえば、本当にそれだけの物語だ。けれど、堀江さんの人肌のような温度で流れる文章と細部を愛するまなざしが、えもいわれぬ深い味わいを生み出している。

タイトルにもなっている「スタンス・ドット」とは、ボウリングにおいて助走の際の目印になる点のことだ。通常、残りのピンの場所に応じて、スタンス・ドットを目安に立ち位置を変えていくのが定石である。

作中、ボウリングを楽しむカップルを眺めながら、店主の思考はほどけ、時空を超えて記憶と結びつく。思い出されるのは、妻のことや、かつての常連のこと。その中の一人、ハイオクさんにまつわるエピソードがとりわけ心に染み入った。

ハイオクさんは「どんなに複雑なピンが残された場合でも、ぜったいに立ち位置を変えなかった」。けれど「ハイオクさんの投げた球だけが、他と異なる音色でピンをはじく」。

その甘く、胎児の耳に響いている母親の心音のようなことの秘密を探ろうとした店主に、ハイオクさんはこう告げる。

「スタンス・ドットは、立ち位置を変えるためのものではなくて、それを変えないためのものなんだよ」

この本の中には、いや、雪沼という町には、そういうふうに自分のスタンスを持ち、日々の生活を営んでいる人々が住んでいるのだ。

もっとも、初読時ぼくは高校生。どちらかというと、内容やテーマというよりも、堀江さんの文章そのものに心を奪われていたと思う。

けれどそこから20年弱が経ち、いつのまにか作中の登場人物たちの年齢に近づいてきた今、彼ら彼女らのスタンスが、暮らしが、よりいっそう愛おしく感じられた。

2篇目の「イラクサの庭」も4篇目の「送り火」も、いや、収められているすべての短篇がそれぞれに淡い輝きを放ち、ささやくように語りかけられているような感覚になる、雪の結晶のような短篇集である。

テクストは変わらないのに、読み手の変化が如実に反映されるところも、読書の好きな点の一つだ。これから先、生活を重ねた先に再読したとき、どんなことを感じるのか。それを楽しみにしつつ、また今日を生きようと思う。

斉藤壮馬
斉藤壮馬
斉藤壮馬

profile

斉藤壮馬

さいとう・そうま/山梨県生まれ。声優。ゲーム『剣と魔法と学園モノ。2G』でデビュー以来、アニメを中心に活躍する。2017年に歌手デビュー。著書に『健康で文化的な最低限度の生活』(KADOKAWA)など。

元記事で読む
の記事をもっとみる

注目コンテンツ