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見えない“運命”を揺さぶった、“偶然”の出会い『急に具合が悪くなる』【小説家・榎本憲男の炉前散語】

  • 2026.6.30

小説家で、映画監督の榎本憲男。銀座テアトル西友(のちに銀座テアトルシネマ)や、テアトル新宿の支配人など、映画館勤務からキャリアをスタートさせた榎本が、ストーリーを軸に、旧作から新作まで映画について様々な角度から読者に問いかけていく「小説家・榎本憲男の炉前散語」。第16回は、『ドライブ・マイ・カー』(21)でアカデミー賞国際長編映画賞を受賞した濱口竜介監督の最新作『急に具合が悪くなる』(公開中)をピックアップ。原作の内容も踏まえながら、“偶然性”や“構造”といったキーワードをもとに、その物語を読み解いていきます。

【写真を見る】夜明けの山中で、マリー=ルーは真理に「決定的な問い」を投げかける

第79回カンヌ国際映画祭にて、主演の2人が最優秀女優賞を共同受賞したことでも注目を集めている [c] 2026 Cinéfrance Studios – Arte France Cinéma – Office Shirous – Bitters End – Heimatfilm – Tarantula – Gapbusters – Same Player – Soudain JPN Partners
第79回カンヌ国際映画祭にて、主演の2人が最優秀女優賞を共同受賞したことでも注目を集めている [c] 2026 Cinéfrance Studios – Arte France Cinéma – Office Shirous – Bitters End – Heimatfilm – Tarantula – Gapbusters – Same Player – Soudain JPN Partners

※本記事は、『急に具合が悪くなる』のネタバレ(ストーリーの核心に触れる記述)に該当する要素を含みます。未見の方はご注意ください。

「〈弱い〉運命論」に抗う学者ふたりの挑戦

最初にお断りしておきます。このコラムの方針は、映画をストーリーから論じるというものです。映像表現の豊かさを排してストーリーから映画を語ることが無粋であるのは承知の上での試みです。また、作家の他作品との関連は語りません。また、俳優論も排除します。ただその作品から受け取ったものを、ストーリーを中心としながら、行動よりもむしろ欲望に焦点を当てて語る、という基本姿勢を貫いています。

なので、原作があっても、それを参照したりはしなかったのですが、今回は例外です。僕は宮野真生子・磯野真穂による「急に具合が悪くなる」を映画観賞前に読んでいました。「予習」ではなく、原作そのものに興味を持ったからです。とはいえ、同書を手に取ったのは濱口竜介監督による映画の完成後で、宣伝がはじまった頃でしたが。ともあれ、今回に限っては原作と映画の関係を考えることも有効だと思い、原作も参照しつつ映画を語ってみたいと思います。

哲学者・宮野真生子と人類学者・磯野真穂が交わした20通の往復書簡によって構成される原作「急に具合が悪くなる」 著/宮野真生子・磯野真穂 発売中 価格:1,760円(税込) 晶文社刊
哲学者・宮野真生子と人類学者・磯野真穂が交わした20通の往復書簡によって構成される原作「急に具合が悪くなる」 著/宮野真生子・磯野真穂 発売中 価格:1,760円(税込) 晶文社刊

原作は、ステージ4の乳がんを患っている哲学者(宮野)と人類学者(磯野)で交わされた往復書簡です。宮野の乳がんは寛解の可能性がなく、いつ何時「急に具合が悪くなるかもしれない」状況にあります。そして、具合が悪くなってしまえば、あとは確率論に基づいた医療プロセスが用意されます。医者は確率論に則って合理的な余生を生きることを患者に薦めます(ここは宮野の医師がそうだということではなく、一般論です)。そうすると、私たちは、確率論的な未来から導き出された今の生(ライフ)を生きなければならなくなります。コロナ禍における私たちの生活はまさしくそのような色合いが濃厚でした。外出をすれば感染の確率が高いと言われてステイホームし、外食は危険視され、飲食店が時短営業を強いられたのは遠い過去のことではありません。

このように、医療現場には、確率論のレトリックを用いて合理的な行動へと誘導する、見えない構造(医師の説明やレトリックを含む)があり、それを人類学者の磯野は「確率論を装った〈弱い〉運命論」と呼んでいます。また、宮野はその閉塞感を自分が研究してきた近代の哲学者、九鬼周造の思想で打破しようとする。つまり、この書簡での会話は、死を合理的に整備する現代社会で、生を充実したものにしようとする学者ふたりの挑戦だと言えます。

マリー=ルーを自身が手掛ける舞台の公演に誘う真理 [c] 2026 Cinéfrance Studios – Arte France Cinéma – Office Shirous – Bitters End – Heimatfilm – Tarantula – Gapbusters – Same Player – Soudain JPN Partners
マリー=ルーを自身が手掛ける舞台の公演に誘う真理 [c] 2026 Cinéfrance Studios – Arte France Cinéma – Office Shirous – Bitters End – Heimatfilm – Tarantula – Gapbusters – Same Player – Soudain JPN Partners

しかし、これだけ思弁的な原作で映画を撮るのは挑戦的でしょう。映画はアクションで語るべしと言われ、べらべらと長い台詞が続くと「映画的でない」とか「台詞で説明している」などと批判が飛んできがちです。なので、ステージ4の癌患者である真理(岡本多緒)が現代演劇の演出家であり、彼女と出会い、ともに生の充実を探ろうとするパートナーのマリー=ルー(ヴィルジニー・エフィラ)は、パリで認知症の介護にたずさわる医療従事者になっています。これは納得できる設定ですね。ただ、がんと戦う演出家にはソルボンヌ大学で哲学を、介護のスペシャリストには早稲田大学で文化人類学を学んだというアカデミックなバックグラウンドは残しています。よってこの映画はなかなかに饒舌なのです。

二律背反の中で葛藤するマリー=ルー

1979年に、フランスの体育学者イヴ・ジネストとロゼット・マレスコッティらによって開発されたケア技法、“ユマニチュード” [c] 2026 Cinéfrance Studios – Arte France Cinéma – Office Shirous – Bitters End – Heimatfilm – Tarantula – Gapbusters – Same Player – Soudain JPN Partners
1979年に、フランスの体育学者イヴ・ジネストとロゼット・マレスコッティらによって開発されたケア技法、“ユマニチュード” [c] 2026 Cinéfrance Studios – Arte France Cinéma – Office Shirous – Bitters End – Heimatfilm – Tarantula – Gapbusters – Same Player – Soudain JPN Partners

マリー=ルーは介護施設「自由の庭」でディレクターを務めています。彼女は、介護士や看護師の上に立ち、この施設の介護の方針を決める権限を持つポジションにあるようです。そして、彼女は“人間らしくケアすることによる介護”、ユマニチュードを本格的にこの施設に導入しようとしています。もちろんよいことです。けれど、この方法は、経済的な効率・採算性の観点から見ると、かなり無理がある。その無理を押し通そうとすると、働いている介護士や看護師らに大きな負担を強いることになり、その不満はすでに出はじめています。ソフィ(マリー・ビュネル)というベテラン看護師はマリー=ルーに異を唱えます。ソフィはユマニチュードに反対なわけではなく、現状ではスタッフらの犠牲の上にしか成り立たないと主張しているのです。

『カッコーの巣の上で』はアカデミー賞にて作品賞をはじめ主要5部門を独占したジャック・ニコルソンの代表作の一つ [c]Everett Collection/AFLO
『カッコーの巣の上で』はアカデミー賞にて作品賞をはじめ主要5部門を独占したジャック・ニコルソンの代表作の一つ [c]Everett Collection/AFLO

このあたりを振り返ったとき、僕は精神病院を舞台にしたある映画を思い出しました。『カッコーの巣の上で』(75、ミロス・フォアマン監督)は、入居者を画一的に管理しようとする病院側の体制とそれに反逆しようとする男を描いた作品で、精神病を偽って入居してきた囚人のマクマーフィー(ジャック・ニコルソン)と管理体制を維持しようとする看護婦長ラチェッド(ルイーズ・フレッチャー)との対立が描かれます。当時、このドラマは管理社会の縮図として捉えられ、マクマーフィーは人間性を主張する英雄として、看護婦長はそれを抑圧しようとする非人間的な悪漢として語られていました。ところが、公開からすこし経ったあと、このような見方にまったく異なる視線を投げかけた識者が現れました。詩人の谷川俊太郎が、臨床心理学者の河合隼雄との対談で、こんな発言をしたのです。

引用----

ぼくはちょっと違う見方をしていまして、というのは、うちに恍惚老人が一人いるんです。恍惚老人というのはご承知のとおり、ある意味で精神病に近い状態でしょう。 そういう老人と毎日顔をつき合わせて暮らしていて、一人の人間が自分の容量の限界を意識したら、ある程度相手を非人間的に扱わないと、自分が破滅するという状況があると思うんです。だからぼくは、その映画の看護婦がああも冷酷にならざるを得なかったというところに、精神を病んだ人たちを扱う上でのむずかしい問題があるんじゃないかということを、わが身に引きつけて思って、むしろ看護婦のほうに同情したようなところがあるんですね。

(河合隼雄・谷川俊太郎「魂にメスはいらない ユング心理学講義」講談社+α文庫より)

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谷川が恍惚老人という言葉で表現しているのは、まさしく認知症を患った高齢者でしょう。そして、それに続く谷川の感想は、ソフィーの主張そのものではないでしょうか。入居者をモノ(と言えば言い過ぎであるなら動物)として扱って処理すれば効率は上がる、人間として丁寧なケアを施せば採算がとれず、従業員らを犠牲にして実行せざるを得ないという二律背反の中にマリー=ルーはいるのです。

マリー=ルーの問いを受けて、真理は自らの病状について舞台上で告白する [c] 2026 Cinéfrance Studios – Arte France Cinéma – Office Shirous – Bitters End – Heimatfilm – Tarantula – Gapbusters – Same Player – Soudain JPN Partners
マリー=ルーの問いを受けて、真理は自らの病状について舞台上で告白する [c] 2026 Cinéfrance Studios – Arte France Cinéma – Office Shirous – Bitters End – Heimatfilm – Tarantula – Gapbusters – Same Player – Soudain JPN Partners

そんな彼女は、ひょんなことから演出家の真理と出会い、彼女が作・演出を務めた舞台を見に行って感銘を受けます。上演後のQ&Aで真理はステージ4の癌を患っていること、「急に具合が悪くなるかもしれない」と医者に告げられたことを話します。ん? これは考えてみればおかしなことですよね。急に具合が悪くなるのかもしれず、さらに「そうなったら、あとは早い」とまで言われているのですから、パリになどいないで、主治医のそばで寝起きし、すぐに連絡が取れるような体制を整えているべきでは? ――そうだな、と思ったら、あなたは冒頭近くで書いた「確率論を装った〈弱い〉運命論」を受け入れていることになります。女優のアンジェリーナ・ジョリーは、遺伝子検査で遺伝子の変異が見つかり、その変異データに基づいて医師が算出したリスクを受けて、乳房切除手術を選択しました。これが「〈弱い〉運命論」の受け入れなのかどうかは微妙なところですが(ジョリーはひょっとしたら、確率論を主体的に乗り越えようとしたのかもしれません)、確率論的な未来が、健康な身体にまで介入を要求するようになっている例ではあると思います。ともあれ、原作者の宮野真生子はこのような「〈弱い〉運命論」を、九鬼周造の哲学のキーワードである“偶然性”を用いて突破しようと試みます。

人を別の生へと導く“偶然性”

智樹がステージに上がっても、中断することなく舞台は続いていく [c] 2026 Cinéfrance Studios – Arte France Cinéma – Office Shirous – Bitters End – Heimatfilm – Tarantula – Gapbusters – Same Player – Soudain JPN Partners
智樹がステージに上がっても、中断することなく舞台は続いていく [c] 2026 Cinéfrance Studios – Arte France Cinéma – Office Shirous – Bitters End – Heimatfilm – Tarantula – Gapbusters – Same Player – Soudain JPN Partners

僕は、濱口監督が真理を演出家として設定したのは、ただ身体性を持たせるためではなく、この偶然性を映画内演劇の中で生み出そうとしたからだと捉えています。会場には、演者の吾朗(長塚京三)の孫である智樹(黒崎煌代)がいる。彼は重度の自閉症を患っています。なので、予期せぬ行動を取り、舞台に上がってきたりする(かもしれない)。起こるかもしれないし、起こらないかもしれない磁場が、場内に作られています。また、観客に渡されたタンバリンなどの打楽器が、思い思いのタイミングと強弱で鳴らされることが、そのまま劇中の音楽となっていることもそうだと言えるでしょう。もうひとつ、単なる偶然とは思えないような偶然が起こります。ふたりが川沿いを歩いていると、ポトリと鳩の糞が落ちてくる。まあ、あるといえばある。けれど、それが真理とマリー=ルーの頬と額にほぼ同時に落ちたというのは、起こらないとは言えないけれど、まずは起こらないことでしょう。また、真理が午睡している部屋の窓が開いていて、そこから鳩が舞い込んでくるシーンがあるのですが、この鳩はあの糞を落とした鳩じゃないかと思ったりもしました。ともあれ、偶然の出会いは、ふたりを存在論的に変えはじめます。いささか我流な解釈で専門家には怒られるかもしれませんが、九鬼周造の「偶然性」は、単なるランダムな出来事ではなく、必然的な生の流れに亀裂を入れ、人を別の生へと開く契機だと僕は理解しています。

笑いながら、お互いの顔を拭いあう真理とマリー=ルー [c] 2026 Cinéfrance Studios – Arte France Cinéma – Office Shirous – Bitters End – Heimatfilm – Tarantula – Gapbusters – Same Player – Soudain JPN Partners
笑いながら、お互いの顔を拭いあう真理とマリー=ルー [c] 2026 Cinéfrance Studios – Arte France Cinéma – Office Shirous – Bitters End – Heimatfilm – Tarantula – Gapbusters – Same Player – Soudain JPN Partners

運命を規定する“構造”を揺さぶるほどの出会い

さて、マリー=ルーは真理を介護施設「自由の庭」に誘い、真理はマリー=ルーの夜勤の合間に資本主義論を語り始めます。資本主義が都市化を生み、その外に広がる自然を市場化し、それを食い尽くしてしまうと、資本の膨張システムである資本主義は限界を迎える。それを打破するために残る手段は戦争だけだ、などと語り合う。この資本主義論自体に目新しいところはありませんが、マリー=ルーが“構造”という言葉を持ち出し、自分たちが構造に囚われていることこそが問題だという主張には、興味を惹かれました。

構造とはそこに生きる私たちを規定するものです。意味も、欲望も、アイデンティティも、すべて構造によって配置され、「私」が構造を構築するのではなく、構造が「私」を規定する――これが構造主義の根底にある考え方です。そして、ポスト構造主義が登場し、構造主義への批判や修正は数多く試みられてきましたが、しかし、なお私たちは、構造から完全には逃れられていないのです。マリー=ルーの“欲しいもの”は具体的にはユマニチュードの本格的な実践であり、これは抽象的なレベルでは、最後の時まで人間的な生をまっとうできる社会をつくることです。けれど、どうあがいても、構造は変わらない。なぜなら、その構造に力を与えているのが資本主義だからです。マリー=ルーが“欲しいもの”を手に入れるためには、マネーが必要です。ユマニチュードによるきめ細かなケアの実現は、今よりずっと多くのスタッフを要請する。しかし、マネーは資本主義(市場原理)に則って動き、それが構造を作っている。そして、構造の中で市場の合理性にそぐわない“欲しいもの”は押しつぶされていく……。

【写真を見る】夜明けの山中で、マリー=ルーは真理に「決定的な問い」を投げかける [c] 2026 Cinéfrance Studios – Arte France Cinéma – Office Shirous – Bitters End – Heimatfilm – Tarantula – Gapbusters – Same Player – Soudain JPN Partners
【写真を見る】夜明けの山中で、マリー=ルーは真理に「決定的な問い」を投げかける [c] 2026 Cinéfrance Studios – Arte France Cinéma – Office Shirous – Bitters End – Heimatfilm – Tarantula – Gapbusters – Same Player – Soudain JPN Partners

しかし、それでも、ふたりの出会いは構造を揺さぶりはじめます。マリー=ルーはソフィに謝罪し、ロードマップを見直すことを表明します。そして、ここに真理がからんでくる。彼女はアニマーターという役割で施設の中で活動しはじめ、ケアする側とケアされる側の境界線を溶かしはじめる。そして、この流れは、彼女の具合が急に悪くなっても止まりません。いったん京都に戻った彼女は、主治医に、「確率論を装った〈弱い〉運命論」に従って合理的に行動することを勧められますが(このようなサジェスチョンも構造の一部です)、マリーとともにパリに戻る。そして、ラスト近くの「自由の庭」での公演では、ケアする側とケアされる側がかぎりなく曖昧になるのです。

偶然性とは、偶然に出会うことによって、生き直すこと、自己を再生することではないでしょうか。マリー=ルーとの出会いは彼女に「延命」をもたらしはしなかった。けれど、彼女との出会いによって真理は再生した。不治の病に侵されたヒロインに僕は再生の物語を見たのです。

文/榎本 憲男

[c] 2026 Cinéfrance Studios – Arte France Cinéma – Office Shirous – Bitters End – Heimatfilm – Tarantula – Gapbusters – Same Player – Soudain JPN Partners

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