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日本公開が決定! チャーリーXCX × A24新作映画『the moment/ザ・モーメント』はどこまでが真実?

  • 2026.4.25
A24

2024年、アルバム『brat(ブラット)』の世界的ヒットと、それに続く社会現象“ブラット・サマー”で時代の寵児となったチャーリーXCX。その熱狂の裏側を描くA24映画『the moment/ザ・モーメント』は、本人が主演し、自らアイデアも提供した話題作。2026年6月5日より日本でも劇場公開されることが決定した。

本作の監督を務めるのはチャーリーのMVでもタッグを組んできた映像作家エイダン・ザミリ。初のアリーナツアー、業界からの過剰な期待、ブランド案件、スター像の押しつけ――劇中で描かれる混乱は、どこまで現実なのか。作品の日本公開を前に、そのリアルと脚色の境界線を読み解いていく。

※記事内に一部ネタバレを含みます。

『the moment/ザ・モーメント』の冒頭、ストロボライトが点滅するより先に、ひとつの注意書きが画面に映し出される。「ライセンス上の都合により、作中に登場する一部の人物名および企業名を変更しています」。この、法的配慮としてはどこかユーモラスな一文の直後、床の上でもだえるチャーリーXCXの混沌とした映像が映し出される。 A24によるこのモキュメンタリーでチャーリーは本人役として出演し、彼女が経験した非常にリアルで、しかも世間に広く知られた時期をあらためて描き出した。いくつかの場面や名前が変更され、フィクションとして脚色されていたとしても、その奥にある感情は紛れもなく本物だ。

物語は、アルバム『brat』が世界的ヒットとなり、社会現象“ブラット・サマー”で一躍スターダムを手にしたチャーリーが、その後初となるアリーナ単独ツアーの準備を進めるところから始まる。ブームの熱量を逃すまいと、所属レーベルはコンサート映画の制作を希望。彼らは、チャーリー本人の十分な了承を得ないままこれまで数多くのポップスターのドキュメンタリーを手がけてきたという映画監督、ヨハネス(アレクサンダー・スカルスガルド)を起用する。しかし、チャーリーはすでにクリエイティブ・ディレクターのセレステ(ヘイリー・ベントン・ゲイツ)と企画案を検討している段階だった(セレステはチャーリーの実際のクリエイティブ・ディレクターであるイモジーン・ストラウスをモデルにしたキャラクター)。

ツアー開始が近づくにつれ、ヨハネスとセレステは真っ向から対立し、チャーリーはその仲裁役となり、最終的にはどちらを選ぶか決断を迫られることになる。当初はヨハネスを拒絶していたチャーリーだったが、やがて彼の場違いにも思えるアイデアに心を動かされていく。長いあいだ、切実なほどスターの座を求め続けてきた彼女にとって、彼が提案する仕掛けこそが、自分の“瞬間”をもう少しだけ長く続かせてくれる鍵なのかもしれない、と思い始めるのだ。たとえ、あの象徴的ストロボ演出を光るリストバンドに置き換えたり、“brat”グリーンのカーテンを虹色のライトショーへ変えたりすることになったとしても――。

チャーリー自身の『brat』後の実体験が着想源に

チャーリーXCXとアレクサンダー・スカルスガルド。『the moment/ザ・モーメント』より。 A24

現実のチャーリー自身も、2024年に急激なブレイクを果たした頃、どこか似た状況に置かれ、それが本作の着想源となったという。『the moment/ザ・モーメント』が初上映されたサンダンス映画祭で、彼女は『バラエティ』誌に次のように語っている。「ブラット・ツアーを題材に、もっとオーソドックスなツアー映画を作らないかという話を持ちかけられた。でもそれはレーベルのためにアルバムを延命させる方法のように感じられて。まったく乗り気になれなかった。私自身は伝統的なフォーマットをひっくり返すことにしか興味がなかったから」。彼女はさらにこう続けた。「アルバム期間中に自分が経験したことを、長編作品としてどうやって違う形で表現できるかを考えていた。そしてたどり着いたのが、音楽業界だけでなく、自分自身をも風刺するこの形だった。ポップカルチャーや名声、そして作品を世に出した瞬間に失われていく芸術性について語る入り口になると思った。それはまるで、アイデアがどんどん生まれる豊かな土壌のようだった」

ヨハネスというキャラクターについて、チャーリーは『ハリウッド・リポーター』誌で「特定の実在人物がモデルというわけではない」と語っている。ただし、ある“典型”を示したという。「こういう人に何度も会ってきた。自分が分かったつもりでいる典型的なタイプ。でも実際には彼らは全然分かってない……確かに商品をパッケージ化して売る術には長けてる。でも彼らはそれを、クリエイティブという仮面をかぶってやってる」

アートと資本主義の衝突。笑いとともに暴く、成功の代償。

A24

完成した作品は、ブラックユーモアに満ち、ときに痛々しいほどシビアなスター像を描き出している。メインストリームの成功を手にしたあと、自分のビジョンをどう守るのか。一定の見た目でいること、大衆に受け入れられることへの期待。より多くの利益を得て、さらに成功するために企業スポンサーと組まなければならないという圧力。そうした葛藤が本作では描かれる。映画の公式プレスノートで、チャーリーはこう語っている。「これは、アートと資本主義が交差する瞬間についての作品だ」。作中で彼女は銀行と組み、クィアファン向けの“brat”クレジットカードを立ち上げ、その結果、米国連邦通信委員会(FCC)とのトラブルに発展する。もちろん彼女は商業主義のプレッシャーを批判しながらも、結局そこに加担してしまう自分自身のことも、しっかり笑いの対象にしている。ある場面でレーベル社員がこう言い放つ。「彼女は共産主義者なんかじゃない。だって『H&M』の広告をやってるんだから」

映画出演のオファーを受けたとき、チャーリーは「360」のMVを手がけた監督エイダン・ザミリに、名声について思うことを書き送った。ザミリはそのメモには、「人生の半分をかけて追い求めたものを手にしたときの複雑さ、そしてそれがどれほど脆く、儚いものかを実感する感覚」が表れていたと『ハリウッド・リポーター』誌で語った。「チャーリーは、多くの人なら怖くて口にできないことでも率直になれる人です。彼女自身は、それを恐れていないのだと思います」

その率直さこそが、このドキュメンタリー映画においても最大の強みになっている。チャーリーは実際にはカードを発行していないし、ツアーのリハーサルを抜け出してイビサ島のスパへ逃げたわけでもない。Amazon向けのコンサート映画を作ったわけでもない。それでも、そうした冗談を通じて彼女が伝える感情は本物だ。彼女の告白のいくつかは、弱さを見せる、とうたった多くのセレブ・ドキュメンタリーより、むしろ生々しく響く。彼女は、自分が“ブラット・サマー”以前にはニッチな存在と見なされていたこと、そして今は周囲がその成功に便乗しようとしていることを冷静に理解している。そして気取ることなく、その成功は自分が何年も望み、追い続けてきたものだったと認める。だからこそ、ようやく手にした今、それが突然すべて消え去り、自分が真っ逆さまに落ちていくことを恐れているのだ。「Sympathy Is a Knife」で彼女が歌うように、「次に人々が望むのは、私が底まで落ちる姿を見ること」なのだから。

『the moment/ザ・モーメント 』は“brat”の続編ではなく、卒業宣言

A24

最近行われた上映後の質疑応答で、彼女はこう語っている。「もちろん、この映画の中で私がしているような決断を現実で実際にしたわけじゃない。でも、より広いオーディエンスに届くようになって学んだのは、私もこうした決断をしていた可能性があるということ。多くの人がそれぞれ違う方向へ引っ張ろうとしてくると、本当に自分を見失いそうになる」

『the moment/ザ・モーメント』は、アルバム『brat』そのものを映し出す鏡のようでもある。クールな佇まいや、クラブ、ドラッグ、タバコといったモチーフの奥には、エンターテイナーとして、そしてひとりの女性としての不安が隠されている。作中でのカイリー・ジェンナーとの気まずい遭遇シーンも印象的だ。彼女は子どもを持つ億万長者のカイリーに、おずおずと「私、子どもいなくて」と告げる。その場面は彼女の「I Think About It All the Time」を思い出させる。家庭を持つべきか悩み、時間切れになることへの恐れを打ち明ける楽曲だ。時代に取り残されまいとする執着は、「Rewind」で「自分は商業的成功に値する人間なのか」と問いかける歌詞にも通じる。あるいは、「I Might Say Something Stupid」で「私は有名人だけど、完全にそういうわけじゃない」と告白する一節にも。同じように『the moment/ザ・モーメント』で、スクリーン上のチャーリーが「自分が何を望んでいるのか分からない!」と叫ぶ場面や、名声への相反する感情をセレステにボイスメモで送る場面は、オフスクリーンのチャーリー本人が観客へ直接語りかけているように感じられる。

物語の終盤、チャーリーはヨハネスの演出に屈し、セレステに謝罪する。ラストシーンで流れるのは、彼女がAmazonのために最終的に完成させたドキュメンタリーの予告編だ。そこにはグリッター、バックダンサー、紙吹雪があふれている。それは、2年前に現実のチャーリーが届けたブラット・ツアーとはまったく別物だ。作中のチャーリーが語るように、もっとも純粋な形で“brat”を自ら壊すことこそ、この時代と、その象徴だったものを手放す方法だ。それは追い続けることからの解放でもある。この現象はもはや他人のものになった。「だって私にとっては、もう終わったことだから」と、彼女は穏やかに言う。現実のチャーリーも、プレス資料の中でこう述べている。「これは“brat”の修正主義的な歴史です」。別の世界線ではAmazon版の映画が実際に作られていたかもしれない。けれど、その世界でもこの世界でも、彼女が伝えていることは同じだ。“brat”は終わった。彼女のその瞬間は確かにあった。そして今、次の章へと進んでいるのだ。

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