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【豊臣兄弟!】謎多き人物・明智光秀(要潤)の出自は? 足利義昭(尾上右近)との出会いはいつ?

  • 2026.4.10

【豊臣兄弟!】謎多き人物・明智光秀(要潤)の出自は? 足利義昭(尾上右近)との出会いはいつ?

2026年NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」。当時の文化や時代背景、登場人物について、戦国武将や城、水軍などに詳しい作家・鷹橋 忍さんが深掘りし、ドラマを見るのがもっと楽しくなるような記事を月1回お届けします。今回のテーマは、足利義昭(よしあき)と明智光秀(みつひで)についてです。

大河ドラマ「豊臣兄弟!」で尾上右近さんが演じる足利義昭と要潤さんが演じる明智光秀は、第10回で登場して以来、物語のカギとなっている人物です。今回はこの二人の出会い、そして、小栗旬さんが演じる織田信長へ光秀が鞍替えしたあたりまでの流れをご紹介します。

足利義昭

足利義昭は、天文6年(1537)11月3日、室町幕府第十二代将軍・足利義晴(よしはる)の次男として京都で誕生しました。天文9年(1540)生まれとされる豊臣秀長より3歳年上、天文3年(1534)生まれの織田信長より3歳年下となります。なお、豊臣秀吉の生年には諸説ありますが、天文6年(1537)説をとると、義昭と秀吉は同じ年です。

義昭の母は、関白・近衛尚通(このえひさみち)の娘(実名は不明。法名は慶寿院)です。第十三代将軍となった足利義輝は同母兄で、義昭より1歳年上となります。

足利将軍家では、跡継ぎ以外の男子は仏門に入るのが慣例でした。義昭も天文11年(1542)に、叔父の近衛稙家(たねいえ/近衛尚通の子)の猶子(ゆうし)となり、奈良興福寺の一乗院へ入室しています。義昭は覚慶(かくけい)と称し(ここでは「義昭」で統一)、永禄5年(1562)には一乗院門跡となっています。

幽閉と脱出

永禄8年(1565)5月19日、義昭の運命を大きく変える事件が勃発します。畿内の有力者である三好氏や松永久通(ひさみち/竹中直人さんが演じる松永久秀〈ひさひで〉の嫡男)らによって、義昭の兄である第十三代将軍・足利義輝(よしてる)が殺害されてしまったのです。この事件は「永禄の変」と呼ばれています。

永禄の変後、義昭の弟・鹿苑院(ろくおんいん)主の周暠(しゅうこう)も殺害されましたが、義昭は松永久秀に保護され、命を奪われることはありませんでした。義昭は久秀の監視の下、一乗院内に幽閉されました。

ですが、兄・義輝の近臣で、幕府再興を図る亀田佳明さんが演じる細川藤孝(ふじたか)や一色藤長(ふじなが)などの助力を受け、同年7月28日、一乗院から抜け出すことに成功します。義昭の脱出には、越前国守護・鶴見辰吾さんが演じる朝倉義景(よしかげ)の働きかけもあったといいます。義景は早い時期から義昭に協力的でした。

室町幕府第十五代将軍へ

一乗院脱出後、義昭は東へと逃れ、伊賀を経て近江国甲賀郡和田(滋賀県甲賀市)に入りました。この地で義昭は、諸国の大名に、上洛の協力を求める文書を発給しています。

同年11月には近江国野洲郡矢島(滋賀県守山市)に移り、将軍職を継ぐために翌永禄9年(1566)2月17日に還俗し、義秋(よしあき)と名を改めました。

同年9月には、朝倉義景の本拠・越前一乗谷(福井市)に迎え入れられています。

永禄11年(1568)4月には元服し、義昭と改名しました。同年7月には、義昭の上洛要請を受け容れた織田信長のいる岐阜へ向かっています。同年9月、信長は義昭を奉じて上洛しました。10月に義昭は京都周辺の攻略を果たし、念願の征夷大将軍に任じられています。第十五代将軍・足利義昭を頂点とする幕府のはじまりです。

明智光秀

江戸時代後期に編纂された『明智軍記』などによれば、光秀は美濃国守護・土岐氏の一門の明智氏の出身だとされます。

弘治2年(1556)に起きた美濃斎藤氏の内乱(麿赤兒さんが演じた斎藤道三と、彼の子であるDAIGOさん演じた斎藤義龍の争い)によって、明智氏の本拠・明智城(岐阜県可児市)をおわれると、越前の朝倉義景のもとに逃げ延びました。

光秀は長崎(福井県坂井市)の称念寺(しょうねんじ)で10年を過ごした後に、足利義昭に仕えるようになったといいます。ですが、同時代の史料からは、明智光秀の前半生はほとんどわかりません(以上、鈴木将典「明智光秀––––日本史上で最も有名な「裏切り者」の実像」柴裕之編『戦国武将列伝 別巻1 織田編』所収)。

生年は享禄元年(1528)説、永正13年(1516)説などがありますが、記載された同時代の史料がないためはっきりしていません。

両属の家臣

光秀がいつから足利義昭に仕えるようになったのかも不明ですが、越前一乗谷に滞在中の義昭と細川藤孝に出会い、義昭の「足軽衆」として活動をはじめたと考えられています(柴裕之編『図説 明智光秀』)。光秀は義昭の上洛を果たすために、細川藤孝とともに力を尽くしました。

永禄11年(1568)7月、義昭が信長を頼って美濃へ移ると、光秀も付き従ったようです。同年10月に義昭が第十五代将軍に就任すると、光秀も京都に入りました。

永禄12年(1569)には、秀吉ら信長の家臣ともに、京都支配の実務担当者に抜擢され、将軍・義昭の家臣としてだけではなく、信長の政務官としての経験も重ねていきます。この時期の光秀は義昭の家臣であり、信長の家臣でもあるという両属の状態でした(金子拓『増補 信長家臣明智光秀』)。義昭と信長の間を調整するという、他の織田家の部将では果たせない役割を担い、特別な存在だったといいます(福島克彦『明智光秀 織田政権の司令塔』)。

元亀2年(1571)9月の織田軍による比叡山焼き討ちにも、光秀は積極的に関与したとされます。信長は光秀を高く評価し、比叡山焼き討ち後、光秀は信長から近江国志賀郡を与えられ、京都の比叡山領の管理を任されました。

やがて、義昭と信長は対立します。元亀4年(1573)、義昭が挙兵すると、光秀は義昭を見限り、信長に味方しました。同年7月18日、義昭は降伏し、河内に逃れます。これをもって室町幕府は実質的に滅亡し、光秀は信長の部将として、頭角を現わしていくことになります(鈴木将典「明智光秀––––日本史上で最も有名な「裏切り者」の実像」)。

光秀が本能寺の変を起こすのは、もう少し先の話です。

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