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音楽家たちが挑んだ“前代未聞のストライキ” 給与ゼロでも演奏を止めなかったワケ

  • 2025.12.19
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※Google Geminiにて作成(イメージ)

音楽が「闘争」になった冬

——第九の歓喜が、怒号に変わった日

1971年、12月。街がクリスマスの華やぎと、年末恒例のベートーヴェン『第九』の歓喜に包まれていた頃。日本を代表するオーケストラの一つ、日本フィルハーモニー交響楽団(日フィル)に激震が走った。

スポンサー企業からの突然の「支援打ち切り通告」。それは、事実上の「解散宣告」であり、芸術家たちに対して突きつけられた、あまりにも冷徹な経済合理性の刃だった。通常、ストライキと言えば「業務の放棄」を意味する。しかし、彼らが選んだのは逆の道だった。「演奏をやめないこと」こそが闘いである。

これは、日本の音楽史上最も長く、泥沼と呼ばれた争議の記録ではない。音楽家たちが企業の論理に抗い、自らの存在意義を「市民」の中に問い直した、誇り高き再生の物語である。

企業メセナの限界と「解雇」の衝撃

1956年の創立以来、日フィルはフジテレビと文化放送という巨大メディアのバックアップを受け、「大衆のための名門」として急成長を遂げていた。しかし、その蜜月は唐突に終わる。

経済不況とメディア再編の波の中で、親会社はオーケストラを「採算の合わないお荷物」と判断した。長年積み上げてきた芸術的成果も、赤字という数字の前には無力だった。

「明日から来なくていい」。会社員であれば配置転換もあるかもしれないが、楽器だけを手に生きてきた彼らにとって、オーケストラ解散はすなわち「死」を意味する。楽団員たちは猛反発し、全面対決の姿勢を鮮明にした。

演奏という名の“ストライキ”

——分断された仲間と、楽弓に込めた怒り

この争議を悲劇的なものにしたのは、翌1972年に訪れた楽団内部の「分裂」だった。財団の解散に伴い、指揮者・小澤征爾氏を中心とするグループ(後の新日本フィルハーモニー交響楽団)が離脱したのだ。

共に音を紡いできた仲間が、方針の違いから袂を分かつ。練習場には重苦しい空気が張り詰め、音楽家たちは「芸術か、生活か、団結か」という究極の選択を迫られた。

残留した楽団員たちは、給与が支払われない中でも演奏を続けた。彼らは街頭に立ち、公民館を回り、ビラを配った。「私たちは演奏したい」。その悲痛な叫びを乗せた音色は、皮肉にも、平和なコンサートホールで奏でられる音楽よりも遥かに鬼気迫る、魂の震えを帯びていたという。

“市民とともに”歩むという覚悟

——聴衆がスポンサーになった瞬間

企業に見捨てられた彼らを救ったのは、他でもない「名もなき聴衆」たちだった。「日フィルの灯を消すな」。主婦や学生、労働者たちが立ち上がり、「日本フィルハーモニー協会」を結成。数百円、数千円のカンパが集まり、それが彼らの活動資金となった。

それまでクラシック音楽は、どこか高尚で、一部の富裕層やインテリのものという側面があった。しかし、この争議を通じて、日フィルは文字通り「市民のオーケストラ」へと生まれ変わる。企業におんぶに抱っこだった楽団が、聴衆一人ひとりの顔を見て、その支援に感謝し、音を届ける。真の信頼関係がそこに芽生えたのだ。

静寂に勝った「連帯」の旋律

1971年から始まったこの闘いは、裁判闘争を含めると10年以上にも及ぶ長い道のりとなった。しかし、あの日フィル争議とは何だったのか。

それは、日本の芸術文化が「企業からの与え物」から「市民が支える公共財」へと自立するための、痛みを伴う通過儀礼だった。

現在、日本フィルハーモニー交響楽団は「市民とともに歩むオーケストラ」というスローガンを掲げている。それは単なる宣伝文句ではない。1971年の冬、凍える手で楽器を握りしめ、権力や経済論理よりも「音楽の力」を信じ抜いた先人たちが勝ち取った、血と汗の結晶なのだ。

解散通告という絶望的な静寂を、彼らは不屈の演奏で塗り替えた。その力強い旋律は、形を変え、今も私たちの街に響き渡っている。


※本記事は執筆時点の情報です