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「セーブ王・角盈男選手」の後、「平成の大エース・斎藤雅樹選手」の前に、巨人の背番号「11」を背負った選手は誰?

  • 2024.5.18
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TRILL作成

プロ野球において、背番号「11」は投手が背負うことが多い番号。読売ジャイアンツにとっても「11」は投手の系譜として、数々の名投手が受け継いできました。

1978年、1981年から1989年まで「11」を着けた角盈男選手は、新人王や最優秀救援投手(現在の最多セーブ)を獲得し、長年巨人のブルペンを支えた名リリーバー。1990年から2001年まで着用した斎藤雅樹選手は、NPB最多タイの沢村賞3度、NPB最多記録の5度の最多勝、11連続完投勝利、シーズン7完封のNPB記録を持つ伝説の投手です。

では、角盈男選手の後任、1978年から1980年にかけて背番号11をつけていた斎藤雅樹選手の前任は一体誰でしょうか?

ぜひ考えてみてください!

「ライオン丸」の愛称で親しまれた助っ人外国人

ジョン・シピン選手でした!

MLBを経て、1971年に大洋ホエールズに入団。背番号「55」を着用します。高い守備力と、打率3割近くを安定して記録する、高い打撃力を武器に活躍し、ベストナインとダイヤモンドクラブ賞(現在のゴールデングラブ賞)を2年連続で獲得。

1978年に読売ジャイアンツに移籍すると、背番号「11」を着けます。チームの中心打者として活躍し、1978年シーズンには、自己最高となる打率.315という成績を残しました。

二塁手として高い守備力に定評があり、大洋ホエールズ時代には、リーグ屈指の高い併殺率を誇りました。

角盈男選手(1978、1981~1989)から、ジョン・シピン選手(1978~1980)、斎藤雅樹選手(1990~2001)に受け継がれていった背番号「11」。打者が背負うこともありましたが、近年では投手が多く着用しています。今後も投手の系譜として受け継がれていくのでしょう。

読売ジャイアンツの主な背番号11の選手

・別所穀彦(1950~1962)

・角盈男(1978、1981~1989)

・ジョン・シピン(1978~1980)

・斎藤雅樹(1990~2001)

・久保裕也(2003~2015)


※2023年5月7日時点での情報です
※背番号歴は選手の現役時代のみを記載しています。
現役・引退をした選手に関わらず敬称は「選手」で統一しています。

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