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【0→14→5→17→23→15】この歴代背番号はだれ?投げては20勝、打っては46本塁打135打点を記録した20世紀の"二刀流"

  • 2024.3.18

【問題】この歴代背番号はだれ?

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NPBでは、多くの球団が特別な背番号を永久欠番に指定しています。では、多くの球団が永久欠番を持っており、ある球団では、背番号10と背番号15が現在永久欠番となっています。特に今回出題する選手は球団の顔として知られ、野球界のレジェンドの中でも特に著名な人物です。

彼の現役時代の実績や活躍はあまり語られることがありませんが、その存在の凄みは、永久欠番で讃えられるほどの偉業を成し遂げたことが物語っています。

では、いかにしてスーパーレジェンドとしての地位を築き上げたのか。今回は、歴代背番号と共にプレースタイルや功績についても見ていきましょう。

ヒント...

・背番号が計6回変わった選手です。

・打席に入る前、純白のハンカチで汗を拭く姿が人気でした。

・投げては20勝、打っては46本塁打の二刀流でもありました。

・背番号15は球団初の永久欠番となりました。

正解は...

西沢道夫選手でした!

第二日野高等小学校を卒業後、名古屋軍のテストを受けて齢14歳で契約。背番号は、異例の「0」から始まり、1937年の1年間で「0」「14」「5」と計3回も変更。翌年には背番号「17」を背負いました。

最初は養成選手としてのプレーでしたが、16歳4日という若さで公式戦に出場。これは、今も最年少出場記録です。1938年に春季と秋季で3勝ずつを挙げ、徐々に頭角を現しました。1940年には20勝9敗、防御率1.92という素晴らしい成績を残し、一躍有名選手に。

当時では珍しく182cmという長身で速球投手として活躍しました。1942年5月には大洋ホエールズの野口二郎投手との投げ合いで、延長28回を完投し世界記録を樹立。また、同年7月には阪急戦でノーヒットノーランも達成しましたが、その年は意外なことに7勝に終わりました。その後、現在の千葉ロッテマリーンズの前身であるゴールドスターに移籍し、背番号「23」を身につけ、打者としても活躍。

ゴールドスターでは、肩の故障のため投手から野手に転向し、一塁手として活躍。1948年には背番号を「15」に変更。同年は16本塁打を記録し、打者の才能を発揮しました。翌年は中日ドラゴンズに入団し、打率.309、37本塁打、114打点という素晴らしい成績を残しました。この年には11試合連続試合打点も記録し、日本記録を達成。1950年には、打率.311、46本塁打、135打点を記録し、現在も日本記録として残っている5本の満塁ホームランを打ちました。

その功績をたたえて、1959年3月15日、背番号15は中日ドラゴンズにおいて初の永久欠番に指定されました。現在でも、服部受弘選手の背番号10と西沢選手の背番号15の2つだけが、中日ドラゴンズの永久欠番として指定されています。


※情報は3月12日時点のものです。

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